怠惰な男と穏やかなバッファロー

水戸 連

第1話

 男には三分以内にやらなければならないことがあった。

 

 破壊しつくされたレンガ造りの部屋で淡々と報告書にペンを走らせる。

 彼に許された残り時間はたった三分。けれど、ものの数秒で彼は報告書をかき上げてしまった。


「バッファローに破壊しつくされました。終わり」


 渡された上司も「やっぱりな」とだけつぶやいてすぐにカバンに放り込んでしまった。


「近頃のバッファローの群れによる被害、どうにかならんのかね」


 上司のため息交じりの声に、男はマスケット銃の手入れをしながら首を横に振った。


「無理でしょう。あいつらすべてを破壊しつくすんですもの。ほら、その辺の酒屋だって何もかも壊されてますけど何も言いませんよ」


 酒屋の店主はまき散らされたワインの樽を見て、半ば呆然としながらも、壊れた家屋の中から無事な商品を少しでも見つけ出そうとしていた。

 もっとも、全てを破壊しつくす彼らに巻き込まれたせいか、必死の探索があっても何の成果も得られないようではあった。


「とはいってもな、最近じゃ死人が出てるんだ、我々も何もしませんでした、と言うわけにはいかん」


 彼らが通った後には破壊の跡だけが残る。

 周知の事実であり、住民たちはまたかと言って壊された民家を健気に直すのが常であった。


 ただ、近頃は人的被害が多く確認されるようになってきた。

 鋭利な角で引き裂かれた後、無残に踏みつけられた死体。

 食い散らかされた後、無残に踏みつけられた死体。

 首だけになった後、無残に踏みつけられた死体。

 バッファローの群れが訪れた後現場に残ったのは、それだけであった。


「なあ、現場の最前線に立つ君から見て、何か……ないのかね。時効問題もある、証拠の一つでも引っ張り出せんか」


 この国の殺人罪の時効は三日だ。

 最近の死体には大臣の親族もいた――それは男の記憶では二日と少し前。上司が焦っているのはそのせいだろう。

 日付が変わってしまえば、時効となってしまうのだ。


 ただし、特別な事由があれば伸びることもある――例えば、確たる証拠が見つかるとか。

 それを踏まえて、男は首を横に振った。


「なあんもありゃしませんよ。いやあ、よく探せば奴らのフンでも落ちてるんじゃないですかね」


 牛に人間の法律なんて適用されはしない。

 ゆえに、牛の証拠など幾ら見つけても無駄なのだ。


「お偉方の敷地にまで影響が出とるんだ」


 王宮が襲撃を受けた、屋敷が破壊された、と言う話は男も聞いている。

 王様がずんずん歩く真っ赤な絨毯まで引っぺがされボロボロにされるほどのありさまだとか。

 しかし、男にとってどうでもいい話だった。


「別にどこが襲われようと関係ないでしょうよ」

「我々のクビに関わってくるんだぞ」

「それでバッファロー共が止まるんならオレァ構いませんけど」


 男は怠惰だった。

 彼が役人になったのも仕事さえしていれば細かな税金だの保険だのといった面倒な手続きを国が請け負ってくれるから。

 お偉方の目に留まって出世しようという欲なんてものはなく、またこの座にとどまるための執着もない。


 クビになれば吟遊詩人にでもなっちまえばいいかな、なんて適当なことを言う日もあった。

 つまり、上司が何を盾に取ろうと餌にしようと、彼の意欲は一切変わらないのであった。

 無意味を悟ってか、上司は深くため息をついた。


「分かったよ。だが君なら何か見つけられるかもしれん。署での仕事は今日はなしでいいから、ここにとどまって証拠を見つけるように」


 上司の提案は男にとってあまり意義のある提案ではなかった。

 男は怠惰であったがゆえに、部下に自身の仕事を押し付けており、職場に戻っても何の仕事もなくのんべんだらりとして居られる腹積もりであった。

 なので、そんな頼まれ方をしても仕事が増えるだけなのである。


「じゃあな、任せたよ」


 男が引き留める間もなく、上司はすたすたと歩き去ってしまった。

 男は追いかけることもできたが、すぐにその足を止めた。

 上司はおそらく『お偉方』とこれまた面倒な話でもするのだろう、そのおこぼれが自分にまで向いては困るな、と思ったが故である。


 それに、男は怠惰ではあるが全くの無責任ではない。

 仕事として受けてしまったからには、せめてもの義理は果たさなければならないな、と考えたのだ。

 もっとも、一行コメントを付け加えれば十分だろ、とも思っていたが。


 男は眼を皿のようにして現場をぐるんぐるんと見回す。

 だが、そこには破壊の山しかない。

 手がかりの一つもありはしない、と上司を見習ってため息をついたとき、ふと視界に道が視えた。

 破壊の路。バッファローが突き進んだ、砕けた家々の連なるがれきの山。

 すべてを破壊されていたが、破壊そのものは道となって続いていたのだ。

 人々はバッファローを恐れ足跡を辿ろうとはしなかった。

 だが、男はさっさと証拠を見つけてしまいたいがゆえに、すぐに追跡した。

 



 男はバッファロー達のもとへ早々にたどり着いた。

 彼らはいつものように破壊をもたらしていて、今は森の木々をドミノのように崩しているところだった。


 それを見て、男は少し苛立った。

 男は怠惰であり、何より無駄なことをしたがらなかった。


 そして、彼らの一心不乱に走り回る行為はただの無駄にしか見えなかった。

 無為な行為に身を染め続ける。

 なんと愚かで無駄なことだろうか、と男は内心で嘲ってもいた。

 そしてすぐに、動物相手にそんなこと考える方が無駄だな、と思い直す。


「我々に何か用かな」


 がひゃん、と嘶きが男の後方から聞こえた。

 男がとっさに振り向くと、四つ足で大地を踏みしめる巨躯がそこにあった。

 紛れもないバッファローだった。

 違うところと言えば、わずかに伏せられた瞳は、男の知るバッファローよりもほんの少し、知性がみえ、そして穏やかだった。


 そして、他の誰も男の視界にはいなかった。

 戸惑い、さらに周囲を見回すが人の影はない。


「せっかく声をかけたんだ、挨拶の一つくらいしてくれてもいいだろうに」


 その低い声がバッファローから発せられ、心なしか悲しみの見える表情になったのを見て、男は認めざるを得なかった。

 バッファローが人の言葉を話している、と。


「……ああ、そうだな。それは無礼だった。おはよう、あるいはこんにちはかな」


 だが男は動揺からすぐに立ち直った。

 バッファローも群れを成す社会性があるのだ、言語能力を発現していてもおかしな話ではない、と自分に言い聞かせたのだ。

 怠惰だからこそ、余計な原因に頭を悩ませなどしなかったのかもしれない。


「ああ、おはよう。ところで君、人間だろう。どうして僕たちの住処である草原に来たんだい?」


 バッファローは理知的な話し方で、穏やかに問う。

 破壊の化身と呼ばれたバッファローの群れの一員とは思えない、優しい声だった。


「そうだな、お前たちがどうして街を壊して、そして人を殺していくのかを調べに来たんだよ」


 思っていたことを口に出してから、男はしまったと口を抑えた。

 お前たちの殺人の証拠を探しに来たのだ、と言われれば、たとえ自明であっても気を悪くするに違いない。


「いいね。存分に調べていくといいよ」


 だが、答えるバッファローの声に波立つものはない。

 待ち構えていたようでもあったし、あるいは憂いが差すようでもあった。


「そうだ、僕からも一つ聞かせておくれよ」


 バッファローの声に男は視線だけを返す。


「君はどうしてそこまでつまらなさそうなんだい」


 その問いに、男は不意を突かれた。

 なんせ、そんな基準で物を考えたことなどもなかったからだ。

 彼にとって、負担が少なくて、容易で、すぐ終わり、そして役に立つものこそが優先順位の対象だった。


 ふと、男は顔を上げた。

 彼の瞳には、楽しそうに草原を駆け、立ちはだかる木々や草花に至るまで破壊しつくすバッファローの群れがいた。


「逆に聞くが、何でお前らは楽しいんだ」

「やってみればわかるよ」


 バッファローは、男を群れへ導くようにのしのしと歩き出した。


「一緒に走れってか」

「ああ」

「何の意味があるんだ、そんなことに」

「僕らの意味が分かるさ」


 男は逡巡した。彼らに混じったところで何も得る物はないかもしれない。

 あるいは、凶暴な彼らに巻き込まれて怪我を負うかもしれない。

 だが、どうせ外から見分するだけでは大した情報を得られる気もしていなかった。

 だから、気まぐれ交じりにこう答えた。


「ああ、少しだけ付き合ってやるよ」


 バッファローはうれしそうに、がひゃん、と嘶いてから群れへと走り出す。

 男は何でこんなことに、と思いながら、四本足の足跡をたどった。

 



 男はバッファローの群れのど真ん中で、共に駆けていた。

 男は心肺をフル稼働させながら、群れの速度に合わせるので精いっぱいだった。

 時速数十キロにも達するバッファロー。その速度で背後から一突きにされれば、命はないだろう。


 人類の限界など軽く超えて、男は全力で恐怖をガソリンに走っていた。

 死にたくない、本能が彼の体をバッファローと張り合えるほどにまで引き上げていた。


 死と生の狭間を繰り返す中、急に男の視界は開けた。

 景色は何も変わっていない。ただの木々が点在する草原だ。


 変わったのは彼だった。

 男は今まで、怠惰だった。

 ゆえに、体育の時間は隅っこでいかに時間をつぶすかだけが課題でしかなく、力の限り体を動かす快感など知る由もなかった。


 そして今、男は風に近づき、空の下にいた。

 澄み渡る空の蒼をいっぱいに肺に取り込んで、新緑の大地を足で受け止める。

 たったそれだけでもずいぶんと心地がいいというのに、なぎ倒されていく障害物が視界の隅を流れていくことのなんと気分の良いことか!


 なぜ彼らがすべてを破壊するのか、それは気分がいいからだ、と肌で理解した男は自然と群れの最前列に躍り出て、バッファローと共に破壊を繰り広げた。

 所詮は人間の力であるからバッファローほどの破壊力はないにせよ、バッファロー達と一体となって動物たちの織り成す自然を破壊の限りで埋め尽くしていた。


 彼はその長躯を活かして高所の障害を破壊し、バッファロー達はその破壊力で硬いものを破壊する、と言う連携すら取れるようになっていた。

 助け合う、互助精神と言う社会性がこの群れの中で形成されていたのだ。


 この大地において、この群れにおいて、男は限りなくバッファローとなっていた。

 彼もまた、全てを破壊しつくすバッファローの群れの一員だった。

 滾る心の熱が、本能へと支配されていく。


 そして、感覚すらもバッファローへと近づく男は気が付いた。

 我々は、アトランダムに動く災害ではない。きわめて有機的な、本能によって動いている。

 群れとなって拡大した知能が、世界のどこかにある自らの本能を刺激する場所を見つけ出して、そこへ進みたくなってしまう。

 我々が目指してしまうもの。それは本能を刺激する紅だ。

 自然の中の動物たちを破壊しつくすのも、血という紅を求めての行動だった。


「――まて」


 バッファローとなりかけていた男の脳を、人間としての思考のシナプスが待ったをかけた。

 同時にその体も停止して、男はバッファローの群れに無防備でさらしてしまう。

 だが、バッファロー達は男を器用に避けて、その進軍を続行した。

 その奇怪さに男は目もくれず、息を整えながら思考を続けた。


 一連の事件、なぜ最近になって人間の被害が出るようになったのか。

 バッファロー達はこれだけ本能に満ちている。彼らが理由をもって町を襲う可能性はないのに、ここ最近は街の被害が急増している。


 それはなぜか。――彼らを誘導する何者かが居たのではないか。


 バッファロー達は紅いものに誘導される。

 もしかしたら世の中にはそうでない種もいるかもしれないが、少なくとも近隣を騒がせるバッファローの群れは紅いものに惹かれるのだ、と男はその身をもって体感した。

 そして、先ほど訪れた現場の中に破壊されたワインの樽があった。

 バッファローに破壊されたのでは、と男は思っていたが、逆ではないか。何者かが事前に破壊しており、紅の道しるべを作って誘導したのではないか。

 さらに、極めつけは破壊されているのが王宮や屋敷と言った場所が多発していること。

 高級な邸宅には必ずと言っていいほどレッドカーペットが敷かれる。それを闘牛士のマントのように見立て、最終的なゴールに仕立て上げたのだろう。


 そもそも、死体の様子がおかしかった。いずれもバッファロー達には踏みつけられているようだったが、それでは説明できない外傷を追っていた。


 鋭利な角で引き裂かれた後、無残に踏みつけられた死体。

 切り裂かれるはずがない。彼らの角は切り裂くためのものではなく、貫くためのものだ。


 食い散らかされた後、無残に踏みつけられた死体。

 食いちぎられるはずがない。バッファローは草食だ。


 首だけになった後、無残に踏みつけられた死体。

 首だけになることは――蹴り飛ばされればあるかもしれないが反証が一つくらいでは結果は揺らがない。


 無残な死体は、バッファローによってつくられたのではなく、犯人がすでに殺した果てだったのだ。

 つまり、犯人像はバッファローの群れを操れるほど動物の扱いに長けており、死体を切り捨て食い散らかしてバッファローの群れに放り出せるほど倫理観のない相手だ。


 そして、何も気づかなかった男は、そんな犯人を野放しにしていたも同然だった。


 そこまで理解して彼は膝をついた。

 この国において、膝をつくのは自らの罪を認めるサインだった。


 ――どうして、ここまで証拠は最初から出そろっていたのに違和感さえ覚えなかったんだ。


 男は怠惰だった。だから、気づけなかった。

 がひゃん、と嘶きが聞こえてきた。


「どうしたんだい。もしかして、辛い思いをさせてしまったかな」


 前方から戻ってきた一頭のバッファローが戻ってきたのだ。

 バッファローは体をかがめると、膝をつく男を下から覗き込んだ。


「ごめんね、もしかしたら僕たちと同じ景色を味わえばすっきりするかな、と思ったんだけど逆効果だったみたいだね」


 男は首を横に振った。


「――違うんだ! オレは、オレにはバッファローになる資格がないんだ!」


 悲痛な、感情が最大限にこもった慟哭だった。


「怠惰で見逃し続けてきた。簡単に気が付ける証拠さえ視界にも思考にも入れず、ただ目の前の日々を過ごして犯人を追いかけることさえしなかったんだ」


 言葉は涙のように零れ落ちる。


「オレは、オレには、お前たちのように誰かと助け合おう、なんて行為から目を背けていた奴でしかないんだ」


 だから、目の前を楽しむ資格なんてないじゃないか。


「君は、どこまでも人間なんだね」


 バッファローの声は、変わらず穏やかだった。

 草原を撫でる涼やかな風のよう。

 男の激情から、ほんの少し熱が引いた。


「でも、君は気が付いたんだろう、真実に」


 バッファローは優しく微笑む。


「君が人間であっても、バッファローであっても、きっと変わらない。君が選ぶべきなのは、今何をするのか、じゃないか」


 風が一層強まって、男の髪を揺らす。


 露になった男の瞳を見たバッファローは、思わず笑みを深めた。


「そうだな。今、オレにはすべきことがある」


 男の眼は、決意に満ちていた。

 



 男はバッファローに別れを告げ、一人駆けだした。

 バッファローに手助けは求めなかった。

 敵にはバッファローを手なずけるだけの手法があるのだし、下手すると敵に味方しかねない。

 それに、怯えるような様子のバッファローに無理強いはできなかった。


「全部片づけたら戻ってくるよ」


 そう言い残して、男は捜査に乗り出した。

 敵はどこに居るのか。

 彼の内に目覚めた本能が、街のあちこちの紅を検知するが、そのどれもに回っても後手となってしまうだろう。


 残された時間はそう長くない。

 確実に立件するには、貴族や王族の後ろ盾が欲しい。

 貴族の親族を殺害した件で罪を立証したいが、もう二日以上経っている。

 時効である三日目の二十四時まで、あと数時間しかない。

 思考の限りを尽くして、足の限りを費やして、男は街中を駆け巡った。

 



 二十三時五十七分。

 男には三分以内にやらなければならないことがあった。

 たどり着いた教会の扉を蹴り開く。

 無人であるはずの場所に、人影があった。

 月光が降り注ぐ神の膝元に、跪く者が一人。


「お前だな」


 男は確信があった。

 こいつが犯人だと。

 跪いた人間はそのまま、顔だけを男の方へと振り向いた。


 明るい装束に身を包み、顔にも笑顔を思わせるペイントを塗った、道化だった。

 体躯や目元からして男と言うのは分かるが、それ以外は華美な装束が覆い隠して全容を不可解にさせている。

 夜にかかる道化の姿は張り付いた笑顔も相まって、不気味でしかなかった。


「私に御用でしょうか」


 道化は男にしてはやや高い声で男へ問いかける。


「ああ。お前を逮捕しに来た」

「物騒ですねえ。ですが神への祈りが終わっていません。用件はそれからでも?」

「お前が膝をついてる間は何時間でも待ってやるさ」


 この国において、膝をつく行為は罪を認めるに等しい。

 また、罪人にも見止まられる、神へ祈る行為でもある。

 それもあってか、膝をついている姿を見られている間は時効は伸びる。

 ゆえに、時効までの三分間は止まっていた。

 道化が祈りを終えるまで、彼の罪は残り続ける。


「ついでです、聞かせてくださいよ。どうしてここに?」

「次に犯人は神の血を使うんじゃないか、と思っただけだ」


 神の血、すなわちワイン。

 教会の倉庫には常に貯蓄があり、それはバッファローを引き付けるための導線として前回も酒屋から使われていた可能性がある。

 男は同一の手段を使うにしても、同じ場所からは持ちだすまい、と考え、教会に目を付けたのだ。


「よくこの教会だと分かりましたね」

「駆けずり回ったのさ」

「なるほど、捜査は足で、とはよく言ったものです。ならもう一つ、どうして私を犯人だと思ったのですか」

「証拠が挙がっているからだ。ここに居るのも合わせてな」

「安いウソですねえ。それならもっと大勢で駆けつけるでしょう」


 道化の指摘は正しかった。

 男は道化が犯人であろう、と言う状況証拠はいくつか見つけるには至ったが、立件できるほどのものは持っていない。


「周囲に十分伏せている」

「フホホ、私を見くびらないことです。周囲の気配くらい察知できますとも。今、この教会に私とあなた以外の人間は居ないでしょう」


 だが、会話を通じて男は確信を深めた。

 追い詰められながらも余裕な態度は自分が疑われてもなお、それをごまかしうる犯人としての自信があるに違いない。

 道化の服に隠れながらもなお垣間見える隆々の筋肉は彼が武術に優れていることを想起させ、人を斬るくらいなら訳はなさそうだ。

 獣の匂いがこびりついているのはサーカスか何かで扱いになれているためだろう。

 何より、その目つきが常軌など気にもかけない狂人のそれだった。


 どれもが、思い描いていた犯人像に合致する。


「権利も力もなくそんな場所に立っても、意味はないと思いませんでしたか」

「いいや。目をつけられていると分かればお前は実力行使に出るはずだ。違うか?」


 これまで自由に、やりたい放題にやってきた道化が、四六時中見張られている、なんて耐えられるものではないだろうと男は踏んでいた。

 道化は高らかな笑い声でもって応えた。


「ええ、ええ。その通りですとも! 余計な首輪なぞ、断ち切ってしまうのが一番ですからねぇ!」


 道化が膝を上げる。わずかに値を離れた瞬間から、時効までの三分間が動き出した。

 男有無を言わせずといわんばかりにマスケットを発射した。

 弾丸が道化に迫った瞬間、銀色の払い上げが打ち払った。


「温い鉛玉など私には効きませんよ」


 男も承知の上だった。仮に命中したところで、道化の分厚い筋肉を超えることは叶わないと思っていた。

 ゆえに本命は自身の突撃。

 バッファローの角のごとくサーベルを突き立てんとする。

 道化は腰に差したもう一本のククリナイフをするりと引き抜くと、すでに振り上げていたもう一本と交差させ盾のようにして突撃を受け止めた。


「――なるほど、良い威力ですね」

「ほざけ!」


 男は勢いのままにサーベルを振り回し、道化は防戦ながらもククリナイフを器用に扱い男の連撃をいなしていく。

 残り時間は二分をきろうとしていた。

 決め手がないままもつれ込んではまずい、と男が大きく踏み込んだ瞬間。


「甘いですねえ、役人殿!」


 道化はあえて身を乗り出し、その勢いで蹴りを放った。

 予想外の下方からの攻撃に男は思わず半歩退いた。

 不意打ちを完全に躱せたおかげか、大したダメージはなく、安堵が男の心をよぎる。

 だが、それは失態だった。


「では、攻守交替といきましょうか」


 道化が繰り出すククリナイフを、男がサーベルで受け止めた。

 それだけではなく、道化は蹴りを織り交ぜ、懐の小石を投擲しながら、頭突きすら交えて男へ迫る。

 ククリナイフの動きすらただ振り回すだけでなく、フェイントと技巧の織り交ざった見る者を魅了さえしかねない多彩な動きによって達人の域にあった。

 男は見る見る間に追い込まれ、教会の壁へ追い込まれた。

 男の最後の反撃も躱され、サーベルをも打ち払われてしまう。


「フホホホ、蒙昧になど溺れなければ、その命、水泡に帰すこともなかったでしょうにねえ!」


 絶命の一撃が男の頭上へ迫る。

 終わりか、と男の脳内を走馬灯がよぎった時。


 がひゃん、と嘶きが聞こえた。


「――何ィ?」


 道化が察知するが早いか否か、壁に亀裂が走り、そして壁を破壊する衝撃が男と道化を吹き飛ばした。

 立ち込めるがれきの巻き上げた煙の奥にいたのは、一頭のバッファローだった。


「―-どうして」

「話は後。もう時間はないんでしょう?」


 穏やかな声に諭されて男は再び立ち上がる。

 時効までのこり一分。

 男と同様に立ち上がったあの道化を、タイムリミットまでに跪かせなければならない。

 バッファローの嘶きとともに、粉塵が舞い上がり巨体が道化を貫かんと突撃する。


「愚かな、なんと愚かな! 群れならばともかく、たった一頭のバッファローで私を倒そうとは!」


 道化はバッファローの突撃を真正面から受け止めた。

 それも当然だった。

 道化はすべてを破壊するバッファローの群れを力で統制し、支配下に置いていたのだ。

 ゆえにバッファローは道化に踊らされたし、道化を恐れてバッファロー達は逆らえない。


 だが、穏やかな眼をしたバッファローだけは、この場に姿を現した。

 無謀な挑戦だった。バッファロー数体ですら相手にできる道化にとって、バッファロー単騎などおそるるに足らず。

 受け止めた体勢のまま、空へと放り投げた。

 残りは三十秒。


「――けどね、僕はひとりじゃない」


 その瞬間は、完全に道化の隙だった。

 バッファローの影に隠れていた男が、道化の死角からマスケット銃を道化の頭蓋へと振り下ろした。


「そうか、君が、君たちが――」


 つぶやきながら、ばたり、と道化はうつぶせに倒れた。

 男は息を切らせながら男を拘束し、時計を見た。

 残り時間は五秒に満たなかった。だが、間に合った。




 男は道化が膝を地面にこすりつける拘束具によって完全固定されながら護送されていくのを見て、ようやく腰を下ろした。


「いやあお手柄だったねえキミィ! 今月の給料は期待しときたまえよ!」


 などと言ってばんばん、と背中を叩いてきた上司とも別れを告げ、男は友のところへ向かった。


「やあ、上手くいって何より」


 穏やかな瞳のバッファローは、嬉しそうに男へ話しかけてきた。


「お前のおかげだよ」

「そうかな? そうかもね」


 誇らしげにするバッファローの姿に、男もまた微笑んでしまった。


「なあ、どうしてここに来たんだ」

「君の心の熱い炎を見たからね」


 バッファローは言ってから、恥ずかしそうに眼をそむけた。

 男は一瞬目を見開いてから、にやりと笑う。


「理由はなんだっていいさ。助かった。ありがとう」


 バッファローは目玉をぱちくりとさせた後、いつも通り穏やかに笑った。


「ねえ、走らない?」

「ああ、それはいいな」


 昇り始めた朝日へと、バッファローの群れふたりは走り出していった。

 

 

 

 

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