三月三日、私はお嫁さんになるため走る【KAC20241】

睡蓮

ひな祭りの日に……どうしてこうなるの

 雛子には三分以内にやらなければならないことがあった。


 金町かなまち雛子ひなこ、二十九歳、独身。彼氏いない歴=年齢の♀エンジニア。


 今日は余裕で帰れる筈だった。

 だから油断していた。


 彼女の仕事はクルマの強度計算。

 クルマというのは走っていると前後左右上下とあらゆる方向からの力を受ける。命を守る機械という大前提に立ち、厳密に強度が計算された上で生産されていくものだ。


 が、製造段階で安全性試験の結果が偽装されていた。

 マスコミにリークされ、生産ラインは即時停止。

 そして、原因究明のため第三者委員会に対し、設計から調達、製造までの各担当者が資料の提出を余儀なくされた。 


「何で……よりによって」


 報道機関からの発表は今日の朝方だった。会社の対応は極めて早く、その日の午前中に謝罪会見と第三者委員会の設置を宣言、午後には概略の資料提出が通知された。期限は三日後の正午である。


「徹夜覚悟で頼む」


 統括部長が直々に頭を下げに来た。

 重々しい雰囲気の中、誰もそれに反対できない。


 冗談ではない。

 今日だけは、今日だけはどうしても家に帰りたかった。


「どうしてもしなければならないことがある」


 この一言が言えなかったことを悔いた。



 必死でPCに向かい、プリントアウトとコメントの書き込みをしていく。

 前時代的だと言われようと視認性はこれが一番なので、どうしても紙での提出になる。



 雛子の住むアパートまではこのオフィスから三十分程度で辿り着く。

 今日中に家に帰るためには二十三時十八分の列車が最終で、それ以降だと帰宅は明日になってしまう。


「焦るな、焦るな」


 口で自分に言い聞かせても脳は言うことを聞いてくれない。

 言語は意味もなく空気中に逸散していく。


「皆悪いな。設計段階での問題はなかったはずだから、皆の仕事が如何に正しかったかを証明するためだと思って頑張ってくれ」


 担当部長が申し訳なさそうな顔をしてやって来たが、ぐるりと部署を歩いて回っただけで直ぐに出て行ってしまった。

 悪いと思うなら私の代わりをして欲しい。雛子は顔も上げなかった。


 二十一時になった。夜食としておにぎりと唐揚げ、ドリンク剤が用意された。

 明らかに諦観している男連中がそこに群がっている。彼女にも声が掛かるがそんなものを食べている余裕はない。


 絶望的な量のデータが目の前に広がり、そこにチェックを入れていく。

 もちろん一欠片のミスもない。


 二十二時になった。この時間になると今日中に帰れないことが確定した数人が会話を始める。夜は長いからノンビリやれば良いなどという声が聞こえる。私とあんたらを一緒にしないで欲しい。


 誰かがコーヒーを買ってきてくれた。

 目の前に置かれたそれは禍々しい色をしたブラックだ。

 右手に持ったペンを離してカップを掴むと一気に流し込んだ。味なんて分からない。味わっている余裕もない。


 二十三時になった。

 目の前に広がるのは絶望感。どうやっても終電には間に合わない。

 仕事の問題じゃあない。私の人生そのものが終わってしまうかも知れない。

 底知れない恐怖が雛子を襲ってきた。

 喉が渇く、手が震える、そして……目の焦点が定まらなくなっていく。


「金町さん」


 雛子の異常に気が付いたのは直属の主任だ。

 が、今更どんな声を掛けられても絶望が消えるわけではない。


「限界だろう。帰りなさい。ここで有能な職員を潰したんじゃ元も子もないから。上司には俺が話しておくし、責任は全て取る」


 帰っても構わないという言葉は彼女を救う唯一の薬だった。

 が、それに甘えてしまって良いのか。皆はまだ書類を作っている。


「帰りなさい。これは命令だ」


 もはやこれまでだ。

 今から駅まで走れば何とか十八分の電車に間に合う。


「お先に失礼します」


 周りにいる誰も顔を上げず、無表情で仕事をしている。緊張感は先程より感じられないが、それでも先が見えている感じはしない。

 帰宅命令を受けたのだから気にしていても仕方がない。


「ハァ、ハァ」


 ローファーの音を響かせながら改札まで来れば、信号機故障の影響で十分ほど出発が遅れるというアナウンスが繰り返し流れていた。


「十分も!」


 この列車がアパートの最寄り駅に到着するのが二十三時五十四分になってしまう。

 そこから改札を抜け、走ったとして今日中に目的が果たせるのか。



 雛子が待つホームに列車が到着したのは二十三時二十七分、出発はその三十秒後だ。

 列車の中で家までの道を何度もシミュレーションする。

 いの一番に改札を抜け、駅前のロータリーを斜めに横切れば数秒は短縮できる。信号のない横断場所まで一気に走り、そこを右へ曲がる。

 車や自転車とぶつからない。歩行者をどう避けるか。普段ならスマホを弄りながら過ごすのに、焦点の定まらない眼を動かしながら頭をフル回転させていく。



 ついに最寄り駅のホームに着いた。

 ドアが開き始めた瞬間に猛ダッシュを図る。

 第一歩で躓きかけるもなんとか体勢を立て直し、一気に加速していく。


 スマホのタッチで改札を抜け、それを斜めがけしているバッグに入れながら足は一切休めない。


 途中でスマホを出し、もう一度時刻を確認知れば五十七分だ。

 あと三分、あと三分……家まで二分、鍵を開けてから一分。



◇◇◇◇◇◇



「ひな祭りの日を過ぎてからひな人形を飾っているとお嫁に行かれないよ」


 小さな子供の頃、ひな人形をしまうのが嫌で泣いていた雛子に母が掛けてくれた言葉だ。

 ひな人形が大好きで一日中その前にいても飽きなかった彼女は長じて一人暮らしを始めても自分の部屋にひな人形を飾っていた。


 雛子は小学生になっても将来なりたい職業に「お嫁さん」と書くほど結婚願望が強かった。それは成人しても変わらず、いつかは結婚するものだと思っていた。

 思っていただけで、彼氏も恋人もいたことがないのだが……


 そして気が付けば二十九歳。

 仕事一筋に打ち込んでいた彼女であったが、周りの友人は次々と結婚していき、残っているのは指で数えられるほどしないない。


 今年こそ彼氏を作りたい。結婚は無理でも婚約まではしたい。三十歳までにその後の人生を固めていきたい。


 アパートの部屋には内裏雛が男女並べて飾ってある。

 何としてもこれを片付けないと。せめて目に付かない場所に移動させないと。



◇◇◇◇◇◇



 部屋のドアの前に着いた。

 三月四日、午前零時にセットしてあるアラームはまだ鳴らない。


 鍵を探す。直ぐに手に取り鍵穴に入れようとするが、手が震えてうまく入らない。


「そんな……」


 それでも何とか解錠し、明かりのスイッチを入れれば、小テーブルの半分を部屋の広さには明らかに釣り合わない大きなひな人形が並んでいる。


 時間がない。とにかく眼に入ることさえ防げれば……箱の中に仕舞えれば理想だが、それをしている余裕はない

  

 ポケットからハンカチを取り出し、それを広げると同時にアラームが鳴った。

 一瞬女雛の顔が見えた気がしたが、瞬時にそれは隠れてしまった。


「間に合った……の?」


 今の自分には人形の着物は見えているが顔は見えていない。

「人形は顔が命」、そんな言葉を思い出し、とりあえず大丈夫だと自分で納得することにした。



 翌日は六時前に目が覚めた。いつもよりも三十分早い。

 ひな人形を箱にしまい、早足で職場に向かった。



「おはようございます」


 定時よりもだいぶ早く着いたオフィスには徹夜明けで眼が開けられない男連中が何人もいた。その前に分厚い資料が積んである。


「昨日は失礼しました。ささやかですが、これ、皆さんでどうそ」


 テーブルに広げたのはコンビニで仕入れてきたおにぎりとサンドイッチだ。

 エコバッグ一杯にそれが入っていた。

 そして、給湯室からポットとお湯、紙コップを持ってきた。


「金町さん、そんな気遣いは要らないよ」


 上司はそう言うが、顔は嬉しそうだ。


「今日は私も頑張りますから」

「どうなるかわからないけど、今日はそこまでじゃないだろう。あまり気にしないでくれ」


 そう言いながらも遅めの朝食なのだろう。皆がそこにあるものに手を出している。


「セクハラになると言われそうだが、これだけは言わせて貰うよ。金町さんは良いお嫁さんになれるよ」


 普段は無愛想な先輩が耳元で小さく囁く。


「良いお嫁さんになれるのではなく、なるんです。絶対に」



 金町雛子が職場の同僚と婚約したのはそれから十ヶ月後のことであった。

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