注文未遂

峰川康人(みねかわやすひと)

本文

 私は料理をしていると時折思い出す出来事がある。どこか苦みのある思い出だ。


――なぜこの思い出を思い返すのか?それも苦い思い出なのに


 髭を手に当てながらなぜだろうと考え込む。

 きっとそれは心の奥底にいる何かが逞しい腕を持って私を遠からず引っ張っているからだろう。

 だから私はその思い出を誰かに話そうと思う。

 ああ、そんなに身構えなくてもいい。

 これは昔々、若い自分とある定食屋の話だ。


 今から数年前、スマートフォンが普及したその時代。場所はとある町……だとわかりにくいので町はA町としておこう。私はそのA町に一人、引っ越してきた。いわゆる独立だ。大学を出た私はそのまま流れで就職してサラリーマンになった。都会の中にある職場の駅から最寄り駅の中で住みやすいその場所に引っ越した。町の特徴としては大きな川が流れていて、それを渡るための昭和のころに建てられた橋が二つ三つとあった。大きな公園もあり、夏と冬にはお祭りがあって無数の屋台が立ち並ぶ。

 下見の頃からこの町は良いと思っていた。喧噪な都会ほどうるさくなかった。かといって田んぼの並ぶ田舎町のようにとても静かでもない。程ほどだったからよかったのだ。

 そんな町で私は一人暮らしを始めた。新卒の私は所謂システムエンジニアとしての仕事をがむしゃらにこなしていた。その時代はというと残業は当たり前の認識だったので皆遅くまで取り組んでいた。

 ある日の帰り道、時刻は既に深夜十一時を回ろうとしていた。駅から家までの距離は十分程で道の両脇には光の灯ったコンビニに明かりの少ない住宅街が並んでいる。そんな深夜の帰り道を一人歩いていると目を引かれるものがあった。


「あれはなんだ……?」


 住宅街の合間にその建物はあった。それがこの話の中心にある定食屋だ。それに引かれたのは多分偶然だろう。暗闇の住宅街の中、それはライトによって自らの存在を私に強調しているように見えた。


「定食屋……?こんな住宅街に?」


 その定食屋はマンションや一軒家の並ぶその通りにそれがあったのにどういうわけか戸惑っていた。恥ずかしい話だが定食屋の存在をそれまでロクに知らなかった。ロクに知らないというのは今まで定食屋と言ったら個人経営ではなく大手チェーン店の所しか言ったことがなく自分のそれまで住んでいた地域にはなかったためである。だからその日目にした定食屋というのはどこか新鮮で一気に興味をひかれた。

 気が付けば私の内にある興味の燃料に火が点いてその店に足が向いていた。流石にこんな遅くまでやってるわけがないだろうと思いながらも、もしかしたらやっているのかもしれない……なんて思いながら。


「えーっと……焼き魚定食に野菜炒め定食に……中華セット?」


 店の入り口の隣に設置された椅子の上の看板は多種多様なメニューを教えてくれた。

 こういうものなのかと私はどこか理解する。そして興味本位で店の戸に手を伸ばそうとする。


「あ、今日はもう閉店してたか」


 戸は重かった。どうやら店の外のライトの消し忘れだったのだろう。照らされた看板をよく見てみれば店は夜の九時には閉店してたらしく私はその店に心の内で点いた火がふっと消える感覚を味わった。仕方ないなと思いつつ、私はそこを後にした。ちなみにその日の夜食はコンビニ弁当だ。


 その日から二週間以上たった土日の昼。

 私はその店に足を運ぶことにした。どうにも気になったのだ。あの日書かれた定食の数々が、チョークで手書きで並んだその定食達が。そういうわけで私はその店に足を運んだ。


(何を頼んでみようかな?ほかには餃子定食とラーメン定食とか……あ、野菜炒め定食とかあったな。うーん……)


 悩みの種が頭上で花咲くころ、ついにその店は見えた。今日はさすがに営業中で看板は前回の夜と同じように店の前に立てかけてあった。前回は明かりがついたまま(恐らくは店のミスで明かりがついたまま)とはいえ夜だったので気づかなかったのだが店の白い外壁は何処か剥げていて黄ばんだ箇所も見えた。所謂年季の入った店なのだろうか。


「今日は何があるんだろう」


 私はその看板に目を向けた。メニューは三つ。餃子定食、チャーハン定食、魚焼き定食。値段も手ごろでこれはいいなと思った私は餃子定食で腹を決めて店の前の引き戸に手を伸ばした。

 その時だった。大きな笑い声が聞こえたのは。


「そうでしょそうでしょ!私もね、それはおかしいって言ったのよあの人に。そしたらあの人ね――」


 笑い声からセリフまでに邪気は感じなかった。ここでいう邪気というのは私なりの感覚で怒りとか妬みとか憎悪とか悲しみとかそういうものでとかく明るい雰囲気で店の中では談笑が続いていた。


「確かにお孫さんのプレゼントに刀ってのはちょっとねえ。時代劇じゃあないし」


「時代劇というよりはアニメですよ店長さん。あ、お冷ください」


 突っ込みを入れた男性の声。聞いた感じからして店長なのだろう。店長はあーそういえばと言って話をする。


「アニメねぇ。確かに流行ってますね。あれでしょ?刀を持った主人公が鬼をやっつける話でしょう?それの影響もあるし、男の子なら刀好きだけど……それでも誕生日プレゼントに日本刀ってのはちょっとおかしな話だ」


「さすがに本物じゃないですよね?ヨシエさんところの息子さんって今年で八歳でしたっけ?」


 二人の会話に誰かが入ってきた。これは男性だ。店長以外のもう一人だ。


「ええそりゃあもちろん。レプリカですよレプリカ。本物渡したら息子夫婦に怒られちゃうからね」


「ですよねハハハ……あ、すみませんコーヒーください」


「あいよ」


 朗らかな雰囲気がただよう店内を入口の前で私はじっとしていた。なぜかはわからなかった。しばらくして電話が鳴った。いったん入り口の近くから離れて電話先の会社の先輩と話を二、三分して電話を切るとちょうど笑い声が響く。


「え!?タキさん所の息子さんいまだにコーヒーダメなの!?」


 驚きのその声を出したのは店長だった。


「ええ。まあ」


 苦笑いをしたのは先ほどホットコーヒーを頼んだタキさんと呼ばれた老人である。


「極度の甘党……ってわけじゃないんですがね。息子のヨメさんには溜息はかれちゃってさ。どうして嫌いなんだってケンジに聞いたらケンジのやつ、苦いからやだってさ。もう少しで三十になるってのになんというか恥ずかしくってさ」


 店内に爆笑が響いた。笑うこたあねぇだろっと突っ込みがタキさんから飛んできていた。


「なんだそりゃ!!シジマさんところの孫娘さんが幾分か大人に見えるよ!あれ?まだ九歳だっけ?」


 また違う声が聞こえた。誰かはわからなかった。店長はああそういやと言って話を切り出す。


「八歳だよ確か。シジマさん、前にここで餃子食べてた時に俺に言ってたよ。自慢げにさ。店長のコーヒーならぐいぐい飲んでくれるかもなって。ああ、でも砂糖用意してやんないとだめかもな」


「いいよ。お安い御用さ」


 店の外から聞こえた承諾の声は優しさに満ちていた。


「そうそう……この話、ファミレスでランチセットとコーヒー食べてるって話だったな娘さん」


「まあ、なんというか……ませてるわね。あ、このお味噌汁お替りいただけるかしら?いつも美味しいわね」


 ホホホと笑ってヨシエと呼ばれた女性ははあと息を吐いた。


「それ考えたらアタシの所の孫はちょっと子供っぽいかしらね」


「そうかなあ……あ、餃子定食で思い出したけどミタカさん今日来ないの?」


 タキさんは思い出したようにその人の名前をあげた。


「ああ、来ないね。先週に孫が生まれたって言ってて。三人目だっけか?足腰悪くなる前に娘夫婦のとこに行くってさ」


「あらまあ、そりゃあ目出度いわね。アンドウさんは?」


「聞いてないな。多分家でドラマ見てんじゃないのか?」


「はやりの弁護士のドラマかしら?渡したいものがあったんだけどね……」


「じゃあ預かっとくよそれ。ドラマだけど案外昔のドラマじゃない?ほら、前に――」


 話はいまだに続いていた。狭い店内の中で話は止まることなく楽しい雰囲気と共に続き、それからしばらくして私はその場を何もしないで立ち去った。


――それは何故なの?


 と言われると、どうにもそれは言葉にするのがどこか難しかった。感じ取ったのは間違いなく優しさと和みある空間。しかし、良い場所であって私の瞳には異色に映った。言葉にしづらいのだが入りづらい雰囲気があった。

 悪い場所ではない。それはわかっていた。それでも自分が入るには何かが欠けているような気がしてならなかった。だから私はその日は諦めるというより変えることにしたのだ。ちなみにその日の昼ご飯はというとコンビニ弁当……ではなくファミレスのランチだ。


――もしかしたらああいうお店には何か手ぶらで行くのはまずいのではないのだろうか?

 

 そんな思いに囚われていた。

 その日から二か月ほどたったある日のおやつというにはまだ早い時間。昼食の時間からは離れたその時間に私はその店に行こうとした。


――この時間ならあの人達と会うことなくご飯を頂くことができるはず


 そう思って私は家を出てその定食屋に向かった。なぜ彼らに会うことを遠慮していたのかはその時ははっきりとは述べるには難しかった。今思い返せば、多分自分のような存在が不釣り合いだからという理由だったのだろう。


「えーっとこの辺か?」


 徒歩で向かって、そしてその場所についた。


「……あれ?」


 店の近くに着いたはずだった。目印になっている電柱とテナントの建物に間違いはなかった。


「どうなってんだ?まさか――」


 辺りをキョロキョロと見渡す。間違いはないかと。


「どうしました?」


 そんな私に一人の男性が声を掛けた。


「すみません。あの、この辺に定食屋ってありませんでした?名前は……えーっと」


「ああ、閉店しましたよ。一か月に」


「え!?そうなんですか!?」


 思わず大きく驚きの声を上げてしまった。その声に男性はちょっと引いていた。


「あー……あれですか?お爺さんがやってた定食屋で……椅子の上に看板置いてあったあの定食屋」


「あ、それですそれ」


「そこにあったけど……確か二か月前から店長が腰痛めててそれから直ぐに閉めたんですよ。張り紙……もうないけど」


「そうだったんですか……」


 がっくりとした。いつか行こうと決めていた。が、予想だにしない終わり方がどうにも腑に落ちになかった。初めて後悔という物の存在を濃く感じた瞬間だった。


「興味あったんですか?」


「ええ。まあ。料理とか美味しそうだったので。こう……隠れた名店って感じがしたというか」


 話をするたびに後悔の重しが錨のように沈んでいくのを感じながら、苦笑いで答える私に男性はうーんと首を捻った。


「それはないかなぁ。なんていうか……物足りないって感じだったし」


「物足りない?」


「ええ。まあ。量の話じゃないですよ?あのお店の味付け、全体的に薄かったんですよ。でも食えたもんじゃないってわけじゃないですよ?それに……」


「それに?」


「常連の人たちでいつもごった返してたんですよ。お年寄りの人が多くて。皆でテレビ見たりご飯食べつつで。それでご飯食べた後も結構居座ってるみたいだったんです」


 若い男性はどこか困った顔をしていた。


「どうしてわかるんですか?」


「ああ、野球中継ですよ。こないだの野球中継、終盤なのに最初からその場所で見ていたような会話してて」


 だんだんと自分の内にあるその店の期待の火が縮んでいたのを感じ取っていた。


「そうそう、料理はシュウマイ定食や餃子定食ならまあ醤油とか使うからいいんですが。ただ野菜炒め定食とかがねえ。味が薄くて。塩分控えめだったんでしょう。肉系の定食はあまり出ませんでしたねそういや」


「……お年寄りの客向けに作ってるからですかね?」


「多分そうでしょうね。そうそう店もなんというか自分みたいな若いのよりも店長さんとその客層でやたら話が盛り上がってましたね。私?その間はまるで置物のように静かに黙々として定食食べてましたよ。お勘定の時もなれたように店長さんがやっててねえ。本当になんというか不思議でしたよ」


 どこかしゅんとしたその男性をよそに店のあったその場所を見る。そこにはもう店はなく。閉じた引き戸がただ私に向けられているばかりだった。


「ああそういえば――」


 思い出したように男性は語った。


「美味しかったんですよね。お味噌汁。豆腐とわかめとネギの三点だけなのに。こだわってたのかわかりませんがね。いやもうどれにもついてるだけあって印象深い味で。不思議な店でしたよ」


――あるじゃないか。おすすめが


 そんな考えが走った。美味しいお味噌汁に後ろ髪をひかれながら私はその場を後にした。

 それ以来、私はその閉じた定食屋の存在を後悔と共に時折思い出すようになった。にぎやかな雰囲気、美味しいお味噌汁。味付けを薄くしてある定食の存在を傍らにイメージで並べながら。


――お味噌汁が美味しいのはきっと定食の味が薄かったからだよきっと。それであの男の人、お味噌汁が美味しいって言ったんだよきっと。ほらしょっぱくするとか……味噌を多めに入れるとかあるじゃないか。そういう工夫が。それに――


 心の内に走った声が妙に必死な様を否応なしに感じ取りながら。

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