第3話

 私は音楽が苦手だ。

 あのオタマジャクシが読めなくて一、二回は居残り勉強させられたこともある。学校の先生の熱意に負け、楽器に対して何度もラブコールを送ってみたが、努力の末に平和条約を締結するのが精一杯だ。どんなことでも相思相愛は本当に難しい。

 一方、合唱は大好きだ。周りの音を聞いて無難に歌えば、あっという間に時が過ぎる。しかも綺麗な言葉で綴られた歌詞を読めるなんて素敵な時間だ。音符が読めずとも雰囲気で歌える。オタマジャクシなんぞに屈しはしない。

「そう。だから姐さん、ここは一つ、あっしを助けると思って!何卒、何卒!」

 このキャラが濃い江戸前風味な柴犬は、店長と同業他社のお店を営む、雑貨屋・おとやの店主だ。ねじり鉢巻きをつけ、背中に祭りと書かれた青い羽織を身に着けている。またいつも緑色の手ぬぐいで作った大きなポシェットを肩に掛けていた。そして店長と同じく、柴さんも何食わぬ顔で、二足歩行で歩いている。

 如何にも和太鼓が似合う店主が元気よく、うちのお店に結構な頻度で油を売りに来る。その為、雇われの身としては熱いお茶を出して程よくもてなしていた。一応、私は店員だし。無下になんてできない。もしかしたら、やむにやまれぬ事情があって、うちの店に来ているかもしれないからだ。

 今まではそういった相談は一切受けたことはなかった。だが今回、なんと私に仕事の依頼をしにきたそうだ。

「うちの学校の音色をとって来いって、私がどうやって?」

「よく聞いてくださいました!このオルゴールに音を聞かせてくれれば良いんでェ!」

 そう言って、ポシェットから成人女性の掌にすっぽり収まるぐらいの赤茶色の宝箱を取り出してみせた。何故か鍵穴があるのに蓋が開かない。脇に小さなハンドルがあり、これがリューズの役割をしているのだと分かる。

 パッと見た目は、品の良い小物入れに見えるが、柴さんがオルゴールというのなら、多分そうなのだろう。

 これを?と首を傾げると初恋の人が自分と共に弾いてくれた、とある曲をどんな形でも良いので聞かせて欲しいと言われたらしい。

 いや、依頼内容を教えて欲しいのではなくて、いつ、どうやって、何の曲を録音するか、どう録音すれば良いか教えて欲しい。どうも微妙に話がずれていく。

「この依頼には聞くも涙、語るも涙の事情があったんでィ!依頼人の事は秘密なので言えやしませんがねェ。詳しい事情を聴いてみたら、なんと姐さんが通われていた学校で音をとることが出来るそうで。ここはあっしが一肌脱ぐしかないと思いましてね!」

 この感じだと実質一肌脱ぐのは柴さんではなく私ではなかろうか。しかし今は接客中だし、柴さんの話に割って入るのは気が引きた。とにかく曖昧に微笑んで頷く。

 でも、ここのところ目立った依頼も無いし、アルバイトも掃除ばかりで暇なので受けてみるのも面白そうだ。

「まあ、柴さんがそこまで言うなら受けても良いけど、もうちょっと詳細を…。」

 そこまで言いかけて柴さんに口を塞がれる。耳をピンと立てて、何故か辺りを警戒し始めた。

 当たり前だけど犬って肉球があるんだ。人間の手に塞がれるのとは感覚が違って面白い。

「ちょっと鈴さん!また柴さんと一緒に油売って!」

 お店の奥から店長の声がした。ずんずんと足音を立てて、こちらに向かってくる。

「うおっと、鬼が角を生やして来ちまった!それでは姐さん。この件よろしく頼んまさァ!お礼は後日、何か用意しますんで!」

「あ、待って!まだ詳しい内容を聞いてないって!」

 犬だけど脱兎の如く柴さんはお店を去っていった。流石に俊足だ。逃げ足も速い。

 私の背後には髭と尻尾をピンと立てている店長がいた。大変ご立腹の様子。

 振り返ると、くりくりとした緑色の瞳に大きなとんがった耳と茶色の水玉が散らされている顔があった。今日は涼し気に薄い青のカッターシャツと茶色のスラックスを履いている。この店に季節感なんてあったっけ。

 怒っている顔から視線を逸らし、でっぷりしたお腹も見つめながら、とりあえず文句を言うことにした。

「店長のせいで逃げちゃったじゃん。」

「貴方は瑠璃屋のアルバイトなんですよ!頼まれたからって簡単に他店の依頼を請け負わないで下さい。分かりましたか?」

 逸らした目線に割り込むように顔を寄せてきた。怖い。

「ええっ~。でも。今回は私のせいじゃないような。あ、いや、何でもナイデス。」

「今回の依頼は、もう請けてしまっているようですから見逃します。でも今後はもう絶対に請けてはいけません。良いですね?」

 店長は本当に怒っていると言葉と空気が冷たくなる。つまり本日は、まだ怒っていない。どちらかと言えば諭されているようだ。

「今後は仕事を請けてはいけない理由を聞いても良い?」

「勿論です。貴方はそそっかしくて騙されやすい。柴さんなら、そんな事はしないでしょうが、いくら思春期でも世の中の全員が綺麗で瑕疵が無く、鈴さんに協力してくれる人達ばかりだなんて思っているわけではないでしょう?貴方は押しに弱いところがありますし、本当に気を付けてください。」

 文句は言いつつ心配してくれているみたい。店長はそういうところが多々ある。でも、こういう注意はちゃんと聞いておかないと後で酷い目に合うと身を持って知っている。

 私は神妙に頷いた。

 それにしても今回は、とばっちりを受けてしまった。学校で一体何の曲を、どうやって蓋の開かない宝箱、もといオルゴールに音を聞かせればいいのだろう。そもそも初恋って誰の話だ。もうちょっとヒントが欲しい。きっとあの状態じゃ、柴さんは当分お店に近寄らないから、いつものように自分が勘と運を総動員して情報収集しないと。

 私はため息を飲み込んで、本日の業務に打ち込んだ。



 早朝、通学時に井の足公園の弁天池に掛かる橋を渡る。本日は何故か向こう岸に着いた時ヴァイオリンを弾いている人がいた。この公園は三味線を弾いていたり、歌を歌っていたり、笛を吹いている人達がよくいる。でも早朝からというのは稀だ。

 私は毎日、武道サークルの朝練をするために七時には学校に着くようにしている。現時刻は朝の六時半頃、学ランを着た学生が一心不乱に曲を奏でていた。正直、井の足公園付近は私立、公立関係なく学校がひしめき合っているので、制服を着ている時点で他校生だとしかわからない。うちの学校は私服なので。

 何かの大会の練習かもしれないし、邪魔してはいけない。足早に去りたいので小走りになってしまう。

 セラはさっきまで肩にしがみ付いていたのに、曲が聞こえた途端、ふよふよと学生の方へと向かった。

 セラというのは瑠璃屋のお客さんが持って来た卵から孵った不思議な生物だ。スーパーボールくらいの大きさの毛玉。胡麻粒程の大きさの目がくりくりとしていて、可愛らしい。店長によれば何かの願いを叶えてくれる存在のようだが言葉も話せないし、食べ物も必要としない。時折、触れた相手の望むものに化けることがある。私や、瑠璃屋に関わる者達にしか見えない。お店から出ると目に見える範囲に居てくれて、ただ気持ちよさそうに浮遊している存在だ。

 セラはヴァイオリンを練習している学生に近づき、肩にこつんと当たった。すると反対側の肩から、もう一匹のセラが飛び出した。

「ん?」

 セラは触れた者が欲しいものに化けることはあっても、影分身を使えるわけじゃない。あれは親戚か何かだろうか。そういえば、もう一つのビー玉みたいな卵は店長が持っていた。とすると、この学生は瑠璃屋の関係者かもしれない。

 こんな朝早くから淀みなく曲を奏でている時点でお察しだったようだ。

思わず立ち止まって、じっと凝視する。

 まだ幼さを残す顔、体躯は細くて私より少し背が高い。服の上からでも分かる、しっかりとした筋肉。知的で人好きのする雰囲気。学校では、さぞやおモテになるに違いない。

 自分の周りでは見たことがないタイプのイケメンに見える。根拠があるわけではないが、どこか古めかしい気がした。

「何か?」

 学生は私の存在に気が付くと、弾くのをやめて、こちらに声を掛けて来た。

 これは個人の完全なる偏見だが芸術家には高飛車か変人しかいない。そういう人に朝から絡まれても困る。私は朝に弱いんだって。今は体力がありません。

「お上手だなって思いました。」

 彼はその言葉を聞き、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。この人は分類:高飛車だ。間違いない。

 くるりと踵を返して、学校へ方向転換した。朝から疲れるのは御免だ。

「君が探している音はアコーディオンだ。」

 走り出そうとする背中に、そんな言葉が投げかけられる。

思わず足を止めて、後ろを振り返れば、セラがふよふよと漂っているだけだ。学生は跡形も無く消えていた。

 私は直感で理解した。あのヴァイオリン男、小路を使って此処に来たな。やっぱり店の関係者だったようだ。それならそうと早く言って欲しい。店長か柴さんの差し金だろうか。ヒントを渡すから早く依頼を片付けろという意味かも。

「アコーディオンねえ。」

 友人の一人にアンサンブル部に所属している人がいる。ちょっと話を聞いてみることにしよう。



「アコーディオン?」

 放課後、校内にあるラウンジでお絵描きしたい人達が集まって、絵を描きながら日常の色んな事を駄弁っていた。アンサンブル部に所属している友人も、その内の一人で部活が忙しくない時はよく顔を出してくれる。彼女の名前は宮口悠美さん。私とは中学からの同級生だ。ちなみにチェロを弾ける。あんなヴァイオリンのでっかい版を弾けるなんて、音楽と和解しかしていない身としては神様のような存在だ。

 私はお店の事は全て伏せて、アンブル部にアコーディオン奏者はいるか聞いてみた。

「いないよ。一回も見たこと無い。」

「マジで?じゃあ先生は?遠藤先生とか怪しいじゃん。」

「知らないな~。ピアノはよく弾いているのを見るけど。」

 その言葉を聞いて大袈裟にノートが置かれたテーブルの上に顔を伏せた。今回の依頼は長丁場になりそうだからだ。

 後頭部をぽんぽんと軽く撫でられる。よく分からないけど頑張れという意味だろう。宮口さん、とても優しい。

「アコーディオンで思い出したけど私達が通っていた中学の校舎でさ、最近、放課後にアコーディオンの音が聞こえるって七不思議ができたらしいよ。」

「はっ!?な、何それ!ロマンじゃん!七不思議なんて、あの学校にあったの?」

 私達の共通した趣味の一つにホラー好きがある。ホラーに関して言えば私なんて、まだまだお茶汲みレベルだが彼女は違う。ポップコーンとコーラを片手にホラー映画を冷静に観られる歴戦の勇者だ。

「私もびっくりした。それで…、その…」

 彼女は次に発する言葉を探して間を置いた。どう言おうか迷っている。言葉を被せないように少し話かけるのを待つ。彼女が考え事する間、他の席に座ってラウンジで談笑している人達の声が響く。

 実は、これがなかなか上手く出来なくて、言葉を被せたり、本音を打ち明けてくれるタイミングを逸したり、何度も不快な思いをさせたと思う。その度に笑って水に流して貰えるのは単に彼女が私より大人だからだ。

 彼女は意を決したように私に目線を合わせた。

「もし真相を確かめたいなら明日アンブルで中学生と交流会がある。私達が通っていた中学校で。時間が少し遅くなるから暇を潰してもらうことになるけど中学で待ち合わせして、

一緒に帰ろうよ。」

「おお!神よ!女神!貴方はやはり音楽の女神だったのか!良い人!」

 席を立つと彼女が座っている椅子に回り込んで大仰に騒いで抱き着いた。 本当に助かる。いつもの事ながら雲を掴むような話だったけど、少しは進展したみたい。持つべきものは共通した趣味を持つ才能豊かな友人だ。



 次の日、学校が終わり、特にやる事もないので私は中学校舎へ向かった。高校から結構近い場所にあるから交通費は必要ない。実に有難いことだ。

 今から思えば柴さんの言葉にヒントがあった。あの人(?)は『姐さんが通われていた学校で音をとることが出来る』と言っていた。過去形にされている時点で高校ではない事に気が付くべきだった。もっと、よく話を聞かないといけない。少し反省。

 夕暮れ時、オレンジ色の光が校舎を包む。恐怖より郷愁の念を覚える光景だ。ここに三年前まで通っていた。学校の敷地内を歩くだけで色々な思い出が頭を過ぎる。あの時の自分はとても幼かった。今も十分、未熟だけれども。

 我が物顔で校舎の裏門から中へ入り、職員室の前を堂々と歩く。正門には警備員を置いているのに裏門には誰もいない。ここだって東京なのだから少しは警戒すべきだと毎回思う。そのお蔭で面倒な手続きと挨拶無しで中に入れたから全然構わないが。

 卒業時にいつでも遊びに来てねと先生方に言われているので警備員さんに咎められたら笑って許してくれそうな先生の名前を出そうと心に誓う。疾しい事などないので見つかったって全く構わなかった。

 噂されているアコーディオンの怪談の大まかな概要は新校舎の下駄箱置き場に繋がっている中央階段の三階でアコーディオンの曲が聞こえ、一曲全てを聞き終えてしまうと異世界に飛ばされるというものだった。

 異世界!?何だ、それ!誰が考えたの?天才か!と話を聞いた時、テンションが上がったが、数秒後に異世界(仮)に毎週バイトしに行っているじゃないと内心一人ツッコミしてしまった。

 今回も言うてバイトの一環みたいなものだし。いや、瑠璃屋の仕事じゃないから、どちらかというとボランティアか。本当に世の中って世知辛い。

 校舎の外で風が木立を揺らす。その音に混じって、淀みなく紡がれた旋律が聞こえた。

 さっそく噂通りでワクワクしてくる。

 私は導かれるように階段を上がって行く。

 明るい音色なのに不思議と切ない。夕陽に照らされた校舎にしっくりと馴染む音。曲を紡いでいる奏者は一音の響きを大事にするように弾いていた。こういう時、音楽に詳しければ曲名や作曲者まで判るのに。やはり音楽との和解は難しい。

 手摺越しに上の階を覗いて見た。

 階段の踊り場に居たのは中学生の時、数学を教えてくれた山口先生だ。彼は教室から借りた誰かの椅子に座り、窓から差し込む夕日に照らされ、瞼を閉じたまま、一心不乱に曲を演奏している。

 何か届けたい思いでもあるのだろうか。切実な気持ちが伝わってくる。

 私は真剣な様子の先生に声を掛けるのを躊躇い、その場で体育座りをして演奏を待つことにした。手慰みに通学鞄の中に入れていた宝箱を取り出す。

 なんとなく手の中の宝箱を見つめているとカチッと音がして、ゆっくりと独りでに蓋が開いた。

 突然、中から眩い光が溢れ出し咄嗟に自由な方の腕で光を遮った。



 光が収まり、恐る恐る腕を降ろすと掌にあった宝箱は消え、色が一切無い白黒の世界が広がっていた。見渡せば、ここはどこかの音楽室のようだ。防音扉がありピアノや肖像画が置かれている。


 ええっ、こんなことは初めてなんだけど!一体、何か起こったの!?


 思わず声に出した言葉は音にならずに消えていった。不審に思い、手近にある楽譜台に触ろうとすると、手が物に触れずにするりと弧を描く。どうやらこの世界では私は何の干渉も出来ないらしい。

 部屋の中には若い男女がいる。透き通るような肌をした女性は黒い髪を一つにまとめ、白銀のフルートを一心不乱に吹いていた。男性の方はアコーディオン。よくよく見れば、どうやら若い頃の山口先生だ。一体いくつの時の先生なのだろう。髪に白髪はなく、体型も今のように丸くない。ほっそりとした若々しい男性は微笑むように女性を見て、フルートの主旋律を邪魔せず、むしろ更に引き立てるように、優しくそして力強く弾いていた。

 一曲弾き終わり互いに微笑み合う。なるほど。この二人は相思相愛なんだと分かる。息もぴったりで一緒に演奏していて楽しそうだ。

 

 瞬きをした途端、風景が変わった。病院の一室、年配の夫婦と幼い少女が泣いている。近くには白衣を着た壮年の医師が居て、静かに首を振る。

傍らのベッドに横たわる人に白い布が被せられているのが見えた。枕に散らばる長い髪から女性と分かる。

 ああ、誰かが亡くなってしまったんだ。その事実が胸に突き刺さる。

ベッドに縋りつく母親の傍で少女がフルートを持っていた。父親は静かに掛け布団からはみ出した手を取り、腕をさする。

 頑張ったな。大変だったな。すまない。何も出来なくて。代わってやれなくて。本当にすまない。

 父親の両目から涙が伝う。母親の泣き声は一層大きくなった。医師は黙って、その場を離れる。彼が部屋の外に出ようとすると扉は勢いよく開け放たれた。視線の先には若き日の先生が立っている。

 眼前に広がる光景を否定するように首を振る。


 どうして。一緒にまた演奏しようって言ったじゃないか。


呟く声は彼女の死を悼む家族の悲痛な泣き声に溶けて消えてしまった。



「実崎の鈴さん?そこで何をしているの?」

 んぎゃあと場にそぐわない声を出して、驚きのあまり身を引いた。何故なら山口先生の顔面がすぐ傍にあったからだ。

 両手を確認すると、ちゃんとオルゴールは死守してあった。宝箱の蓋は持って来た時と同様に閉まっている。

 とりあえず、ほっと胸を撫で下ろす。

「ちょっと驚かさないでくださいよ!」

「驚いたのはこっちだよ。久しぶりだね。卒業してから二、三年しか経ってないのに何かあった?もしかして進路の相談?」

「あ、いや。そう言うんじゃなくてですね。学校の七不思議について調べていたら先生に行き当たったっていうか…。って、夕方にアコーディオンの音がどこからともなく聞こえたら普通にホラーじゃないですか!何をしているのはこっちの台詞ですよ!」

 山口先生はきょとんした顔をして、頭を掻いた。

「七不思議になってたの?参ったなぁ。ただのストレス解消なのに。」

「ストレス?」

「そう。落ち込むことがあると、この時間帯にアコーディオンを弾いていたんだ。特に今日はどうしても弾きたくて。ほら、生徒は下校して殆ど居ないでしょ。怖がらせてごめんね。」

 山口先生はそう言って立ち上がり、弾いている時に座っていた椅子を片付け始めた。その背中を追いつつ、私は更に問いかける。

「先生。話は変わりますが初恋って、いつですか?」

「んー?学生の頃じゃない?忘れちゃったけど。」

「もしかして初恋の人も楽器の演奏が出来たりして。」

「内緒。実崎さんが大人になってからじゃないと教えてあげない。」

 おっと、とてもガードが固い。思わず、ええっー!と不満の声を漏らす。

「ねえ、その宝箱どうしたの?」

 逆に質問されて私は口籠った。

 瑠璃屋の事を言っても変人扱いされるか、最悪中二廟扱いになる。目の端を気持ちよさそうに浮遊するセラを見て、増々しかめっ面になってしまう。本当の事を言える訳が無い。

 質問に応えられない私を気にせず、先生は話を続けた。

「さっきフルートの音色が聞こえた気がして。その宝箱かなって、勝手に勘ぐってしまったよ。そんな訳ないのにね。」

「フルート?」

 あの白昼夢に出て来た彼女もフルートを持っていた。私がぼうっとしていた間、先生は一体何を聞いたのだろう。

「そう。今日はちょっとね。特別な日なんだ。もしかしたらと思ってさ。」

 そう言ってアコーディオンを持ち、一階の職員室へと向かった。その後を追い、私も職員室へと入る。

 山口先生の机を見ると私が中学生の頃と全然変わらない。書類が山になって、今にも倒れてしまいそうだ。そんな汚い机の上で透明なカードケースに丁寧に保存された写真を見つけた。

 私ははっとした。白黒の世界にいた彼女だった。写真の中ではフルートを掲げて、若い山口先生と一緒に楽しそうに映っている。そういえば、先生はネガフィルムを自分で現像出来るくらいカメラが好きだった。きっと自分のお気に入りのカメラで撮ったのだろう。

 私の視線に気が付いた先生は写真を裏返した。先生の手で隠れて年号までは読めないが裏面に今日の日付が掛かれている。

 そうか、今日が命日なんだ。だから弾きたくなってしまったんだ。

先生の繊細で柔らかな部分を無神経に荒らしてしまった自分を恥じた。誰にだって触れられたくないものはあるのに。

 先生は誤魔化すように話を逸らした。

「それで今日は何しに来たの。まさか七不思議を確かめに来ただけってことないでしょ。高校の数学だったら良い参考書を教えられるかもよ?」

「えっと、実はアンブルの交流会に参加している宮口さんと一緒に帰ろうって約束しているので暇つぶしに来ました。」

 帰る方向は途中まで一緒なのでと話すと山口先生は目をパチパチさせた。わざとらしく驚きましたと表現してみせる。これも中学生の時とまったく変わっていない。

「じゃあ暇つぶしに少し雑談しようよ。高校生活は楽しい?上手くやれている?」

 その言葉を聞いて、心の中で白旗を上げた。この人は先生の中の先生だ。不躾な質問をした生徒に、こんな優しい気遣いをしてくれる。

 結局、交流会が終わる時間になるまで、先生は私の為に時間を割き、他愛も無い話をしてくれた。



「ああ。七不思議って山口先生だったんだ。」

 宮口さんは納得したように頷いた。幽霊の正体みたり枯れ尾花とはよく言ったものだ。現実なんて所詮そんなもんだ。そうそうロマンは転がっていないし、幽霊を見ることなんてない。

「うん。私もびっくりしちゃったよ~。こう、夕暮れに照らされた校舎の中で聞くから雰囲気あるんだもん。」

「何の曲?」

「えっ?分からない。私、音楽には疎くて。」

 宮口さんは口の前に人差し指を立てた。静かにという合図だ。咄嗟に口を閉じて、耳をすませる。

 微かにアコーディオンとフルートの音色が聞こえた。それも私の通学鞄から。慌てて鞄を開けると、オルゴールの蓋が開いていた。フルートを持った白い服の女性と椅子に座りアコーディオンを弾いている男性と脇のハンドルがクルクルと回っている。

 びっくりして蓋を閉めようとすると、ちょっと待ってと制止が掛かる。

 私は首を捻った。涼やかな音色で紡がれる曲はどこか聞き覚えがある。いつだったか思い出せないが絶対にどこかで聞いたはずだ。

 静かに曲を聞いていた宮口さんは口を開く。

「イエスタデイ・ワンス・モアだ。」

「え、英語の曲?」

 授業や音楽部で習う歌以外は英語の曲に興味が全くないので身構えてしまう。

「うん。英語の曲。もし興味があるならネットで歌詞を調べてみな。私らの親世代か、それより少し上の世代がよく聞いていた曲だったと思う。多分ラジオとかCMで流れていたかも。ほら、うちの家は車に乗る事が多いから。なんとなく覚えていた。」

「どんな曲なん?」

「曲名で言っているじゃん。過ぎ去りし日々よ、もう一度。」

「過ぎ去りし日々…。」

 私が見た白昼夢が正しいなら山口先生の初恋の人は随分前に亡くなっている。先生は何十年経っても忘れられず、時折彼女を思って夕暮れ時に曲を弾く。

 柴さんが録音を依頼した曲は間違いなく、この曲だ。録音出来ているのが証拠。すると柴さんに依頼した人って一体誰だ?

確か依頼時に『初恋の人が自分と共に弾いてくれた、とある曲をどんな形でも良いので聞かせて欲しい』と言っていなかっただろうか。

 という事は今回、柴さんに依頼した人って…。でも、…まさか。だが瑠璃屋及び、その小路周辺は本当に何でも有りだ。柴さんが営む店だってそうなのかもしれない。

「どうしたの?大丈夫?」

 突然、立ち止まった私を心配そうに覗き込む。視界の端でセラも胡麻粒みたいな目を瞬かせた。

 いやいや、マジか。ホラーじゃないですかね。こんな展開。

 早急に柴さんを問い詰めなくてはならないようだ。



「だからほいほい仕事を請け負わないで下さいとお話したじゃないですか。お察しの通り、今回の依頼者は貴方達の世界でいう幽霊の類です。」

 オルゴールを乗せたテーブルに顎を乗せて脱力しきっている私に店長は苦言を呈した。

「やっぱりね。」

 一方、セラはコロコロとオルゴールにぶつかり、弾かれては目を細めて喜んでいる。箸が転がっても笑う年頃なのか。元気なら、もうそれで構わない。

 カラン、コロンとお客様用の扉が開く。はしたない恰好をしていた私は慌てて立ち上がり、お客様を迎える。

「はーい!どなた様でしょうか?」

 目の前には柴さんと白いワンピースを来た女性、以前公園で会ったヴァイオリンの学生が立っている。

 あの写真の人だと確信した。同い年か、少し年上ぐらいだろう。顔が柔和で優しそうな人だ。

 いつの間にか隣にいた店長は来客を店の中へ招き入れる。

「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ。鈴さん、お茶のご用意をお願いします。」

 何とも言えない顔をしていた私に素早く指示を出し、オルゴールが置いてあるテーブルに向かった。

 私は紅茶と店長用のお茶を手早く用意する。すると客室から録音した曲が流れてきた。彼女は早速曲に耳を傾けているようだ。

 彼女はあの曲を聞いて、その後はどうするつもりなのだろう。

 慌てず、慎重に五人分の食器や菓子を台車に乗せて部屋へと向かう。

 部屋の扉を開けば客間の椅子には柴さんと店長しか座っていなかった。椅子の奥にあるピアノの前にヴァイオリン男が座り、彼女はどこからか取り出した譜面台の前でフルートを構える。

 店長はお茶をテーブルに配膳し終えた私に口の前で人差し指を出し、席に座るよう指示をした。

 なるべく音を立てず、おずおずと私が座るのを見計らって彼女達は演奏を始めた。


 

 夕暮れ時が過ぎ夜へと移り変わる頃、本日は車で出勤していないことに気が付く。朝、出勤ラッシュでかなり酷い目に会っていたのに、すっかり忘れていた。またあの人波に揉みくちゃにされると思うと気は重いが、仕方なく歩いて井の足公園へと向かう。

 玉川上水沿いを途中まで歩き、西園に差し掛かった頃だ。フルートとピアノの音色が聞こえた。

「Ich liebe dichだ。」

 この曲の邦題は『君を愛す』と言う。作曲家はグリーク、彼の生涯の伴侶を思って作った最初期の作品だ。ドイツ語で訳された歌曲が有名だが元々の歌詞はデンマーク語で作詞は、かの有名なアンデルセンだ。

 これは死に別れた彼女と共によく弾いていた曲の内の一つだった。あの時は下手だと分かりつつも彼女が練習に付き合ってくれる為ピアノを嗜んでいた。短い曲だから覚えるのは簡単だよと無茶苦茶な事を言っていたのを思い出す。懐かしい。今となっては遠い昔の出来事だ。あれ以来ピアノには一切触っていない。

 曲に付随する記憶が走馬灯のように甦った途端、フルートを弾いている人に会わなければならないと何故か強烈に思った。彼女の命日は昨日だ。今日ではない。それでも何か運命めいたものを感じる。

 頭の中では分かっている。こんな事が有り得る筈がない。馬鹿らしい。でも、もしかしたら。いや、きっと。

 一番星が輝き、街灯が優しく辺りを照らす公園の道を誰かに背を押されたように、ひたすら音がする方へ駆けていく。

 不思議なことに身体が異様に軽かった。肩も腰も痛みを感じない。

 曲が終盤に差し掛かった頃、彼女を見つけた。公園を駆けていた筈なのに、気が付けばどこか品の良い調度品とグランドピアノが置かれた一室に足を踏み入れていた。

 彼女は最後の一音を吹き終わると、そっとフルートを抱えて、優しく微笑み掛ける。

「山口君…。」

 言葉が出てこなかった。懐かしい声、長い艶やかな黒髪。埃をかぶった思い出がきらきらと輝きだす。もう感じないと自分を嘲った、あの時の胸の痛みが甦る。

 そうだ。この眼差しを覚えている。

 彼女はとても世話好きで、暑い夏には汗拭うハンカチを貸してくれた。お人好しで騙されやすく共通の友人によく揶揄われていた。拗ねると右頬を膨らます癖があった。初めて手を握った胸の高鳴りも、抱きしめた体温も全て色鮮やかに此処にあった。決して失くしてなどいなかった。

 胸に去来した数千の言葉は力を無くし、口から出ることは適わない。けれどもこの気持ちが少しでも伝わって欲しいと願い、ただひたすらに彼女を抱きしめた。

「覚えていてくれて、ありがとう。忘れないでくれて、本当にありがとう。」

 メゾソプラノの心地よい声が耳朶を擽る。少し涙混じりだ。泣き止んで欲しくて髪を優しく撫でる。

「最後に貴方が弾いた曲を聞きたかった。どうしても貴方に会いたかった…。」

 柔らかい光が彼女は包み込む。光の中、ゆっくりと溶けて消えていく。身体を離し、温かな両手を握りしめる。

「君を思って弾くよ。何度でも。」

 震えて情けない声が、やっと出た。微笑み、静かに涙を流す顔を眼に焼き付ける。

「さようなら。私の最初で最後の恋人さん。」

 その言葉を最後に眩い光が視界と温かな温もりを奪い去っていった。



 気が付くと公園の中に突っ立っていた。皺が増えた両手も腰や肩の痛みも全て戻っている。ただ幾筋もの涙が流れ、頬を濡らしていた。

 恥ずかしくなりハンカチを出そうと手を動かすと、何故か片手にどこかで見たような宝箱を持っていた。宝箱の中で白いワンピースの女性とアコーディオンを持った男性がじっと音を奏でるのを待っている。

 逝ってしまった。

 それだけが胸に突き刺さり、気力を無くして近くのベンチへと座り込む。手慰みにハンドルを回し、オルゴールを作動させた。


 私の頭の中にあるのは貴方だけ

 貴方は私の心の初恋の人

 私は地上の誰よりも貴方を愛している

 愛している

 私は貴方を今までもそしてこれからも愛している


 オルゴールの音を聞きながら歌曲の歌詞が頭の中で浮かび、消えていった。

「本当にずるい人だなあ…。」

 一生消えない傷を胸に、彼は再びオルゴールの音色に耳を傾けた。



「いってしまいましたね。」

 ハンドタオルで顔を覆い、私は鼻を鳴らした。ちょっと、もう。これはない。先生があまりに可哀想だ。

 若い先生が突然現れて彼女の別れの言葉と共に消えていったとか、この店では些末な問題だ。本当にやめて欲しい。目の前がぐちゃぐちゃだ。こういうのに弱いのは自覚がある。

「てやんでィ!泣かせてくれるじぇねーか。ちくしょうめ!」

 横目で皆を見ると柴さんがおいおい泣いている。店長は嫌々柴さんにティッシュ箱を寄越していた。犬って身体的な不調以外で涙を流さないはずでは無かったのか。

 ツッコミを入れたら負けの気がして目線を逸らす。顔を向けた先に居たヴァイオリン男は何も言わずにピアノと譜面台を片付けていた。

 そう言えばテーブルに無造作に置いたオルゴールがいつの間にか無くなっている。彼女が持っていったのだろうか。

「柴さん、録音したオルゴールが無い。」

「あのオルゴールは正当な持ち主の手に渡りましたよ。オルゴールをどうするかは彼次第です。もしかしたら巡り巡ってうちのお店に来るかもしれませんね。」

「でも、それで良かったの?柴さんの報酬が無くなっちゃう。」

 疑問を投げかけると、柴さんは涙に濡れた瞳を瞬きながら、ようやく顔をこちらに向けた。そして肩に掛けたポシェットの中からコロンと丸い透明な石と淡い緑の石を取り出す。

「心配には及びませんぜ、姐さん!あっしの店で取り扱っているのはこの石だ。強い想いが形作って出来たもの。報酬は半分だけ前払いして貰っていましたからね!」

 そう言って、二つの石を私の両手に握らせ、耳に充てて見るように言った。淡い緑の石は先生が放課後に弾いていた曲、丸い透明な石には先程彼女が弾いていた曲が流れていた。

「姐さん、今回は本当にありがとうございました。こんな純度の高い石は久しぶりに手に入った。お礼と言っては何ですが、あっしの店のアルバイトを時々出向させますぜィ!」

 ん?と首を捻る。出向とは聞かない言葉だ。出勤と何が違うのだろう。

「出向とは他の仕事や会社に出向くこと。またはその仕事に就くことです。」

「まさか、あの人を?」

 震える指でヴァイオリン男を指す。するとその指を行儀が悪いと言って叩き落とされた。ごもっともだが、強く叩きすぎだ。普通に痛い。どうしよう。早くも馬が合いそうにない。

「木原康孝です。よろしくお願いいたします。」

 絵に描いたような九十度のお辞儀。しかも私ではなく店長に向かって。どう見ても芸術系の人なのに、このノリはまるで体育会系だ。文系の私には荷が重すぎる。もし手伝いが必要でもこの人には頼みたくない。超面倒そう。

 しかめっ面に気が付いたのか、あちらも同じく嫌そうな顔をする。

「では挨拶も済ませたところで、そろそろ木原と共に今日のところはお暇いたします!あ、お見送りは要りやせんよ、旦那。それと姐さん!手伝いが必要になったらいつでも声掛けて下さいね!」

 そうして一人と一匹は嵐のように去っていった。

 テーブルに残っているのは冷めてしまったお茶と少しだけ手を付けられたお菓子だけだ。溜息を押し殺して、再び食器を台車に戻す。これだってバイトの大切な仕事だ。面倒だなとは毎回思うけど。

 億劫そうに片付けている私を見て店長は腕組みした。

「木原さん、今日は卵から孵った仔を連れて来ていませんでしたね。」

湯呑で掌を温めるように包み、もの言いたげに、じっと顔を見てくる。

「ああ。あの店長が預かっていたセラと対の卵でしょう?」

「おや、ご存知でしたか。」

「うん。今回柴さんの差し金なのか小路でヒントを出してくれて、その時にちょっと見た。」

「…彼は一体何を想い、願うのでしょうね。」

 順当に考えると大金持ちになりたいとか女性にモテたいとかじゃないのかなと思う。男子高校生って、そういうもんだ。共学に通っているから容易に想像できる。

 店長は私の答えを待たず、自分の湯呑を持って客間を退出した。その後ろ姿を見ながら、自問自答する。

 私はセラに何を願うのだろう。

 彼女みたいに愛しい人に一目会いたいとか、思い出の曲を聞きたいなどでは絶対にない。これだけは断言できる。恋や愛に憧れはあっても理解できないからだ。

 先生達みたいに何十年経っても想いあっている例は稀有だ。目に見えず、触れることも出来ないものは、ちょっとした衝撃で呆気なく壊れる。

 同じ重さの想いが吊り合って、ようやくバランスが取れる。片方だけが重いと、どうしても破綻してしまう。そんな人達は案外多い。

 彼女らが奏でた曲は先生が生きている限り記憶に残り続ける。今は胸が痛むだろうが、その内優しい思い出に代わり、やがて消えゆく。

 先生の顔を見に、また宮口さんと中学校に行こうか。

 彼女が愛した優しい先生。今回の事で落ち込んでいないと良い。いっそ夢だったと思ってくれれば、それが一番。

 でも先生の事だ。きっと何事もなかったように日々を過ごすに違いない。微笑みの中に全部を隠して、誰にも弱みを見せずひっそりと。

 先生はまた夕暮れ時に彼女を想い、曲を奏でるだろう。その旋律は風に乗り、誰かと出会い、波紋の様に広がって、もしかしたらまた形を変えて物語になるかもしれない。今回のような怪談ではなく、もっと違う何かに。


 そうやって物語を知り、糸を手繰り寄せるように先生まで辿り着いた人が、曲と演奏者が込めた想いを引き継いで新たな物語を紡いで欲しい。私は、そう心から願っている。

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店長と私 日々いつか @ituka-hibi

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