第2話

★この話はフィクションです。実在の人物や団体、事件などとは全く関係ありません。予めご了承ください。



 幼い頃、父親とキャッチボールをしてみたかった。私の父親は息子とするのが夢だったのに家には娘しかいないと嘆いていた。女でも、それぐらい出来ると言っても、男のロマンではないそうだ。あっ、そうですか。

 父はいつも文句ばかり。家族や周囲に否定や批判をし続けて、この前なんて、実の娘の容姿まで馬鹿にした。自分だって大した顔ではない癖に、いつも無いものねだり。世の中の男ってこういう奴ばかりなのだろうか。

 思春期の真っ只中に立っている者として、実崎家の父と娘の関係は所詮この程度。改善は未来永劫、不可能なものだと思っている。

 だからという訳ではないが思春期を乗り越えた息子が父親とどうやって向き合うのか興味がある。きっと上手くいかない人達が多いだろうけど、お互いに文句言いつつ、本当の意味で認め合ってくれれば良い。そんな大人な関係は素敵だ。そういう関係を築けた人が社会のどこかにいるかもしれないと思えば少しは、こんな現状でも気が楽になる。大げさに表現すると未来に希望が持てた。

「鈴さん。グローブ持って何、ぼおーっと立っているのですか?手が動いていませんよ。」

 背後から店長に声を掛けられた。緑色の大きな瞳にとがった耳、茶色の水玉が散らされている顔、こげ茶色の鼻から広がる髭がピンと生えている。今日は白いワイシャツの上に茶色のベストを着て、黒いズボンを履いている。

 店長は二足歩行する猫だ。ただし四次元ポケットは持っていない。面倒な事が起こっても助けてくれないのは身に染みて分かっている。人間、自立って大事だ。他者への余計な期待は目を曇らせる。この猫の場合、私が壊してしまった物の弁償に利息がついていないだけ、まだマシだった

 店の棚に置いてあったグローブを大雑把にから拭きしつつ、店長のふくよかなお腹を見た。いつか私の気が済むまで、あのふさふさを撫でまわしてやる。今に見ていろ。

「セラ君が鉢植えに激突していましたよ。」

 スーパーボールぐらいの大きさの綿毛がふわふわと漂ってきた。胡麻粒みたいに小さな目を一生懸命瞬いている。

 セラはこのお店のお客さんが持って来た卵から孵った不思議な生物だ。店長は私の願いを叶えるために創られたと言ったけれど、この店で壊してしまった品物の弁償を完済させて下さいと願っても叶わなかった。じゃあ、何なら叶えてくれるんだ。

 言葉も話せないし、食べ物も必要としない。私や、このお店に関わる者達にしか見えない。お店から出ると、目に見える範囲に居てくれて、ただ気持ちよさそうに浮遊している存在だ。勿論、友達や家族には一切、この子のことは言っていない。

 面白いことに時々、私以外の人間に近づいて、その人が欲しい物に化ける。前回はそれで早く依頼を片付けることが出来た。最近、好奇心を持て余しているようで、有機物、無機物関係なく近づいては化けられるか試しているようだ。

 カランカランとお客様用の扉が開く音が聞こえた。

「ほら鈴さん。布巾とグローブを片付けて、お茶の用意して下さい。お客様は案内しておきますから。」

 私はすぐに台所に向かった。葉っぱを切らしていて、店長の分しか用意できない。残りはインスタントコーヒーしかないけど、個人的にコーヒーはあまり好きではない。

 棚から砂糖とガムシロを入れた容器を取り出して、お盆に乗せた。味付けは勝手にやって下さいという意思表示だ。

 準備を済ませて来客テーブルに向かうと、店長は野球のボールを真剣に眺めていた。

 あ、今回も依頼ね。今度は何の使い走りだろう。

 向かいに座っているのは、大分、腰が曲がってしまった太ったおじいさんだった。車椅子に乗っていて、膝に杖を置いていた。眼鏡の奥にある瞳はさりげなく周囲を観察している。髪も眉毛も真っ白だ。老人には違いないけど、見た目通りの人ではないなと思った。

 でもこの人、どこかで見たことがある。身内じゃなくて、近所の人でもない。一体、どこで見たのだろう。

 お待たせしましたと言いながら、テーブルの上にお茶とお客様用のコーヒー、お菓子を載せていると店長は顔を上げた。

「ああ、鈴さん。紙とペンも用意して下さい。ねえ、御大。」

「御大なんて大層な者じゃないよ。出来れば監督が良いね。」

 コーヒーをすすりながら彼は言った。肩をすくめて、今度は筆記用具を取りに別室に向かった。

「お茶よりコーヒーが好き。ここの店員さんは好みが良く分かっている。」

 背中に掛けられた声に立ち止まり、会釈を返した。

 やっぱり、この人はどこかで見たことがある気がする。


 店から帰宅している途中、いつもの小道を真っ直ぐに歩かず、横道に入った。本当に会えるのだろうか。今までの実績では会えると思うけど、進めば進む程、暗くなっているから、どうも不安だ。

 歩いていくと、見知らぬ公園が目前に広がった。ここは夜のようで、住宅地の中にポツンと取り残された公園に人工的な明かりが申し訳程度に注がれている。

 公園のベンチにスーツを着た男性が座っていた。じっと地面を見つめて考え込んでいるようだ。何だか声を掛け辛い。しかしこちらも仕事だ。意を決して、近づく。暗い中だったので近づいてみて気が付いたが、この人も眼鏡を掛けている。大人になると皆、目を悪くするみたいだ。

「突然、すみません。監督さんから、これをお渡しするように頼まれました。」

「えっ?監督?誰?」

 困惑する彼に野球のボールを渡した。相手が困惑している内でないと聞いて貰えないと思い、すぐさま紙を開いて音読した。

「『こうと決めたら、ガンガン気合い入れていかんかいボケ。いつも千鳥はあかんいうてるやろ』だそうです。あと誰だか分からない場合は七十三か十九と伝えろと仰っていました。」

「それ、本当に監督?君が話を作ってない?」

「作ってないです。」

 彼は野球のボールを眺め出した。とても困惑している。私はと言うと彼もどこかで見たことがあるなと思った。色々と考えて、もしかしたら一昨年か、その前の年ぐらいに毎日、怖い顔してニュースに映っていた人かもしれない。日に日に疲弊し、取材に応えながらも静かに怒りを滲ませていた人に、とても良く似ていた。

「そう。監督は言いたいことを、いつも何かを介して言っていたから、案外本当かも知れんな。俺は直接、文句ばっか言われていたけど。」

 文句ばっか?と、引っ掛かった言葉を頭の中で反芻して、ようやく彼の正体が思い至る。父親に見させられた野球とニュースの情報が頭の中で駆け巡った。

 ああ、だからあの人は監督。でも、この人は今より少し若くて監督は大分老けすぎだ。

 それに今、気が付いたが標準語なのに言葉の端々が西日本の発音だ。知らなかった。東京のチームは全員、関東出身だと思っていた。この人、関西出身だったんだ。そりゃ、そうか。ドラフトするし、地元出身のチームに所属するとは限らない。

「あの、何があったかは何となく分かりますが、その、あまり落ち込まないで下さいね。」

 今、生意気を言っただろうか。言葉にした途端、後悔した。元気が無いから励まそうとしたのは良いけど、上手い言葉を選んだとは到底言えない。

「ありがとう。けど今回ばかりは失敗するわけにはいかない。ここまでしたからには絶対、絶対負けへんぞ。」

 言葉は強い。でも顔が無表情だった。疲労が色濃く残っている。この人は追い詰められていた。

 何も言葉が見つからず、その場で頭を下げて、来た道を戻った。あの状態の人を支えられるのは友人や身内の仕事だ。赤の他人が出る幕ではない。

 どうか、どんな誹謗中傷にも負けないで。一つの情報を鵜呑みにして、何の精査、比較もせずに理解出来ないまま憶測でものを言う輩に屈しないで欲しい。この人が今ある問題を乗り越えた先に幸せがありますように。

 でもこれは。この気持ちは、ただの希望だ。赤の他人の無責任で勝手な夢だ。だって今回は乗り越えられるかもしれないが、その先はどうなるか分からない。脳裏に最近、見た彼の引退試合が浮かんでは消える。

 久しぶりに胃が重くなった。今日は夕飯を食べられる気が全くしなかった。



 次の日、サラと一緒に店へ向かって歩いていたら、小路の途中で野球のボールが目の前を横断して、昨日の横道に入っていった。

 これは間違いなく呼ばれていると思って、その後を追った。こういう勘はよく当たる。

 ボールは男性の靴に当たって止まった。昨日と同じ人だけど、髪型とネクタイが違っていた。今日は黒いネクタイだ。お葬式と結婚のどちらだろうか。

 彼はボールを拾って、こちらへ投げて寄越した。綺麗な放物線を描き、戸惑う私の手に収まる。ボールから目を離し、彼の顔を見た。元々大人っぽい顔だから分かり辛いが、昨日会った時より更に老けている。あと角が取れて丸くなったというか、顔が柔和になった。

「それ、監督に渡して。貴方と出会えて幸運でしたと伝えといてくれ。」

 自分で伝えれば良いものを、何で誰かを介してしまうのだろう。思わず、笑ってしまった。本人たちは絶対に嫌がるだろうけど、この二人は似ている。

「はい、わかりました!」

 ボールを高々と上げて、元気良く、私は来た道を戻った。



「ふん、心にも無いことを。それ話を作っていない?あんたは誰のファンや。」

「誰のファンでもありません。野球は体育の時間以外、やったこと一切無いです。」

 店に戻って、すぐさまテーブルで依然として寛いでいる監督にさっきの言葉を伝え、ボールを渡した。案の定、監督は疑いの眼差しを寄越す。一体、いつもどんなコミュニケーションをとっていたのか。あの二人の関係は不可解だ。

「まあ、女の子はしょうがないけどね。最近は野球少年だって、こちらから探しに行かないといけないよ。皆、サッカーばかり。プロもプロで良い選手は、どんどん海外に行っちゃう。」

「監督。ぼやいていないで、奥様が迎えに来ましたよ。」

 店長がお客様用の扉を開けて監督を待っていた。車椅子を器用に動かし、そちらへ向かう。

「おいて行ったくせに一体、何の用?」

 憎まれ口を叩きつつ、車椅子から立ち上がる。監督は今までが嘘のようにシャキッと背筋を伸ばし、奥さんに近づいた。

「何言ってんのよ。だからこうして迎えに来たんじゃない。ほら!」

 やはりどこかで見たことがある気の強い女性は、己の旦那の手を掬い上げて、手を繋ぐ。

「お世話になりました。さあ、ボサっとしていないで、さっさと歩く!」

「はいはい。おー怖い。」

 二人は仲良く言い合いながら、扉の向こう側へ歩いて行った。

 こんな夫婦もあるんだな。世の中も捨てたもんじゃない。尻に敷かれているだけだと思っていたけど、相思相愛ってこういうことを言うんじゃなかろうか。二人共、楽しそう。

 お見送りが終わって、店に入ると監督が使っていた杖と車椅子は跡形もなく消えていた。

 いやいや、こんな事で驚くわけないじゃん。瑠璃屋のアルバイターを舐めて貰っては困る。私の心臓を試すな。まったく。

「鈴さん。これ、今回の報酬です。飾っておいてください。」

 お客様用のテーブルに、さっき監督に渡したボールが残されていた。

「えっ、忘れ物!どうすんの、これ。追っかける!?」

「どうもしませんよ。監督は今回の依頼しか承っていません。言ったでしょう?店が取り扱う通貨は物に宿った思いです。あの人達の込めた想いが次の物語を紡ぐまで、この店に留まります。それは、かなり先の話かもしれません。もしかしたら大分前に戻るのかも。そうやって綿々と紡いで辿り着く想いが此処にあります。素敵なことだと思いませんか?」

「分かるような。分からないよーな。」

 いつになく饒舌だ。しかも声音は普通なのに尻尾がへたっている。何だか落ち込んでいるようだ。今回の件で落ち込む要素がどこにあるのだろう。

「古人復た洛城の東に無く、今人還た対す落花の風。年年歳々、花相似たり。歳歳年年、人同じからず。ああ、これ以上言うのは野暮ですかね。」

「なに?ねんねんさいさい?全く分からなくなってきた。」

「ずっと先の未来で。いや、鈴さんが大人になれば身に染みて分かる時がきます。人間ってそういうものじゃないですか。」

 店長はそう言って、とぼとぼと奥に引っ込んでいった。今日はいつになく情緒不安定だ。後でお茶とマタタビでも持っていこう。こちらの調子が狂うじゃない。そんなに気を落とさないで欲しい。

 私は、監督と彼を繋いだボールを手に取った。

 今回のように、いつかは訪れる未来を行ったり来たりは何度かした。でも画面の中でしか会えない有名人達に会ったのは初めてだ。

 似た者同士、でも他人で。関係は師弟だけど、ぶつかり合い、分かり合って。でも、また喧嘩して、仲直りする。

 父と息子の関係って、あんな感じなのかな。そうだと良いな。心からそう思う。

 いつかは自分も父と和解できたら良い。貴方と出会えて幸運でした。そう伝えられたら、なお良いではないか。

 私の周りを飛び回っていたセラが頬を擽る。心配そうに何度も、何度も。

「大丈夫だって。店長みたいに落ち込んでないよ。」

 セラは納得してくれたのか目を細めて、肩の上に乗っかった。最近のブームは肩らしい。先週は頭の上だった。

 セラを落とさないように布巾を持って来る。ボールを丁寧に拭く。そして適当なケースに入れて、棚の端に飾った。

 どんな想いが込められているのか、私には分からないけれど。少しでもそれを伝える手助けをするのは悪くない気分だ。


 日が落ちても、また昇る。人はどんどん移り変わっていく。

 時が経ち、大人になってしまったせいで今の自分の想いを忘れたとしても、変わらないものだって確かにあると、そう思いたい。

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