第2話 後編

 久しぶりに荷造りをした。


 週末の土日に旅行に出かけるためである。


 目的地は熱海。私が夫からプロポーズを受けた場所である。楓の言葉を聞きふと思い立ったのだ。


 もちろん、一人旅。


 朝、普段の土日よりも少しだけ早起きして家を出た。


 新宿駅まで出て、そこから小田急線に揺られる。


 電車内を見渡せば、座席に腰掛け、大きなスーツケースを前に置く若者の姿がちらほら見受けられる。男同士、女同士、カップルという組み合わせである。楽しそうにおしゃべりしている人たちもいれば、お互いにスマホを眺めている人たちもいる。


 私はぐるりと見回して、それから膝の上に置いたリュックサックに目をやる。着替え一着と化粧など最低限のものだけが入った軽いリュックサックである。


 やはり、旅行のときにはいろいろと動き回るため、私自身はスーツケースよりもリュックサックが好きだった。


 そういえば、夫はそんな私を見て、香澄はいつも荷物が少ないねと笑っていた。まあこのあたりは、性格が出るところなのだろう。


 小田原について、東海道本線に乗り換える。


 車窓からは海が見える。雲がゆらゆらと青空をたゆたい、海は陽光を浴びてきらきらと輝く。そんな景色を眺めていると、心が穏やかになるような気がした。


 真向かいに座る三人組の男性たちは海だと興奮したような口ぶりで声を上げながら、窓の外に広がる大海原を眺めていた。おそらく大学生であろう。 


 思い返せば私にもそんな時代があった。いまよりも万物に心を震わせていた。楓なんかはそれを聞けば驚くかもしれないけれど、少なくとも自分の中ではいろいろなものに対して心を揺らしていたと思う。それがどこまで表情に出ていたかはわからないけれど。


 ただ社会人になって、少しずつ心が鈍くなっていった。大人になった、なんて言葉を使えば聞こえはいいかもしれない。しかし、それは劣化だ。社会で求められる姿を演じているうちにロボットみたいになってしまった。本当の自分を封じ込めて、これは私にとって大切なことなんだと自分に言い聞かせて生きていく。


 社会のレールに乗ることこそが、唯一の幸せを得る方法だと信じて疑わず、ひたむきに茨の道を突き進んでいく。でも、それも仕方がないことなのかもしれない。それ以外の選択肢を私を含めた多くの人間は持ち合わせていない。その呪縛から解き放たれた存在なんて、きっと一握りの才能ある人たちだけである。


 そんなときだった。夫と出会ったのは。前の彼氏と漠然と結婚するのではないかと思った矢先の破局。理由はしっかりと覚えていないが、すれ違いだったのだと思う。一緒に同じレールの上を歩いてはいけないと感じたのだ。お互いがそう感じ、そして別れた。悲しみはなかったが、喪失感に包まれた。自分には何かが欠けているような感じがしたが、それが何であるかはわからなかった。


 それを教えてくれたのが夫だった。彼との時間は、私の鈍くなった心に暖かな温もりを与えてくれた。その笑顔に癒やされた。少し抜けたところも可愛らしく感じた。人の幸せとはレールの上を歩くことではなく、ただ大切な人がそばにいて、紆余曲折を経ながら一緒に進んでいくことだと心の底から理解することができた。


 これまで感じることができなかった夫への思いが溢れてくる。なぜこれまで悲しみに浸れなかったのか。それはきっと、様々な人間の目が私を大人たらしめたからだろう。でも、この電車の中にはその瞳が存在しない。


 ああ、涙がこぼれそうだ。私は軽く上を向いた。


 電車の中で急に泣き出す三十路なんて、滑稽なだけだ。それに、なんだかこの姿を誰にも見せたくなかった。


 私は大きく口を開けて欠伸をするふりをして、それからゆっくりと優しく目元を拭った。


 そんなこんなでしばらく電車に揺られていると熱海駅に到着した。


 駅を出て、あたりを見渡す。以前来たときとは少し違う場所であるように思えた。


 町はゆっくりとそのかたちを変えていく。そしてそれは私もそうだ。あの頃といまとではきっと違う。


 駅前の地図の前に立って、以前訪れたところを確認する。たしかあのときは最初に美術館に行き、ゆったりと商店街を回ってそれから海を眺め、旅館へと向かっていった。


 同じ道を辿るとしよう。


 私はバス停へと歩みを進めた。


 休日ということもあってか、カップルや家族連れなど様々な人の集団とすれ違う。


 多くはスマホの画面を見て、行き先を確認している。ハイテクなことである。


 私は断然地図を見る派だが、あまりそういう人はいないに違いない。一緒にここはどうやっていくんだろうと、連れとあれこれ頭を悩ませるのも乙だと思うが、若い社員に話したら笑われそうである。


 バスに乗り、美術館へ向かう。急な山道をゆったりと走るバス。ここを歩いていく猛者はいるのだろうか。軽い山登りみたいになりそうだ。


 揺られること十五分。美術館に到着した。


 白いキャンパスのような外観が私の眼前に広がる。相変わらず綺麗なところだ。


 ゆっくりと館内を見て回る。以前夫と来たときは、展示物の感想を小声で話しながら回っていた。私も夫も意外とこういった展示を回るのが好きで、美術館や博物館などはよく休日に行っていた。


 一時間ほどで展示は全て見終えてしまい外に出る。映えるスポットが多く、写真を撮る人たちで賑わっている。私はとくに映え写真なるものに興味はないが、ちょうど海や熱海の町を見下ろせる絶景スポットになっていたため、一枚だけ記念に撮影し楓に送りつけておいた。


 写真を送ったあとで、ふと思う。


 そういえば、前回来たときはどうだったんだろうか。館内に戻り携帯の履歴を辿っていると、一枚の写真が出てきた。私と夫のツーショットである。お互い、自然な笑みを浮かべている。いまの私は笑えているだろうか。


 確かめるように、自分の口角を指で上げてみる。


 と、目の前を子どもが通った。不思議そうな顔でこちらを見ている。私は途端に恥ずかしくなり手を下ろすと素知らぬ顔でその場を立ち去った。それからしばらく歩いたところで思わず笑ってしまった。




 美術館を出て、再びバスに乗って駅へと戻った。


 時計を見ると二時。ちょうどお腹が空いてきた時間だ。商店街を歩きながら、熱海と言えばを考える。やはり、海鮮だろうか。


 すると、ちょうどよく目の前に海鮮丼屋が姿を現した。これは行くしかないか。お店に入ると、少し混み合っていた。ただ、時間が遅いこともあってかそんなに待たないうちに案内され、無事、海鮮丼にありつけた。さっぱりしていてとても美味しかった。


 お店を出て、商店街を回る。何か会社におみやげでも買わなければと探していると、温泉まんじゅうが売っていた。それを買って海へと向かう。


 秋という季節もあってか、波打ち際の人影はそこまで多くない。しかし、岩場や砂浜にはそこそこ人がいて、のんびりとした雰囲気が感じ取れた。私は砂浜を横目に噴水の方へと向かう。ここにはモニュメントが置かれており、二つの手形に従って手を置いて愛を誓い合えば幸せになれるらしい。月並みなものであるが、当時私たちも例に漏れずこれをやったのである。いま思えば、浮かれていたのだろう。なんとなくだが、夫からは緊張のようなものが見て取れて、この旅行中に何かありそうだと楽しみにしていたのだ。


 それから、ベンチに腰を下ろした。浜風が気持ちいい。ここは、不思議と潮の匂いがあまりしない。海にいるようで、海にいないみたいだ。私も一人で旅行をしているが、いろいろなことを思い出しながらの旅路になっており、まるで一人ではないみたいに感じていた。


 しばらくそのまま海を眺める。目の前に広がる穏やかな海をときおり船が横切っていく。何をするでもない時間。しかしそれが心地いい。


 思い返せば、社会人になってからあまりこういった時間は取れなかった。常に何かに追われる日々。いかに無駄を省いていくかが求められる。でも、きっとこういう時間こそが人生を豊かにする。心を癒やしてくれる。


 どれくらい時間が経っただろうか。


 時計に目を向けると、十七時。


 チェックインの時間だ。私はゆっくりと立ち上がって旅館へと歩みを進めた。




 旅館でチェックインを済ませ、浴衣に着替えると温泉につかる。どうやら美肌の湯であるようで、いろいろな効能が書かれている。


 お風呂に一時間ほど浸かり、しっかりと温まったところで夕食の時間になる。


 夕食は最上階でのバイキング。賑やかな雰囲気に微笑ましくなる。お酒を飲もうかとも思ったが、いまではないかと思い、とくに何も注文せず夕食を済ませた。


 部屋に戻ると、外は真っ暗だった。なんだか、お酒が欲しくなる。たしか、自動販売機があったはずだ。エレベーターで下の階にある自販機のところへ向かう。ビールやチューハイなどそこまで種類は多くないがお酒があった。私は氷結のレモン味を買うと部屋へ戻る。


 そして、部屋の窓の前にある椅子に腰掛けた。ここからは、ちょうど海や空がよく見える。


 私がプロポーズを受けたのもここだった。


 多分同じ部屋。向かい合って椅子に座ってお酒を飲んだ。彼はビールで私は氷結。


 別にすごいロマンチックでときめき溢れるものではない。でも、ちょっとした非日常感がとても心地よかった。


 カシュッとタブを引き上げる。レモンの酸っぱい匂いが鼻孔に広がる。


 いま、私の前に彼はいない。その事実を感じて涙が頬をつたる。


 ああ、私は彼のことをこんなにも思っていたんだ。それを噛みしめる。


 思い出って残酷だ。いまこの瞬間、私の胸に刻み込まれた彼を、きっと誰も超えることはできない。それは、ワインみたいに年を経るごとに味わい深くなっていくものなのだから。


 ふっと鼻を啜って、缶を胸の前に持ち上げる。そして、腕を前に突き出して


「乾杯」


 そう小さく呟いて、唇を濡らす。


 今度私がここを訪れるとき、隣には誰かがいるのだろうか。缶を付き合わせて微笑み合える相手はいるのだろうか。それともまだ、やもめのままなのだろうか。それは分からない。


 けれども、私はこの瞬間からまた新たな一歩を踏み出していけるという、そんな感覚を覚えいてた。そんな私の門出を祝うかのように、満月が海を明るく照らしていた。

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やもめになりし日 緋色ザキ @tennensui241

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