やもめになりし日

緋色ザキ

第1話 前編

 朝起きると、隣に眠る君はいなかった。


 どうしてだっけと考えながらゆっくりと身体を起こして、はたと思い出す。彼は昨日交通事故に遭って死んだのだ。


 営業で外回りをしている最中のことだったらしい。訪問先の会社を出たところで、突如トラックが突っ込んできて弾き飛ばされ、頭を強く打ちそのまま帰らぬ人となった。遺体にはそこまで損傷がなく、死に顔は穏やかだった。


 私はちょうど出社中で、事務作業に勤しんでいるところだったが、電話がかかってきてその訃報を耳にし、病院へ向かった。着いた頃にはすでに私と彼の両親がいて、彼の両親は大粒の涙でその頬を濡らしていた。その顔を見て、ああ亡くなったのだなと悟った。


 それから警察の方に死因や加害者も亡くなっていることなどを聞いた。婦警の方が私に気を遣い、言葉を選びながら話しかけてくれていた。私はそれに、ただゆっくりと頷いていた。とくに涙は出なかった。


 その後、通夜や葬儀の段取りの話をした。近親者の死は初めてで分からないことばかりだったが、親族らがそのあたりは色々と手伝ってくれるとのことで安心した。


 一息つける段になって、携帯を確認すると恐ろしいくらい多くの通知が来ていた。友人や会社の人、夫の友人など様々である。中にはどこで聞きつけたのだろうという人もいた。内容はほとんどみな、私を心配するものだった。なんだかそれにげんなりする。もちろん、悲しさはある。けれども、別に心配して欲しいわけではなくて、むしろいまはそっとしておいて欲しかった。きっと、明日以降の通夜や葬儀でも同じように声をかけられるのだろう。そう考えると、一気に参加意欲がなくなる。しかし、私が参加しないわけにもいかない。


 起きてから家事やらなんやらをやっているうちにあっという間に時間が過ぎていて、通夜の時間になった。


 案の定、様々な人から声をかけられる。もしかしたら初めて話す人もいたかもしれない。皆一様に私のことを心配してくれる。


 私は終始悲しそうな微笑みを貼り付けてそれに応対した。しばらくして、話しかけてくる人がいなくなったところで私は小さく息を吐いて椅子に腰掛けた。すると、後ろから話し声が聞こえてきた。


「まだお若いのに旦那さんに先立たれるなんて、可哀想な話ね」


「結婚してまだ一年だっていうじゃない。そんなすぐに未亡人になってしまうなんてね」


 小声で話す二人の中年女性は、夫の親戚だったはずだ。二人は私が見ていることに気づくと気まずそうな顔を向けながら軽く会釈をして去って行った。


 その後ろ姿を眺めながら、ああそうかと思う。


 私はやもめになったのだ。


 やもめ。この言葉は近世、つまり江戸時代あたりで使われたもので、未亡人という意味がある。大学時代にたまたま受けた歴史の授業で教授が話していた。なんとなく語感が気に入り、覚えていた。

 当時は将来結婚するのかすら分からなかった私。それが、やもめになったのだ。なんだか感慨深いものがある。


 その後、通夜は無事終わりを迎えた。本当は自宅に帰ろうと思ったが、両親から実家で休んだ方がいいと提案され、そうすることにした。帰りの電車に揺られながら思う。


 結婚して一年。これから妊娠や出産、子育てなどを行っていくのだろうと漠然と考えていた私。しかし、夫は突如亡くなった。一体これからどうなっていくのか。

 ごーっと音を立て、電車はトンネルに入っていく。目の前に映る暗闇。私はこれからどこに進んでいくのだろうか。一抹の不安を感じ、私は小さく息を吐いた。





 翌日の葬式も滞りなく終わり、それから数日後には出社日を迎えた。当然、会社に行くと同僚たちから口々に声をかけられた。情報が出回るのが早すぎて困ったものである。


 ようやく午前中の業務が終わり、休憩室でお弁当を食べていると営業部の男性社員から声がかかった。彼は私の二つ下の年齢であり、出世が早く、会社のホープともっぱらの噂の人物である。また、さわやかな容姿で若い会社の女の子たちの注目の的にもなっている。


「お久しぶりです、南雲さん」


「はい。天屋さんは、その大丈夫ですか?」


 心配そうな顔の南雲さん。ああ、またその話かとげんなりする。夫の話題はなかなかに私を離してくれない。


 私は微笑みを浮かべて大丈夫ですよと答えた。しかし、南雲さんの顔はあまり晴れやかにならなかった。


「あの、天屋さん。何か困ったことがあったら言ってください。俺、力になるんで」


 それから、じゃあこれから外回りなのでと付け加えて南雲さんは去って行った。


 私は気づく。好意を向けられているのだ。それはいまの私にとって煩わしいものではあったが、仕方のないことだとも思った。


 仮に私に好きな人がいて、その人が既婚者だったとする。彼が離婚や死に別れによって一人になったとき、距離を縮めようとだって考えるかもしれない。ただまあ、私のことだ。そもそも好きな既婚者ができるかが怪しいのだが。


 そこまで考えてふと思い出した。夫とは、前の彼氏と別れた直後に出会い、アプローチを受けたのだった。切れ目とは、新たなつながりが生まれやすい時期なのかもしれない。


 その日、退社までに他にも複数の男性から南雲さんと似たような言葉をもらった。中には、私が独身のときに告白してきた人もいる。


 なんだか昔を思い返すようだった。

 自分で言うのも何だが、私はもてる。これまでの人生で多くの人からアプローチを受けてきたし、恋人が途絶えることもなかった。それで、女性からひがまれたり、仲間はずれにされたりすることも多々あって、同性の友人はあまりいなかった。


 あるとき、私の数少ない友人の中でも一番親しい友人に言われたことがある。


「世の中に存在するものそれぞれに好かれやすさがある。好かれやすい味、形、匂い、色、音。香澄は好かれやすい人間なんだよ。それは自覚しておいた方がいい」


 とくに嫌みでもなんでもなく、淡々とそう事実を私に教えてくれた。もちろん知っていたけれど、改めて理解させてくれた。


「でも、それとは別に人それぞれ好みはあるよね。私は楓のことが好きだよ」


 親友、楓はそれに怪訝な顔を向けた。


「その言い方だと、私があまり好かれていないってことになるんだけど」


 しばしの沈黙。それからお互い顔を合わせて大いに笑った。

 そんな彼女もいまでは二児の母親である。


 私の記憶が正しければ、いまはたしか時短勤務で働いていたはずだ。忙しそうではあるが、夫の訃報に連絡もくれていたと思う。あの日はメッセージの量が膨大で、とにかく適当に返信していたため内容は覚えていなかった。携帯を確認すると、今度ご飯でも行こうと書かれていた。相変わらず彼女らしくて、そういうところが大好きだと感じた。


 しかし、私はといえば、それに対してありがとうという文字の添えられたスタンプを返しただけだった。会話が成立していない。あの日の私はよっぽど疲れていたのだろう。それで、すぐにそのスタンプの下にぜひ行こうという旨の返信を添えた。




 週末。


 駅前でぼんやりと電光掲示板を眺めていると声がかかった。声のした方を向くと、私の親友、楓が立っていた。


 少し丸みをおびた気がするが、落ち着いた雰囲気はあまり変わっていなかった。


 私と目が合うと柔らかい笑みを浮かべる。彼女は普段、あまり顔を崩すことはないが、特別な人間の前では素敵な顔を見せる。きっと、夫や子どもにもいつもこのように微笑みかけているのだろう。


「いやあ、わざわざこっちに来てくれてありがとね。それじゃあ行こうか」


 私たちは、駅の近くのイタリアンに入った。 内装は薄暗く、天井にはシャンデリアが吊されており、しゃれた雰囲気のお店である。値段もランチは千円台とお手頃価格であり、デートに良さそうな場所だ。


 食べ物と飲み物を頼み、それから私たちはしゃべり始めた。


「子育ての方はどう?」


「忙しいけど楽しいかな。旦那も色々やってくれるし、何より子どもたちの成長を日々感じられることが喜びかな」


 スマホを取り出し、子どもの写真を見せてくれる。そこには、二人の女の子が笑顔でピースしている姿があった。たしかに、前に楓の家に遊びに行ったときよりも大きくなっている。


「まあ、私のことはいいよ。それより香澄はどうなの?」


「うん。なんか最近モテ期が来てる」


 私の返答に、ぶっと楓は吹き出した。それから大笑いする。


「いやあ、そっか。モテ期ね。たしかにいまの香澄には相手がいないわけで合法的に口説けるもんね」


 香澄はそれからまた、ふふっと笑った。どうやらつぼに入ったみたいだ。しかし、笑いごとではない。正直、いちいちお断りするのが面倒なのである。


「その中で誰かいい人はいないの?」


 私は考えてみる。頭の中を男性の顔がよぎり、そして消えていく。


「とくにいないかな」


「そっか。ねえ、実際どんな人がいるの?」「営業部のさわやかエースとか、大学時代の同級生でいま有名な外資系の会社で働いている人とか」 


 他にもいろいろな人に好意を向けられている。


「なおかつかっこいいんでしょ?」


「うん。容姿も整っていると思う」


 楓はやっぱりねと言いたげな顔で頷く。


「女の子たちから引く手あまたな人種にもててるわね。でも、香澄はあまりそういうのに興味ないからねえ」


 そう言って、楓はスパゲッティをぱくりと頬張る。そして、おいしそうに頬を緩めた。


「たしかにそうかも。楓と同じようにね」


 そういう一致があったからこそ、私は楓と長年会い続けているのかもしれない。世間的に見て優れているとか、劣っているとかそういうものに振り回されて生きている人と仲良くし続けられる自信はなかった。


「そういう意味では、和義さんは普通の人だったわね」


 たしかにそうだ。


 和義、私の夫は良くも悪くも普通の人だった。だから当時親戚一同がそろいもそろって私たちの結婚に反対していた。もっといい人がいると何度も説得された。 


 彼らの言ういいとは家柄や仕事、学歴、肩書きといった世間体的なものだった。たしかに、彼は一般家庭の出で、年収は平均的であり、有名な大学を出たわけでもなく、親族のお眼鏡には全く叶わない人物だった。しかし、私はそんなものに興味はなかった。それよりも、彼と一緒にいるときに感じられる居心地の良さの方が私にはよっぽど魅力的に映った。


 結婚は難航を極めそうになったが、親族の中で唯一両親だけは賛成してくれて、そのまま家族とわずかな友人だけでこぢんまりとした結婚式を挙げたのであった。


「香澄はもう一度結婚する気はあるの?」


 楓のその一言に私は虚をつかれる。夫が亡くなってからいろいろと忙しない日々だったこともあって、全く考えていなかった。


「うーん。いい人がいれば」


 だから、私から出てきたのはそんなありきたりであいまいなものだった。


 楓は小さく息を吐くと、真剣な顔をした。


「まあ、私は香澄が幸せになってくれればどっちでもいいんだけどさ。ただどっちにしても、まず和義さんのことを自分の中で折り合いをつけなきゃじゃないかなあ」


「折り合い?」


 私は食べる手を止めて聞き返す。


「うん。きっとまだ、香澄は和義さんの死をしっかりと自分事として受け止められてないんじゃないかな。」


 たしかに、その通りだった。私はまだ本気で夫のことを悲しめていないのだ。そういう場を自分では作れていない。葬式などの儀礼も他者の目と感情があって、自分の心の底にある気持ちと対話することができていなかった。


「そういうのって、どうすればできるのかな?」


 楓はふっと微笑んだ。


「思い出の地を、ゆっくり一人で回ってみなさい」

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