社会性の極め? それとも、暴走?
与方藤士朗
我が子がかわいいとか述べ散らす前に・・・
あれは、1988年のことだった。昭和の終り。昭和63年とも言います。
国鉄がJRになって翌年。まだ、混乱もあった頃ね。
あの年私は、大検合格の資格で大学を受験し、合格した。
現役の年での合格だった。
6歳の頃からいた養護施設を、それに伴って三下り半を突き付けるかのように退所した、つまり、美化した言い方をすれば「卒園」したのです。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
私を最後に担当していたのは、男性の児童指導員。私の母校の近所の私立大学を卒業し、新卒と同時にその養護施設の児童指導員となって10年弱。
彼は数年前、大学のサークルの同窓生と結婚していた。
そして、子どもも一昨年前に生まれていた。
本人は家族を得られて幸せの絶頂。
その仕合せこそが誰もに通用すると思っていたのだろうか。
~ 思い上がりとまで言いたくはないが、そう感じた者もいないではなかった。
彼は最後の2年間、私の担当職員として職務にまい進した。
情緒論と理想論の多い人物だった。
そこから派生する言葉、枚挙にいとまなし。
彼は、大学に合格してかの地を去った私に、しきりに述べた。
「家庭を見るべきだ」
「我が子がかわいい」
「大学に行けなくても、高校に1年余分に通っても、人間としてよければ・・・」
これから大学に入って、テメエの存在自体を確立していかなければならない私にとって、そんなものは何の役にも立たない。
それでもかまわず、彼はひたすら、家庭の良さを説いた。
それに加えて、人間性のようなものを引合いに出していた。
彼はひとつ、大きな過ちをしていた。
相手にとって、自分の理想や自分の述べている「人間性(のようなもの)」は、無条件で誰に対してもいつでも役に立つと本気で思っていたこと。
これが、対手である私が施設にいた頃からの一貫した問題点。
彼も実は、わかっていた。
彼が担当するまでのその施設の職員らの対応のお粗末すぎたことを。
そして、彼自身の対応もお粗末という点でさほどの差もなかったことを。
「おまえには何もしてやれていないけど・・・」
気休めにもならない枕詞を述べて、さらに何やら述べたことも。
彼は、まだ、勘違いしていた。
とうとう堪忍袋の緒が切れた私は、この人物との対話をやめた。
丘の上くんだりまで与太話などしに来ても、時間の無駄。
それで何かの利益があるわけでもない。
「まあそう言わないで、飯でも食っていけば・・・」
そんな目くらましのような申し入れも、やがて私は拒否した。
「時間の無駄です。必要なことを述べたら帰ります。遊びに来ているのでもなければ親睦を深めに来ているわけでもありません!」
はした金ならぬはした飯なんかでごまかすな!
必要なことをやらないでどうでもいいことばかり並べてどうする。
そんなことを思いながら、彼の言うことを聞いていた。
家庭を見るべきだ。いずれは家庭を築いていかなければいけないだろう。
私も、子どものために一生懸命やっている。
どうか、私の家庭をしっかり見てやってほしい。
うちの子をどう思ってくれても構わない。
憎たらしいと思ってくれても、だ。
今、私はそんなことん構っている時間などないのだ。
余裕を持て?
そんなことに余裕など与える必要などない!
そんなものは寝言に過ぎん!
相変わらず我が子がかわいいの云々。
私から見てどう見てもとんちんかんなことを言う彼に、私は言った。
我が子がかわいいだのヘチマのクソのと述べるのはカラスの勝手だが、その前に社会性をきちんと示せ。
私がいたときの職員としての貴殿の対応を問題視しているのだ。
今後はそんなことのないようにしたい?
そんなもんが、私に何の気休めになるのか。
そんな話を聞きにこんな丘の上くんだりまで来るのは、時間の無駄に過ぎん!
馬鹿も、休み休み言え!
こんな話なら・・・、
まだ簡単にはらんでおろすそこらのハタチ前後のネエチャンや相手のニイチャン、
ついでにその取巻きあたりのほうが、
ワタクシは子どもも育てられん阿呆でございます
と予見できた行動ができているだけ、社会的には上出来というものだ!
さすがにそれを、私はその人に言ったわけじゃない。
面と向っては、ね。
しかし、18歳か19歳の青年にしては、すごい言葉を思いついたものです。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
今思うとね、社会性というものを徹底すれば、確かにこのくらいの言葉に行きつきかねないものがあるのは確かです。
しかし、これでは人権感覚も疑われかねんわな。
そういうときのために、人間性というものがあるわけね。
人間としてよければとか何とか、テキトーなことを言っていれば済むというわけではもちろんない。ましてやそんな言葉を免罪符にテメエの不作為を糊塗しようなどというのは言語道断である。
そういう意味では、社会性というものは確かに大事である。
ただ、社会性の鋭さは、ときに、頭を打つことになりかねない。
人間性というものはある程度曖昧であるがゆえに無視されがちである。
無論、そんなものを無視してもやらねばならないこともある。
しかし、人間性というものは、その人の人となりについて、ボディーブローのように効いてくるものでもある。
そこに気付けたとき、人は、弁証法的にさらなる高みに登れるのではないか。
私がそういう高みに登れたとは、お世辞にも言えないけどね。
社会性の極め? それとも、暴走? 与方藤士朗 @tohshiroy
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