ドアをあけたら

兵藤晴佳

第1話

 浪人生の師橋松太郎君には3分以内にやらなければならないことがあった

 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れをつまようじ一本で止めるのだ。

 何でそんなことをしなければならなくなったかというと……。


 身の程知らずにも偏差値50切ってる田舎の底辺校で、いわゆる国立一期校を目指したのが失敗だったのだ。

 予備校もない田舎の、受験のジの字もない底辺校で、サルとそれほど違わない連中の中に埋もれて悶々としていた3年間は、どこでもいいから別の世界に行きたいという思いを募らせるには充分だったろう。

 もっとも、思いだけではどうにもならない。

 生まれ育ちの身の程知らずの挑戦は、当然の結果を招く。


 そんなことは分かっているのに、師橋松太郎君は、さっきまで夜食のタコヤキが刺さっていた爪楊枝を、バッファローの群れに突きつける。

 いかにも無謀だが、刺さるものはこれしかない。

 受験勉強に必要なペンの類は背にしたドアの向こうに置いてきてしまった。


 ドアを開けると異世界につながるようになったのは、最初の受験に失敗したときだった。

 覚悟していた結果ではあっても、やはり絶望感は免れない。

 ベッドの上に横たわったまま、考えた。

 ここじゃない、別の場所に行く方法はないものか。

 少なくとも、寝ていてはどこにも行けないと気付いた。

 気分転換に散歩でもしようと、部屋の外に出たときだった。


 なんだ、これは。


 曇り空の下に、見渡す限りの荒野が広がっている。

 冷たい突風に吹きちぎられた枯草が、頬をかすめていく。

 まるで、中世風ファンタジー小説の中にでも迷い込んだような……。

 しばし現実を忘れて荒涼たる風景の中に佇んでいた師橋松太郎君の目に止まったものがある。

 風の中を疾走してくる一頭の馬にまたがった人影だった。

 それが、長い黒髪をなびかせた美しい少女であることに気付いたとき、暗黒の浪人生活は光に向かって反転した。


 今、怖じることなくバッファローの群れと対峙しているのは、その光に向かって進むためである。

 これを打ち破れば、その向こうにはあの少女が待っているのだ。

 馬上から見下ろす眼差しを受け止めたときも、そうだった。

 何かに取りつかれたように、師橋松太郎君は後を追いかけて走った。

 もともと運動と名のつくものが全てダメなうえに、浪人生活ですっかり怠惰と不摂生が全身に染みついている。そんな身体では、どれだけ走ってもせいぜい3分がいいところだ。

 息を切らして倒れそうになっているところへと、馬首を返した少女がやってきた。

ぐったりと横たわっているのを見下ろして、優しく微笑みかけた。


 無駄と分かっていても追いかけてきてくれる、あなたのような人を待っていたのです、と。


 その日から、ドアの向こうへと通う日々が始まった。

 足を踏み入れた先には、その度その度に違う光景があった。

 あるときは、深い森があった。

 またあるときは、涼しい風のそよぐ爽やかな緑の高原だったりもした。

 そのどこにでも、少女は待っていた。

 狩人や、どこかの色鮮やかな民族衣装、きわめつけはまばゆく光る真っ白な夏の海岸だった。

 青空の下に、ほとんど裸身とも言っていい水着姿で横たわっていたのである。

 もっとも、それらを眺めていられるのは3分間だけだ。

 それを過ぎると、全ては幻となって消え失せる。

 師橋松太郎君はいつも呆然として、自宅の2階の小さな部屋に佇んでいるのだった。


 もっとも、ただで会えるわけではない。

 少女に出会うまでの間には、それなりの艱難辛苦が待ち構えていた、

 森の中では狼の群れに出くわして、木々の間を縫って逃げ帰らなければならなかった。

 緑の高原にたどりつくまでには、山の険しい斜面を指で引っ掴んで這い上がらなければならなかった。

 海岸にたどり着くためには、鮫に怯えながら大海原を泳ぎ切らなければならなかった。

それなりの思いをするためには、それなりの危険を冒さなければならないのだった。


 そんなことをしていれば、当然、勉強はできなくなる。

 2度目の冬、師橋松太郎君は再び入試に失敗した。

 20歳を過ぎていた。

 同期の中には、もう社会に出て、自分の人生を始めようとしている者もいる。

 3浪するということは、その先は受験が人生になるということだ。

 腹を括るしかなかった。


 だが、たとえ家の中に閉じこもって勉強したとしても、ドアを開けて部屋の外に出ないわけにはいかない。

 開ければ別世界が広がり、そこで苦難を潜り抜けて少女に会わなければ、部屋に戻ることはできないのだ。

 そこで一念発起して、食えるものはなるべく外で買いこんで来ることにした。

 部屋の中で、それもなるべく食わないようにして、用足しの量と回数を減らす。

 これで少女のところへ通うリスクを減らすことはできたが、会わないわけにはいかなかった。

 そのたびに、聞かされるのはこんな囁きだった。


 こんなにまでして会いに来てくれるのに、どうして浮かない顔をしているの?


 本当のことが言えなかったのは、決して少女を嫌いになったからではないからだった。

 師橋松太郎君は心の中で誓う。


 本当の意味での春が来たら、きっと、再び。


 時が流れ、季節が過ぎる。

 再び、入試のときが迫っていた。

 入試を翌日に控えた夜のことだった。

 昨日、コンビニで買ってきた夜食のタコ焼きを口にしたところでドアが向こうから開いて、少女の声が聞こえた。


 今、会えなければ、もう、ここへ来ることはできないわ。


 人生を懸けた受験の前夜に、異世界への旅はつらい。

 だが、師橋松太郎君は迷わず答えていた。


 君を選ぶ。


 たぶん、また大学には落ちるだろう。

 だが、そんなものは、また来年受ければいい。

 今、少女を失ったら、再び会うことはないのだ。


 ドアを開けると、家も街も幌馬車も、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが向かってきていた。


 常識で考えたら、爪楊枝一本でバッファローの群れが止められるわけがない。

 だが、どんな手段も最初から無駄だと決めつけてはいけない。

 この異世界で少女に出会うために、師橋松太郎君はどんな艱難辛苦をもくぐりぬけてきたのだ。

 これしきのことで諦めはしなかった。

 代わりに、考えた。


 バッファローは、先頭から1、2、3と等差数列で密集して、逆三角形の隊列で突進してくる。

 先頭が転倒すれば後ろの2頭も足を取られる。

 その後ろでも、同じことが起こるだろう。


 では、先頭のバッファローをどう仕留めるか。

 爪楊枝が折れるのは、横から力がかかるからだ。

 正面から来るバッファローに横から爪楊枝を折られるのは、まっすぐに突きたてられていないときである。


 ならば、まっすぐに立てればいい。

 爪楊枝を眉間に突き立てれば先頭が倒れて、あとはビリヤードの玉のように転がって分散するだろう……。


 数学や物理の問題でも解くように、解答までの式がいっぺんに頭の中を駆け巡る。

 だが、数式は、あくまでも数式に過ぎない。

 実行に移してみると、机上の空論だったというのはよくあることだ。

 だが、もともとそれほど器用でもない、ましてや2年分の運動不足が地層となって積み重なっている師橋松太郎君のことである。

 あっさりとバッファローに吹き飛ばされたかと思うと部屋に転がり込み、異世界のへのドアは閉ざされてしまった。

 しばらくの間、ぴくりとも動かなかったが、やがて微かに震え出した。

 歯を食いしばって立ち上がると、ふらふらと椅子に座って、食べかけのタコ焼きを次々に頬張った。

 喉に詰まったのか、胸を叩いて咳きこむ。

 目から涙をこぼしながら、異世界へ持っていきそこなったペンで、黙々と最後の追い込みにかかった。


 次の朝が来た。

 入試会場に向かうためにドアを開けると、無事に出られた。

 これで異世界なんぞ広がっていた日には、3浪は確定だったろう。

 師橋松太郎君は見慣れた道を歩いて見慣れた駅で見慣れた電車に乗り、見慣れた受験会場で見慣れた席に着く。

 だが、見慣れないものがひとつだけあった。

 隣に座った制服姿の少女だ。

 何が気になるのか、ちらりちらりとこちらを眺めてくる。

 徹夜で勉強するつもりが、机に突っ伏して寝てしまったので、顔におかしな跡がついているのかもしれない。

 額だの頬だのをそわそわと撫でていると、少女は身体をすり寄せてきた。


……ケガはない?


 心配そうに耳元で声をかける、その姿にもまた、師橋松太郎君は見慣れていた。

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