森の子 プロローグ

阿賀沢 周子

プロローグ

 夕暮、スタンドランプを燈す前に、窓から空を見上げた。10月初めの十三夜の月が雲の合間から顔を見せていた。鈍色の雲の上の方は月で明るいが、雲の動きが早く明かりを吹き消したように急に暗くなることを繰り返していた。

「ひどい雨風になりそう。今夜の客は少ないか」女主人は独りごとを言ってランプの紐を引いた。

 札幌市中央区の北3条通り公園に面した西12丁目に、60代の女主人大橋美代子が一人で営んでいる『欽』という小さな定食屋がある。『欽』と書いて『よし』と読むが『きん』と呼んでしまう客もいる。

 サンライズマンションの1階西角にあり、玄関は張出しになっていて、暖簾の内側に野菜や肉の空き箱と、から大甕おおがめが置いてある。住まいはこのマンションの10階にあり、夫と二人暮らしだ。

 重い木の扉を開けると、黄土色の南部熊鈴がシャリリンと余韻のある音を鳴らす。四個連ねて扉の上に括り付けてある。元々は熊避けのために作られている鈴だが、美代子は音色が気に入って、来客を頃合いよく迎えるために使っていた。

 入って右側に厚くて大きなカシの木の食卓がある。七、八人は坐れるだろう。奥の小上りには四人用のテーブルが二つ。扉の左側には、常備菜の丼、保存食の瓶や灰汁抜き中の牛蒡、洗い上げられたコップなどが置かれた細長いカウンターがある。

 カウンターの後ろ半分には細かい格子の仕切りが付いていて、その中が厨房になっていた。手前に客用の椅子は置いていない。よほど混んだ時には、どこかから折り畳み椅子を調達して使われるくらいだ。美代子は調理中に気が散るのを嫌がって調理台を対面にはしなかった。日替わりメニューで献立は平凡だが、昼時はいつも若いサラリーマンでいっぱいだ。

 生成りの暖簾は、午後三時ころにはいったん仕舞われる。午後五時過ぎると再び暖簾が出て、公園に面した出窓に、定食屋には幾分似つかわしくない、オレンジ色を基調にしたステンドグラスの笠が載ったスタンドランプが燈される。

 美代子は、暮れるのが早い10月ともなると、暖簾を出す前にランプを点ける。夜は酒を出すが、酒菜のメニューはない。料理も値段も市場で手に入る季節の物で決まり、当日、店内に張り出される。

 いつもバンダナで髪を包み、はみ出た白髪混じりの髪を、飾りのついたピンでとめている。小柄だが姿勢がよく、両眉の真ん中辺りにくっきりとした立皴が刻まれていて、一見、気難しげに見えた。

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森の子 プロローグ 阿賀沢 周子 @asoh

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