最終話 二遊間の動画
七回裏。
もう遠園ベンチに固い空気はない。最後までやり切るのだと、思いっきり振ろうと。
青森山桜のピッチャーは三番手、熊野。
六番山口がいつもと違い、吼えるように叫び、ライト前ヒットを打った。
熊野の甘い球を狙った七番福山も続いた。
八番檜が粘った末に四球を選び、無死満塁に。
福山と檜が弾ける笑顔で草薙に手を振った。草薙が手を振り返した。
草薙は仲のいい二人に今まで負い目を感じていたのだろうか。でもきっと、草薙の努力を知る二人なら許すだろうと友樹には思えるのだ。
九番高見が惜しくもアウトになったが、一番岡野がのびのびと打ち一得点。
岡野が新藤に最高の笑顔を見せた。
「打ってください」
俺に言えることはこんなことばかりだと、自分自身に呆れるが、それでも友樹に言えることはこのくらいだ。
草薙は何も言わずに頷いた。
草薙が打席に、友樹もネクストバッターサークルに入る。
犠牲フライでもヒットでもいい。草薙はのびのびと素振りをする。草薙にもう無駄な力みはない。本来の軽やかなバッティングを取り戻した。
熊野の元に青森山桜の全員が集まる。マウンドの空気が締まる。熊野が自らの頬を叩き、叫ぶ。
草薙は動じず、落ち着いている。
熊野の一球目は、今までと違い、ストライクゾーンの際に決まった。
熊野はしっかりと立ち上がったようだ。
草薙が打ち返す。
二遊間を破りそうだったが、セカンドのポジショニングがよかった。
あと一歩違えば無理だったが、見事に追いついたファインプレーだ。
二死満塁。
友樹はぎゅっと手を握り応援していたが、草薙がアウトになると同時に拳を開いて力を抜いてしまった。
だが、ベンチに戻ってくる草薙の顔は晴れやかだった。友樹が首を傾げると、草薙は少し笑った。
「まだまだ守る側じゃなくて挑む側だと思ったよ。これからも今までどおりでいいかなってね」
挑む側。そうだ、俺も挑むのだと、なんといっていいか分からない気持ちに言葉が当てはまった。
「頼んだ」
草薙が友樹の肩を叩いた。
託されたのだ!
今までの全てを賭けなければ。
「はい!」
草薙が笑っている。ついにガラスに手が触れる。
「しっかりやれよ!」
ベンチから誰よりも大きい新藤の声が飛んできた。
友樹は野球に挑む。
最終回二死満塁で三番。
これ以上ない場面であっても臆してはならない。
熊野は仲間のファインプレーを喜び、そして力を増した。
プレーで変わる気持ちがあるのは、相手チームも一緒なのだ。
球場の期待と緊張を観客席から感じる。
一球目、インハイに綺麗な真っ直ぐが飛んできた。友樹は背に汗が伝うのを感じた。
二球目、アウトローの際どいところにカーブだが、友樹はカットした。
カットとはいえ、バットにボールが当たる感触のおかげで、少し冷静さを取り戻した。実感は理論より力強い。
三球目、真ん中のやや下に真っ直ぐ。チャンスだ。
振りぬいた手ごたえはいまいちで、ファールフライになった。今のを決めるべきだったと、友樹の心臓がうるさく鳴る。
「井原! 大丈夫だから!」
ベンチから草薙の声がする。そうだ。きっと大丈夫なのだ。
四球目、真ん中より高め。これならいけるとバットを振りぬいた。
バットに当たる瞬間、手元で少し変化したと気づく。
芯を外された。
それでも強引にバットを操作して、前に飛ばすのだ。
前へ。
金属バットの音が球場に響いて、歓声が上がる。友樹は全力で走りだす。
青森山桜のショートが追う。
走る、走る。
ショートが転びながら、ノーバウンドで捕球した。
球場に拍手が鳴り響いた。
試合終了。
たえられなかった。
泣きたいのは先輩たちだと分かっていても、涙をどうしても止められない。
新藤が黙って胸を貸してくれる。ほのかに血の匂いがして、戦った後なのだと、俺は戦ったのだと実感する。
今は負けることができただけでよかったと思っているが、それは今だけだ。
いつか負けたくないと思い、負けるわけにいかないと思うようになりたい。
「井原」
草薙に呼ばれて、新藤の胸から顔を離して振り返る。新藤が友樹の体をそっと離した。
「アウトにされたのは私も同じ」
草薙はいつもどおりに淡々と言うが、友樹を励ましてくれているように感じた。
友樹は涙を全て拭った。
試合のことと、これからのことについて、監督の話が終わった。
集合写真を撮って遠園シニアが解散すると、草薙の元に姫宮が歩いてきた。
「香梨ちゃん」
草薙は今までと違って臆せず、無視もせず、姫宮に振りむいた。
「いいショートだったよ」
「そう」
姫宮がにこりとした。
「でもエラーするのは情けない。ショートとしては俺が上だな」
「今はね」
姫宮は何を思ったか、いい笑顔を見せた。そして姫宮が真剣な顔になった。
「スマホ見ろ。じゃあね」
姫宮はすぐに去り、滝岡シニアの人たちに合流した。
スマホを見た草薙は本当に驚いていて、周りにいた友樹たちはつい気になった。
「スマホがどうしたんですか?」
草薙は友樹たちに画面を見せてくれた。
女子硬式野球の強い高校リスト。監督の経歴や大会出場歴も書いてある。
草薙と違い、友樹は驚かなかった。
姫宮は草薙に活躍してほしかったのだ。
だから人口が多い競技を進めたが、マネージャーになったとしても野球をしたいと言われたら、強い女子野球チームを教えるしかないのだ。
「香梨」
草薙の両親が呼びに来た。
「お母さん。私、高校に入っても野球を続けるからね!」
草薙の母が驚いたように足を止めた。
「また見にきてよ!」
あんなに頑なだった草薙の母が、草薙の言葉に頷いたのだ。
草薙の嬉しそうな顔を見て、友樹に笑顔が戻った。
野球ノート五十の表紙は春季東北大会の集合写真。
一ページ目に『この悔しさを忘れない』と書いた。
友樹は寝る前にどの動画を見ようかと考えて、草薙の一年生大会の映像ではなく、自分と草薙の二遊間の動画を選んだ。
ショート! 左原伊純 @sahara-izumi
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