バッファロー坂にて

こくまろ

バッファロー坂にて



 すっかり帰りが遅くなってしまった。クソ部長め。俺の残業の7割はあいつが無駄に細かいところを気にしたり作らなくても良い資料を作らせたりするからなのだ。終電を降り駅を出て、人気のない道をアパートへと急ぐ。妻はこんな時間でも必ず起きて私の帰りを待ってくれているのが常だった。それにしても、家賃の安さに負けて駅から遠い物件を選んでしまったがために、毎日そこそこの距離を歩いているが、もっとよく考えて選ぶべきだったと少し後悔している。しかも途中でやたら長くそこそこ急な坂があり、特に今日みたいに夜遅くなってしまった時は憂鬱にさせられるのだった。


 とぼとぼと歩いて、例の坂の中腹に差し掛かったあたりだろうか。電灯もない暗い道の端で女が蹲っていた。


 具合でも悪いのだろうか?


「あの、どうしましたか?大丈夫ですか?」


 声をかけ近付く。返事はなかったが、うぅ……うぅ……と小さい声が漏れているのが聞こえた。


 ──泣いているのか。


 思ったより面倒な事態かもしれない。しかし、こんな時間に泣いている女性を一人放って置くというのはやはりよろしくないと思う。それに、一旦声をかけておいてハイさよならというのも気まずい。


「あの、どうかされましたか?」


 もう一度声をかけてみる。すると、一瞬ちらりとこちらを盗み見るように顔を向けた。ぞくりとするような美しい女だった。暗い闇にも浮かび上がるような白い肌。長い睫毛が闇に濡れて妖艶な雰囲気を纏っている。しかし、すぐにその顔は両手で覆われて、女はまた嗚咽を漏らし始めた。


「あの、何かあったのですか?もしよろしければ、警察を呼びますが……」


 すると、女の嗚咽はぴたりと止まった。そして再び肩を震わせる。


「うう……クク……フフッ……」


 泣いているんじゃない、笑っている──。私は異様な空気に肌が泡立つのを感じた。女は両手で顔を覆ったままむくりと立ち上がった。そのままこちらに身体を向ける。そして、ゆっくりと手を外した。先程見た美しい女の顔が一瞬脳裏に浮かび釘付けになる。しかし、手を外すとそこには女の顔はなく、代わりにあったのは牛の顔だった。いや──違う!しまった!!これは牛じゃない!!!バッファロー、全てを破壊しながら突き進むバッファローだ!!!


「ヴオオオオオオオ!!!!!!」


 女だったバッファローが天に向かって咆哮する。すると──


全てを破壊しながら突き進むバッファローBがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローCがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローDがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローEがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローFがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローGがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローHがあらわれた!


 おや……全てを破壊しながら突き進むバッファロー達があつまって……?


 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れになった!


 これはヤバい。本能が警戒レベルMAXのアラートをガンガン鳴らしている。俺はバッファロー達に背を向けて全力でダッシュ!逃げろ逃げろ逃げろ!それにしてもなんて迂闊だったのか。この坂が『全てを破壊しながら突き進むバッファロー坂』ということをうっかり忘れていた。


「「「「「「「「ヴオオオオオオオ!」」」」」」」」


 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが背後から襲いかかってくる!

 俺はがむしゃらに逃げる。心臓が破裂しそうだ。喉からは血の味がする。

 坂をなんとか登り切り、息を切らせながら恐る恐る後ろを振り向く。すると、遥か坂の下の方でヨタヨタと坂を登るバッファローの群が見えた。どうやら身体は人間のままなのに無理して四足歩行で進もうとするからスピードはめちゃくちゃ遅いようだ。バカなのか。

 間抜けな怪異の姿に思わず安堵しかけたが、油断は禁物だ。スピードはなくともこちらの方にまだ向かっているのは間違いない。とにかく人の多い、明るいところを目指そう。俺はまた走り始めた。


 小走りを挟みつつしばらく逃げつつけると、明るい看板が目に入った。しめた、コンビニだ!

 平静を装いつつ、ほっと胸をなでおろす気持ちで店内に入る。店内には何人か客がいて、カウンターの向こうには店員の制服を着た店長らしきおっさんが一人立っていた。

 文明の光が、他人の存在がこんなにありがたいなんて。

 ひっそりと感動しつつ、週刊誌を立ち読みをしながら心拍と気持ちを整える。雑誌の内容は全く頭に入ってこなかったが、目でページを追ううちに段々と冷静になってきた。

 連中が追って来ている様子もないようだし、この辺までくれば、人通りもそこそこある。もう出てくることもないだろう。いつまでも立ち読みを続けるのも気まずい。立ち読みしていた雑誌とおにぎりやらお茶やらをカゴに入れ、レジへと向かった。

 店員はいかにも覇気のない中年といった風貌だったが、こんな人でも今は頼もしい存在に感じるから不思議だ。名札にはやはり「店長」と書いてあった。


「……が1点で……計1,195円になります」


 千円札1枚と百円玉2枚をカウンターに出す。俺はキャッシュレスは使わない主義なのだ。


「1,200円お預かりします。お釣りは……」


 急に店長の動きがぴたりと止まる。


「そういえば」


 店長の目がぎょろりと俺の顔をとらえる。


「お客様、店内に入られる前、酷く焦ったご様子でしたね」


 何を言われているのか混乱した。俺は平静なふりをして店内に入ったつもりだった。というか、店に入る前と言ったか。なぜ店の外のことが店内から分かるんだ。


「ひょっとして、何か怖いものでも見たのでは」


 今度はすぐ後ろから声が掛けられる。ぎょっとして振り向くと、店の中にいた客はいつの間にか全員俺の後ろに並んでいた。


「変わった女でも見たんじゃないでしょうか」


 2番目に並んだ客の男が言う。なんなんだこいつらは。


「なるほど女ですか」


 店長はいかにも納得したというように頷く。



「その女って」



 店長が両手で顔を覆う。



「こぉんな顔じゃありませんでしたか」



 店長の顔がバッファローへと変わっていた。しまった!こいつは人間じゃない!全てを破壊しながら突き進むバッファローだ!

 振り向くと、並んでいた客達も片腕で下顎を覆い、腕をゆっくりと持ち上げると全員がバッファローの顔へと変貌した。


全てを破壊しながら突き進むバッファローBがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローCがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローDがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローEがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローFがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローGがあらわれた!

全てを破壊しながら突き進むバッファローHがあらわれた!


 おや……全てを破壊しながら突き進むバッファロー達があつまって……?


 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れになった!



 俺は飛び跳ねるように店から脱出する。逃げながら後ろを振り向くと、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れは先ほどと同じく四つん這いになってこちらを追いかけてくる様子だ。2匹目のバッファローが自動ドアに挟まれてギュイー!と声を上げてジタバタと藻搔いていた。

 良かった、これで時間が稼げそうだ。それに、やはりスピードは大したことないようだ。ドアに挟まれたバッファローの悲鳴を背に、俺はあらためて逃げ始めた。




 自宅のアパートまで尾けられることを避けるため随分と遠回りした。3kmは走っただろうか。自宅まではあと200メートルもない場所まで来た。

 ここまでくれば流石にもう大丈夫……かどうかは分からなかったが、正直もうへとへとだった。家までは入って来ないんじゃないかという期待が半分、万が一出てきたらそれはそれでまた逃げるしかないという諦めも半分くらいあった。どうせノロマな化け物なのだ。


 呼吸を落ち着け、アパートに向かって歩き始める。すると、前方から猟師のような恰好をした老人が歩いてきた。

 駅からの帰り道で今日初めて(人間のフリをしたバッファローを除けば)見かけた人間だった。

 すれ違うまでお互いあと数歩といったところで、老人が「む」と声を上げた。

 視線を老人に向けると、相手は驚愕したような表情でこちらを見ていた。


「まっ、まさか」


 老人が距離を詰め、こちらの両肩をつかんだ。


「会ったんか!全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れに会ったんか!」


 口角に泡を飛ばしながら肩を揺さぶられる。なんなんだ一体。


「あ、あ、会いましたよ。なんでそんなこと、分かるんですか」


「どこで会った!」


 こちらの問いは無視され、逆に怒鳴るように詰問される。


「あっちの方にある、『全てを破壊しながら突き進むバッファロー坂』です」


「あれほどあそこには行くなと言ったのに……。いや、まだなんとかなるかもしれん。ワシに任せておけ!決してここを動くんじゃないぞ!」


 老人はそう言い残すと、年寄とは思えない綺麗なフォームで駆けていった。


 なんなんだこれは。あそこには行くなと言われた覚えなどない。というか初対面だ。動くなよって言われたけど、え、こんなところで本当に待たなきゃいけないのか。


 老人が駆けていった方を見つめ呆然としていると、後ろから誰かが走ってくる足音がした。


 振り向くと、今ほど駆けて行ったはずの猟師のような恰好をした老人だった。走っていった方向とは逆から来たが、いったいどうやったのか。回りこむような時間はなかったはずだ。老人は俺の前で立ち止まった。


「ちょっと変なことをお尋ねするが、さっきワシがここを通らなかったかね」


「はあ、通りましたが」


 老人は、やはりか、といったふうに溜め息をついた。


「それは本物のワシではなくて、全てを破壊しながら突き進むバッファローだったんじゃよ」


 何を言ってるんだこの爺さんは。


「ああ失礼、申し遅れました。ワシはこういうことをやってる者です」


 老人が差し出した名刺にはこう書いてあった。


────────────────────

 全てを破壊しながら突き進むバッファローを絶対殺す協会

 会長 又木・バッファロー・殺造

────────────────────


 何か大がかりでくだらない冗談に付き合わされている気がしてきた。


「あの、なんなんですか一体これは。全てを破壊するとか絶対殺す協会とか。そもそもバッファローだって今日2回も会って、そりゃ怖かったですけど、結局何にも破壊されてないんですよ。むしろコンビニの自動ドアにすら負けてましたよあいつら」


 老人はかぶりを振った。


「いや、あいつらはお前さんの大切なものを破壊していったんじゃよ。いや、破壊している最中と言ったほうが正しいか」


「じゃあそれはなんなんです?」


「それはな」


 老人は一旦言葉を切って、姿勢をピンと正してから言った。


「あなたの、心です」


「いや、破壊されてないですけど」


「心こそすべてなのじゃ」


 老人は俺の言葉を無視してそう言い残すと、綺麗なフォームでバッファロー坂の方へと駆けて行った。


 なんだったんだ。今の老人だけじゃなくて、この一連のすべてが。

 急にどっと疲れが出てきた。馬鹿馬鹿しい。もううんざりだった。バッファローというより狐か狸に化かされたような気分だった。大体心が破壊されるってどういう意味なんだ。いや、もうよそう。考えるだけ無駄だ。さっさと帰って百人一首でもやろう。俺は家へとスキップで帰り始めた。四つん這いだと疲れるし、時間も掛かるので。


 ほどなく自宅に到着した。10LDK5階建て。お風呂がないのが悩みです。代わりに海があるのですが。玄関の自動ドアを3枚叩き割るともちろん自宅の中に入れるので、俺は安心する。そこには悲しい浜辺と暗い海が広がっているからだ。ほら見ろ。心が破壊されるわけ、ないじゃないか。壊れるのは自動ドアだと決まっているじゃないか。全部ぜーんぶ嘘なのです分かっていましたが。俺は打ち上げられた石英の舟に腰掛けぼんやり砂浜を見る。浜辺ではたくさんの手首達がひそひそと囁きあっていて貝は黙したまま何も語らない。海には沢山の電柱が屹立してまるで灰色の森のよう。電線が邪魔だなあと思う。とりわけかわいい手首の一つを取り上げると綺麗な指輪をしていてそれは私が妻に送ったものだった。はあはあはあここにいらっしゃいましたか。言ってくださればこちらからお迎えに上がりましたのに。だってお前は私を愛しているのだからね。コンビニも駅もアパートもみんな海に沈んでしまって華やかなネオン。洗剤をたっぷり注ぎ込むと海藻たちが喜び跳ねます。ご飯粒の一粒一粒に悪の豊穣が宿っていますよ。月からは青い血が滴り落ちるので黒い乙女達が意地汚くそれを啜ります。お前はそんなことしないだろうね。しないだろう知っているよ。貝たちもそう言っていましたから。孤独な螺旋階段が空から海底までを一筋に貫いて寂しげに歌っているのに人間はその螺旋階段の気持ちがわからないからどんどん昇ってああだから電線が邪魔をしてるのか。もっとしっかり守るべきだあれがなくなっては大変なのだ。私は涙の海を泳ぐ。たくさんたくさん泳ごうか。きちんと破壊がされますように。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バッファロー坂にて こくまろ @honyakukoui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ