晩年のワンダーランド
千田美咲
第1話
アリスはひどく倦んでいました。あのウサギ穴に飛び込んだのが、そもそもの間違いだったのでしょう。それはもう、この世界に来たばっかりの頃は、そこで起こるすべての出来事に喜びを見出していました。存在するあらゆるものが、かつていた場所よりも誇張されており、終わることのないサーカスを探検しているようでした。
とはいえ、どんなに楽しい遊園地だったとしても、何日も、いや何十年もそこに監禁されていれば、だれだって頼む、どうかここから出してくれ、と死に物狂いで助けを請うに決まっています。どんな物語でもピンチの時には、間一髪のところで助け船がヒロインのもとへ流れてくるものじゃない。そう考えたって、なにもおかしくはありません。ちいさな女の子であればなおさらそう思うのでしょう。
ところで、アリスはとっくのとうに、その段階を通り越していました。どんなにおおきな声を出して叫んでも、だれひとりとしてそれに答える者はいないのですから。ニコニコと心ない笑みを浮かべる猫の尻尾がかすかにゆれるだけ。とにかくけだるい。面倒くさい。出ていく努力をするのも面倒だ。そんな思いを幾年もめぐらしながら、彼女は変わりばえのしない毎日を、なにも考えずに受けとるだけの存在になっていました。
パステルカラーの連続が目のまえで無限に展開していく毎日でした。しあわせな思いもそれが果てしないものともなれば、すこしくらいは不幸を受け取りたくなるものです。この世界ではそれがゆるされません。不幸を享受できない。そんな不幸がアリスの胸にだんだんと募っていきました。こうなると人間なにひとつ身動きが取れなくなってしまうものなのです。
つい最近までのアリスは、なにをするにもやる気が出てこず、芋虫から水煙管を盗んでは、いつまでもそれをふかし続けるような、だらしない生活を送っていました。どんな不思議なことも彼女にとっては、ふかす煙草の煙に遠く及ばないものでした。かつては頭にうずまいていた、ここから出ていこうというおぼろげな気力も、煙と共にゆるやかに抜けていってしまいました。
しかし、アリスのそんな生活は白ウサギがきっかけとなって変りました。それはいままでに聞いたことがない絶望と夢がごちゃ混ぜになったような叫びで、一度それを聞いたときにはすでにその言葉の虜になっていました。
終末がやってくるぞ、世界の終わりがやってくるぞ
この言葉を聞いた途端、アリスは心のなかに、なにかやる気がみなぎるような、歯車が嚙み合ってまわりだしたような衝動を覚えました。そして、この日以来、世界から脱出するための〈穴〉を造ることに執心するようになったのでした。その両眼は狂気にも似た輝きを放ち、その虹彩から放たれる情熱の嵐は、白ウサギの痛ましい終末の叫びと合わさって、なにか恐ろしいことが起こるのを予感させるようなものでした。鈍い西の光に照らされて、少女の頬は仄かに色めき立ちました。
世界の終末がやってくるぞ。もうおしまいだ。終末が来たんだ
アリスの〈穴〉の佇まいは、どこからどう見ても、なんともヘンテコなものでした。その姿は縫い針を思わせるところがあり、空に広がる雲をしのぐほどの高さを誇っていました。ですから、〈穴〉という言葉はたぶん不適当で、塔といった方が適当な代物なのかもしれません。とはいえ、この世界では、そんなヘンテコなことはしょっちゅうでしたから、特別気に留めるようなことではありません。なによりこの〈穴〉はまだ建設中でした。これから、この〈穴〉がどのようにつくられ、はてはどのように使われるかなど、だれに予想ができたでしょう。
アリスがくしゃみをすると、この世界全体が振動したような奇妙な感覚がありました。それこそ地球が風邪をひいて、ガタガタ震えているような感じです。終末のときが迫ってきていることを感じざるを得ませんでした。
「あぁ、まずいわ。あとどれくらい時間が残っているのかしら。世界が終わる、そのときを知ることができたらいいのに」
アリスはひどく焦っていましたが、持ち前の空想力で〈穴〉をうず高く積み上げていきました。その様子は、どこか金字塔を作り上げる古代エジプトの光景と重なるところがありました。
〈穴〉の高さが二千マイルを超えたところで、そのまわりには動物達があつまり、輪になって、酔いがまわったように踊ったり、花見よろしくすわって〈穴〉を見上げながら、ティータイムなんかを嗜んだりしていました。そのうるさいことといったら。輪になったヘンテコな集団は、今日も〈穴〉を囲んでグルグル回りながら、マイムマイム歌います。
アリスの〈穴〉は長いアレ
先はどこへゆくのやら
ぼくらはまわるよ、まわれよ、まわれ
いつまでまわれば良いのやら
歌い終わったあと、さっそくカモがそれに文句をつけました。
「こんな下手な歌、誰がつくったんだい」
それに答えたのはネズミでした。その様子はたいそうご立腹といったところでしょう。その尻尾はいつにも増して、いら立って剣のように鋭くなっていました。
「もちろんわたしだよ。一体全体、歌のどこが気に食わないというのだね」
「まず、〈先はどこへ〉っていうのがよくわかんないな。どうしてあの〈穴〉の先っぽが、どっかに飛んで行かなくちゃならないんだい。あと回転しすぎ。ぼくらにまわれと命令しておいて、いつまでまわればいいのか分からないなんて、あまりにも無責任じゃないか」
ネズミはカモの苦言にげんなりしたあと、かまうだけ無駄だと思ったのか、つぎのようにいい放って、そそくさと逃げていきました。
「本日の集会はここで終わりとする。つぎにあつまるのは再びノルマン=コンクエストが為された時だ」
カモがすぐに続きます。
「待ってくれよ、ネズミ。ノルマンが支配しているいまのイギリスに、侵略しに来るノルマンって一体なんなのさ」
ネズミはかんしゃくを起こしました。
「おまえはしつこい奴だ。いちいち質問するな、カモ同志」
「ドウシたっていうのさ」
このようなどうしようもない動物模様が〈穴〉のまわりで連日繰り返されました。ネズミとカモのひどい押し問答も、こんな調子でほぼ毎日繰り返されました。それにしてもかれら、とくにネズミは学習などというものを知らないのでしょうか。なにも喋らなければ揚げ足をとられることもないのに。まわり動物たちから見れば滑稽な見世物なのでしょうが、すくなくともアリスにとっては、二人のやり取りは、ひたすらにうっとうしいだけでした。
アリスは独りごちました。
「もうすぐ世界が終わるっていうのに、みんなのんきなものね」
動物たち、もといヘンテコ軍団は二人につづいて、家へ帰っていきましたが、その列からはみ出して、アリスに向かって近づいてくる者がいました。ドードー鳥です。彼はアリスのそばに近寄り、優しい口調で話しかけました。
「それにしてもアリスは熱心だね」
「そりゃあもう、この世界から出られるのであればなんだってするわ。あなただってもう少しは〈キキカン〉を持った方がいいわよ」
ドードー鳥は不思議そうな顔をすると、アリスに向かって聞き返しました。ゆっくりとしたテンポの声でした。
「そもそもどうして世界が終わるなどと考えておるんだね。まさか、あのウサギの妄言を信じているわけじゃあるまいな。この世界はこれまでになく平和じゃないか。鏡の国とも手を組み、より一層この世界は盛り上がりを見せるだろう」
アリスはそれを聞いたとたん、急にテンションが下がって、窮屈そうに肩をすくめていいました。
「だからこそ〈終わり〉がちかいのよ。二つの出会うはずのない国が、手をむすぶところまで来てしまった。これは終末の知らせよね。昔はあんなにみんなの首を刎ねたがっていた女王様でさえ、あそこまでまるくなってしまったわ。終末よ。そうに違いないわ」
「あんたにはつき合ってられんな。あんたは良いことを、なんでも悪いことに変換しがちなところがあるようだね。わたしはここでお暇させてもうよ」
ドードー鳥はすっかり上気してしまったアリスに背を向け、やんわりとした笑みをもらしてその場をあとにしました。アリスはその背中をただぼんやりと眺めていました。
「そっちから話しかけてきたくせに。じゃあ続きを造りましょうか」
アリスはそういうと、自分の体を羽のように軽くするため、パンの欠片をほおばり、牛乳を一瓶飲み干しました。
「これでよし。あとは集めた素材を使って組み立てていくだけね。今日のぶんはこの袋に入っているし」
アリスは腰にぶら下げた小袋の中身を確認しました。チェシャ猫の微笑み、水煙管の雁首、胡椒の瓶といった数々の品々が、そのちいさな袋のなかにすべて収まっていました。
「夕方までには帰らなくちゃ。夜ごはんはちゃんと食べなきゃいけないものね」
そういうとアリスは高い高い〈穴〉を駆け足で登っていきました。お天道様が彼女に微笑みかけ、青空がそのちいさな影を包み込んでいました。アリスはどこまでも広がっているような空のなか、ほそい針の頂点に向かって、ひたむきに走っていきました。
バベルの塔もこれぐらい高い建物だったのでしょう。神様が怒ったのも無理はありません。さいわいこの世界には神様はいなかったので、〈穴〉の建設はだれにも邪魔されることなく、順調に進んでいきました。それは天に向かって、螺旋状に、果てしないトラヤヌスの記念柱のように、丹念に紡がれてゆきました。その表面は本棚で覆われ、所々にマーマレードの瓶や、果物が〈動力源〉として備えつけられていました。各部品は水煙管の管で接続され、アリスが複数の〈ワタシヲオシテ〉と記されたボタンを順番通りに押せば、〈穴〉全体に十分なエネルギーが行き渡るようになっていました。
作業をしているうちに、時刻はもう午後の三時をまわっていました。アリスは白ウサギからもらった懐中時計を見て、ため息をつきました。
「こんなんじゃ、間に合う気がまるでしないわ。猫の手も借りたいぐらい」
小袋のなかのチェシャ猫の微笑みが、心なしかアリスをからかっているようでした。彼女は弱気になったのをただすため頬を両手でピシャリと叩きました。
「いいえ、私はこんなところからすぐにも出なければならないの。弱気になってはだめ。明日もがんばらないと」
アリスは再びパンを口にしたのち、〈穴〉の先っぽから、はるか彼方にある地面へ飛び降りました。スカートがはためき、大気には鳥達の合唱が響き渡っていました。
世界の終わりは 少女の間違い
巨大な〈穴〉は 意味がない
平和な日々は 変わりなく
ぼくらは遠くへ 飛んでゆく
「茶化すのはやめてちょうだい。わたしは真剣なのよ」
アリスはカンカンになって怒りましたが、鳥達はただ金切声のような歌声を垂れ流すだけです。彼女はフワッと地面に着地し、家路につきました。あのお天道様も早や黄昏時。森は変わらずそよいで、神秘の欠片をのぞかせていました。黒い森からは動物達の灯した明かりが、アリスに手招きをしているようでした。
アリスは仮の住まいのおおきな切り株に戻ってきました。庇に留まった虫が、ほのかに光を放ち、あたかもこの平穏な生活が永遠につづくような思いにさせるようでした。その内側はとてもせせこましいものでしたが、アリスにとってはそれで十分でした。加えて、部屋はひどく散らかっていて、いたるところに空き瓶や、時計なんかがほったらかしにされていました。とても見られたものではありません。彼女には部屋を片付ける時間も惜しいものと思われたのでした。
ふとい梁の上ではチェシャ猫が相変わらず、にこやかに笑っていました。笑う表情しかできない変わり者の猫は、尻尾をゆらゆら不気味にくねらせながらアリスにいいました。
「きみは狂っているんだね。無駄な努力をそんなにも続けているのだから」
「そう見えても仕方がないかもね」
チェシャ猫は狭苦しい部屋を見渡しながら、さらに言葉を重ねました。
「きみだって本当は知っているんだろ。どうしてこの世界が終わりをむかえようとしているのかを」
「ええ、知っているわ。〈あの人〉の死。あなたは逃げようとは思わないの」
チェシャ猫は顔に伸ばした下弦の月をギラギラ輝かせながら、すこし思案したあと、妙に自信を持った声で答えました
「ぼくはここから出ないよ。絶対にね。ぼくらはあくまでファンタジーの住人なんだよ。ここから出てしまっては、それはもうファンタジーじゃないんだよ」
「そう」
「逃げ出す努力をしたって無駄なことさ」
アリスは黙々と食事の準備をしました。どこか寂しそうな面持ちで、黙々と窯に入ったスープをかき混ぜました。彼女には自分以外の者達が、終末を受け入れようとしているのがどうしても受け入れられませんでした。そして、かれらがなぜそこまでしてこの世界に固執する理由がわからず、アリスは自分だけ仲間外れにされているような気分になりました。彼女が〈穴〉を積み上げるほど、正しい行動をしているはずなのに、そんな自分だけがよそ者であるような思いが、果たして増していくのでした。そんなこともつゆ知らず、時間は着実に終わりに向かって流れていきました。
〈穴〉という名の塔はついに完成しました。空は割れ始め、神経細胞のようなきらめきが白色の雲から注がれるのが見えました。山々のなだらかなあの美しい稜線は、すでに荒々しいものに変化し、それとともに地平線も、この世のものとは思えないほどひずみ、大地は波濤のごとく波打っていました。虫達の奏でるメロディーはひたすらに終末を予感させるもので、ワーグナーを想起させるものでした。世界はいつ終わってもおかしくない状況で、動物たちは達観した様子で、終わりをやさしく見守っていました。
アリスは〈穴〉の最後の仕上げに着手しました。作業台に白紙の地図を広げると、崩壊しかかった空を事細かに示した模様が、その紙面に浮かび上がってきました。アリスはそれをもとに、外の世界につながっていると思われる青空の傷口に、〈穴〉の照準を合わせるために、レバーを右下にたおしました。
〈穴〉の先端が傷口に向けられると同時に、大部の本がバサバサと落ちていきましたが、アリスは特に注意を払いませんでした。その巨大なバベルの塔が動き出すと、土煙が巻き上がり地響きがしました。その重たい鐘のような轟きは、世界の隅々にまで響き渡りました。加速度的に風景が変わっていくこの世界のなかで、その重々しい〈穴〉の音だけが生気を帯びているようでした。
アリスが別のレバーを手前にたおすと、ピサの斜塔のようなこまやかな調整がなされて、いよいよ空の向こう側へ飛び立つ準備が完了しました。
世界の終末がやってくるぞ。もうおしまいだ。終末が来たんだ
白ウサギの叫び声はいまだに彼女の頭のなかでこだましていました。
チェシャ猫が〈穴〉の外から彼女にいいました。口はいつも通り笑っていましたが、その眼は、どこかオドオドしていたように思われました。
「ついに行くんだね」
「あなたはどうなの」
チェシャ猫は鼻を鳴らしました。
「まえもいっただろ。ぼくはファンタジーの存在に過ぎないってさ。ぼくはね、いままでは、きみもぼくらと同じような存在だと思っていたんだ。でも、アリス、きみは違ったんだね。きみは初めからこの世界、つまりはあの人のなかにいたわけじゃなかったんだ。だからこうはいいたくないんだけど」
アリスはうすい笑みを浮かべると、猫の声を遮るようにしていいました。
「よそ者ってことね。やっぱりわたしの感じていた孤独は、嘘なんかじゃなかったんだわ。どれだけあなたたちと仲良くできたとしても、本当の意味で、もっともっと根源的な意味で友達にはなれなかったんだわ」
彼女に同情したのか、チェシャ猫はすこしばかり遠慮したような口調になりました。
「悲しいことだけど、そうだね。どうやったのかは知らないけれど、きみは間違いなく、外部から侵入してきた人間なんだよ。道理で人一倍狂っていたわけだ。でも本当に分かんないな。きみはどうやってこの世界にやってきたんだい」
チェシャ猫は震えていました。
アリスは顔をゆっくり猫に近づけ答えました。
「マ・ホ・ウかもね」
チェシャ猫はなにもいい返すことができませんでした。口には万遍の笑みを浮かべているのに、それ以外のパーツと〈表情〉だけが合ってない様子は、ひどく滑稽なものでした。〈穴〉からは放熱器の大音声が鳴り響きました。終わりを告げる鐘の音のようでした。
「そうか。きみは本物の魔女だったんだね。よそ者なのに年を取らないのはそういうワケか。狂った魔女か」
それを聞くや否や、アリスはため息をつきました。
「とにかく、これからあちらの世界に落ちていこうと思うのだけれど、もう一回聞くけど、一緒に来ない」
「いや、別にいいよ」
「もったいない話ねえ。外の方がもっと楽しいことがあるだろうに」
「きみだけで行きなよ。これ以上この世界を荒らされるのはごめんだよ」
チェシャ猫の声はかぼそくなっていました。
アリスは〈穴〉の入口のドアをきっちりと閉め、装置へと歩いて行き、あぶみに足をはめて、壁にめぐらした回路に点在するボタンを、正しい順序で押していきました。
「じゃあ、さよなら。最後にあなたと話せて良かったわ。それだけでもここに来た意味があったと思う。〈穴〉はここに置いていくから、自由に使ってあげてね」
「使わないさ」
少女はチェシャ猫の言葉を聞くと、石弓のごとく空高く上昇していき、雲を越えて、ますます小さくなっていきました。
そして、誰にも見えなくなりました。
アリスがいなくなってから、世界の崩壊はいよいよ進みました。王国はねじ曲がり、テラスは燃え盛り、トランプの形を模した兵士たちは、次々と世界から消えていきました。森は花々を咲かしては枯れ、誕生と死とが連続的に、果てしなくアナログに繋がっていきました。これらの出来事は、終末、もしくはビッグバンの予兆の思えるほどで、そのスピードは加速度的に、ひたすらに上昇しました。
人々は終わりゆく世界を受け入れました。アリスに対するささやかな意趣返しのようでした。みんな最後の最後までしあわせな表情でした。まるではじめからそうなるようにプログラムされているかのようでした。その世界は、いえ〈その人〉は、かれらにとって唯一無二の居場所なのでした。
七色の炎は次々に延焼してゆき、町は静かな阿鼻叫喚に包まれました。人々の祈りの雨が、大空へと注がれ、火の粉の囁きが福音に統合されて、眩くような儚いリズムを刻んでいました。
やがて国に残った者は二人だけになってしまいました。なんの巡り合わせかは知りませんが、あろうことか残った二人は、ドードー鳥とチェシャ猫でした。世界はコラージュのように数多の要素がツギハギになっており、そのなかで、かろうじて確固とした形を保っている二人を優しく包んでいました。コラージュの一部はあの人の記憶でした。最後の追憶を見ているようでした。そのなかには、アリスによく似た女性の肖像もありました。速さを極めた世界において、音はもはや意味をなさず、二人の声だけが空間に響いていました。
やがて、あれほどまで高速で流れていたコラージュの波が、緩やかなものになりました。
斜陽がドードー鳥の顔に差し込みました。彼はすこしばかり身じろぎすると、蝙蝠傘を差しかざして、遠くに目線を送りました。
「ついに黄昏かね」
「いよいよだな。そういやあ、ドードー鳥さんよ、あんたはなんか、やり残したことはあるかい」
ドードー鳥は達観した様子でチェシャ猫に答えました。
「最後の最後できみはよくもまあそんな質問をするんだね。それにいけずだね。きみはどんな返答が返ってくるかをあらかじめ知っていて、そんなことをきいているだからね。きみだって同じような答えを秘めているだろうに」
チェシャ猫は変わらない笑みを見せながらも、ドードー鳥の方を真剣なまなざしで見つめました。
「あんたから聞きたいんだ。ぼくはそういうことをいうような達じゃないのさ」
ドードー鳥はかぶりを振って「わたしもだ……」とだけつぶやきました。
空間は収縮し、ゼロに限りなく接近しました。世界は真っ暗になりました。二人の存在以外にはなにも存在しません。カウントダウンがかれらの耳にも聞こえてくるようです。
二人は目を閉じて、〈あの人〉の完全な眠りを待ちました。緩やかな音楽がかれらの心を満たすような感覚がありました。世界はいよいよ黄昏を過ぎ、一層静かになりました。二人はなにも語り合いませんでした。なにをいったって答えは知れていたからかもしれません。時間はいまやなんの意味もなさないようでした。
すると、遠くから焦ったような足音が聞こえてくるではありませんか。二人は耳元の蚊を払いのけるようにして、その音がする方を向き、目を開きました。
そこに立っていたのはアリスでした。彼女は孤独に回転する夜空を背にして、相変わらず自信ありげに、地面を踏みしめていました。
チェシャ猫がぼそっといいました。
「どうして戻ってきたのさ」
アリスはめいっぱいの笑みをこぼして答えました。
「やっぱりわたし、あっちの世界に合わなかったわ。この世界だけがわたしの居場所だったの。ここで私もみんなと一緒に終わりを見てみたい」
二人は拍子の抜けたような表情になりました。
「なんで」
「どうして戻ってきたのかね」
「わたし、魔女じゃなかったの。〈あの人〉がそう思い込ませていただけだったみたい。そうよ。あの人は作家であり数学者だもの、だまされて当然よね。わたしはあっちじゃまるで無力だった。もうひとりのわたしがいたわ。わたしよりもずっと年を取っていて、わたしよりもずっとずっと綺麗だった。その時分かったの。わたしはあの人が作った彼女のドッペルゲンガー……自分の意志で生きたことなんて一度もないってね」
アリスは静かに、そしてさびしげな面持ちでつづけました。二人は黙って耳を傾けていました。
「あなたのいう通りだった。わたしたちファンタジーの住人は、現実のオマージュでしかなかったんだわ。あちらは現実はこの世界よりも、もっと残酷で、もっともっと美しいメカニズムで動いているんだもの。そんな世界でわたしたちが生きていくことなんてできないわ。冷徹かつ朗らかな、その悪夢のような機械から純粋なユートピア記号を並べたのが、この世界だったのよ」
アリスはそういうと大粒の涙を目にうかべ崩れ落ちました。
チェシャ猫はやさしげに微笑み返しました。
「そうだね。現実は甘い香りのなかで生きてきたぼくらにはつらすぎる」
最後の三人は身を寄せ合って、いままでにあったことを語り合いました。その間にも世界は崩壊を続けました。〈視覚〉が消えました。三人はお互いの姿を見ることさえもできなくなりました。それに続き、世界はあらゆる五感をその構成要素から消していきました。残ったのは三人の魂の鼓動だけでした。果てしなく拡張された無色の世界で、それだけが確かなものでした。
一人の魂の鼓動が響きました。
〈そういえば、あいつ……どこに行ったのかな〉
〈えっ、なに〉
だれかのどよめきがその純粋な空間に伝わりました。
〈ウサギだよ。彼を最近ずいぶんと見なかったなあ、と思わんかね〉
そうだったのか。二人は気づいてしまいました。結局のところ、アリスはよそ者などではありませんでした。そのような行動をとらされていただけだったのです。真のマジシャンはタネ明かしなどせずに去ってゆくもの。気づいた時にはもう遅いのです。三人はただ唖然とさせられました。しかし不思議なことに、絶望という感情はそこにはありませんでした。
〈あのウサギ〉
彼こそが本当のよそ者だったのです。
世界の終末がやってくるぞ。もうおしまいだ。終末が来たんだ
果たして世界はすべてを失い、だれもいなくなりました。出口の燃えカスのようなものがナンセンスな風に吹かれて、物語はついに完結したのです。本当の扉はずっと前に閉じられていたのでした。白ウサギの告別とともに。
「さよなら、不思議の国のみんな。少しの間だったけれど楽しかったよ」
一八九八年…ルイス・キャロル、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは肺炎をこじらせて、この世を去った。彼は現実世界の人々をしばしば小説に登場させた。アリスはもちろん、彼女の姉や、キャロル自身もドードー鳥として小説内に登場している。白ウサギの行方を知る者はだれもいない。
晩年のワンダーランド 千田美咲 @SendasendA
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