ぼくの告白

江東うゆう

第1話 ぼくの告白

 先輩には三分以内にやらなければならないことがあった。

 告白である。

 今日、三月四日の午前十一時五十七分までに。


吾妻あづま先生、コピーするのはこの資料でいいですか?」


 先輩は、机の上に広げられた本のページを指さす。


「そう。そこから五ページ、お願いします」

「承知しました」


 先輩が本にしおりを挟んで閉じる。

 先生は先輩に背を向けて、スチールの棚に揃えられた歴史の本を見上げた。



 二月二十六日。

 大学院生の方丈ほうじょう先輩は、十歳年上の吾妻先生のことが好きだ。

 四回生で大学院への進学が決まっているぼくは、うすうす気づいていた。


 ――ねえ、畑山はたけやまくんは、好きな人ができたときどうする?


 大学生協の弁当のふたを開けながら、先輩は言った。

 ぼくは答えた。


 ――待ちます。

 ――相手が振り向いてくれるのを?

 ――いえ、相手が振られるのを。


 先輩は、はっと顔を上げ、まん丸の目でぼくを見つめた。

 そんな顔を見たのは初めてだ。いつも素早く目的を見つけ、行動につなげる先輩が、会話の返事もできずに戸惑っている。


 ――恋愛は積極的な気持ちが実を結ぶものだと思っています。


 ぼくは、先輩の背中を押すことにした。


 ――待つことが積極的だとは思えないけど。

 ――相手の恋愛を応援するんです。相手がうまくいけば身を引く。

 ――そうでなければ、自分が名乗り出るということ?

 ――はい。ぼくの話はいいとして、先輩は告白すべきですよ。好きな相手がいつ……。

 ――人間関係って難しいでしょう? 変なこといって、研究に差し障ってもいけない。


 先輩はため息交じりに話を遮った。

 ぼくは諦めずに、先輩の好きな人を聞き出し、学内の噂の記憶を思い返す。

 

 ――先輩、とりあえず、白黒つけましょうよ。

 

 ずいぶん残酷なことを提案しているな、と自覚しつつも、言葉を止められなかった。


 ――好きですって言えばいいんですよ。あとからごまかせるように軽い調子で。

 ――言いづらいものだよ、好きな人に好きなんて。


 先輩は顔をしかめた。


 ――悩み続けるよりマシです。期日を決めましょう。四日の午前十一時五十七分がタイムリミット。

 ――その時間なら、吾妻先生はいつも資料室に来ているから?

 ――ぼくも来ている時間だけど、ぼくは遠慮します。だから、その時間に。

 ――そんなこと言って、私が告白した、と嘘をついたらどうするの?

 ――ぼくも約束しましょう。ぼくはそのあとすぐに資料室に来て、正午までに先輩に秘密を明かします。

 ――そんな約束されても。

 ――先輩は、自分は告白しないのに、ぼくの秘密だけを聞ける人じゃないですからね。けりをつける勢いになれば。


 先輩は五分以上、悩んでいた。でも、わかった、と言って、うつむいた。



 三月四日、午前十一時五十五分。

 いや、今、五十六分になったところだ。

 ぼくは、資料室の扉を細めに開けて、中の様子をうかがう。

 方丈先輩と吾妻先生は、背中合わせのままで、言葉も交わさない。二人が別の本をめくる音だけがしている。


「あの、先生」

「方丈くん、あの」


 二人が同時に振り返った。さっと視線を逸らした先輩に対し、先生はじっと先輩を見下ろしている。


「実は、六月に結婚することになったんだ。学生を式に呼ぶつもりはないし、事後報告にするつもりだったんだが……その、誤解だったら悪いんだけど、方丈くんは」

「おめでとうございます」


 先輩は明るい声だった。表情も、機嫌のいいときの顔だ。

 吾妻先生は面食らって、ああ、とつぶやいた。


「祝ってくれるんなら嬉しいな。ありがとう」


 そして、本を棚にしまうと、生協に弁当を頼んであったんだ、と言って資料室を出た。

 ぼくは、扉のかげに隠れて、先生をやりすごした。


 時計は、五十七分を示していた。


「先輩」


 ぼくは扉をノックし、部屋に入る。

 方丈先輩の後ろ姿が見えた。うつむいている。長い髪が震えて、肩から胸のほうへとサラサラこぼれていく。


「だめでしたか」


 ぼくは低く問いかけた。答えは求めないつもりだった。


「ごめん、畑山くん」


 思いがけず、先輩の返事があった。


「何がです」

「約束していたのに、告白はできなかった。だめはだめなんだけど」


 自分が知り得た情報を漏らさないのも、言わなければわからない失敗を告げてしまうのも、先輩らしかった。

 先輩は、声を押し殺して泣きだした。

 ぼくはしばらく、泣いている先輩の側に立っていた。

 振られれば、先輩は落ち込むだろうとは想像していた。

 でも、こんなふうに泣くとは思わなかった。

 人前で泣くような人ではないと思っていた。そんなふうに思われる先輩でも、泣いてしまうほどの悲しみだったんだ。


 ぼくは、後悔した。


 時計を見ると、十一時五十九分。

 だめだ。

 ぼくは、秘密を明かさなければならない。


「すみません。ぼく、振られるのを待っていました」


 先輩がぼくを見上げたけれど、目を合わせられなかった。

 ほんとうは、知っていたのだ。

 吾妻先生が最近できたデートスポットに、女性と二人で来ていたのを見てしまった学生がいて、四年生の間では噂になっていた。

 それだけではなかった。

 別の学部に吾妻先生と学生時代サークルで一緒だったという先生がいて、彼女を紹介された、と酒の席で口を滑らせたという。

 ぼくは、サークルの飲み会でその話を聞いていた。

 

 どう話したのかわからない。

 ぼくは、自分が何をしたのかを先輩に告げた。

 自分の酷さに顔が熱くなり、先輩をだました後ろめたさで背中に冷や汗が流れた。


「ごめんなさい。ぼく、先輩が好きなんです。こんなことをして、ごめんなさい」


 自分から、好きな人が振られるのを待つ、と言っておきながら、実際にやってみればこのざまだ。先輩がどれだけぼくを嫌いになるのか考えただけで、自分を握りつぶしたいほど後悔する。

 どうしてぼくは、こんなことをしたのだろう。先輩が振られれば、ぼくの方を向いてくれるかもしれないから? ばかだ。大学院で毎日顔を合わせるのに、これからどうしたら。


 外でチャイムがなった。

 正午を知らせる鐘だった。


「おなか、すいた」


 先輩がつぶやいた。

 ぼくは顔を上げた。

 先輩は、苦笑いをしている。


「ひどいね。畑山くんは」

「すみません」

「第二生協食堂の、ハンバーグランチが食べたいです」


 そして、手を差し出した。


「おごってくれる? おわびに」


 ぼくはうなずき、そっと先輩の手を握った。

 先輩は握る手に力を込めた。


「まずは、ここから。明日は私がおごるから」

 

 ぼくは、握手をしたまま、深く頭をさげた。


「よろしくお願いします」


〈おわり〉

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