駆け込み結婚

黒中光

第1話

 新井とも子には三分以内にやらなければならないことがあった。真っ暗で、人通りの途絶えた市庁舎に向かって、白い息を吐きながら走っていた。

 現在、2024年2月28日午後11時57分。

 日付が変わるまで、あと三分。

「ああ、どうしてこんな大事な物忘れちゃうかなあっ!」

 手にした記念すべき書類がくしゃくしゃになっていないことを確認して、とも子は傷み始めた膝に鞭を打った。

 新井とも子。29歳独身。この肩書きとは今日を限りで、おさらば。

 一週間前、二年間付合っていた男性からプロポーズされた。学生時代からの友達が軒並み結婚・出産していく中で「三十になるまでには結婚したい」と常々考えていたとも子は、二つ返事で彼の言葉を受け入れた。

 それからは、式の準備だの親族への報告だの。幸せまっただ中でありながら、忙しさに目が回る日々を過ごした。

 そして忘れたのが、婚姻届である。必要事項は全部記載していたのに。急な出張が入った彼に「わたしが出してくるね」と約束までしていたのに。布団に入って目を瞑るまで思い出さなかったのだから、我が事とはいえ、とも子は自分が怖くなった。

 気付くと彼女は、パジャマにコートを羽織り、足下はサンダルというチグハグな服装で街に飛び出していた。最近は温かくなったとは言え、夜は冷える。冷気は薄いパジャマを貫いて、容赦なくとも子から体温を奪っていった。彼女は嫌な寒気を感じた。明日には確実に風邪を引く。この手の勘をとも子は外したことがない。

 それでは、何故とも子は恥も外聞も健康もかなぐり捨てて夜中に爆走しているのかというと、それはただ彼女の誕生日と2024年が原因である。

 彼女の誕生日は、3月1日。明後日である。この日を迎えた瞬間、彼女の中では「三十路行き遅れ女」になってしまうのだ。それでは、周りの幸せいっぱいの友人と比べて惨めに過ぎる。

 では、明日ではどうか。2月29日。明日である。2024年のこの日は4年に1度の閏日であり、この日に婚姻届を出してしまっては結婚記念日も4年に1回しか来ないことになる。それでは、あまりにも虚し過ぎる。

 よって、なんとしてでも今日、2月28日に提出せねばならないのだ。

 乱暴に腕時計へと視線を送る。11時58分。残り2分。

 既に市庁舎は100mの距離に迫っている。しかし、問題があった。

 市庁舎前の道路に工事車両が何台も止まっていて、ガリガリと騒音を立てながらアスファルトをまくり上げているのだ。ピカピカと派手に光るベストを着けた作業員が気怠そうにライトを振る。

「お姉さん、朝までこの道は通行止めだよー。水道管の工事をやっててねー」

「知りません、そんなの。通してください!」

 この道を通れないと、ぐるりと大回りしなければいけなくなる。そんなことをしていたら、提出に間に合わない。

 横からすり抜けようとするが、腕を掴まれる。

「だから、お姉さん、危ないよ」

「止めて、放してください。誰か、助けて! 痴漢よ!」

「ちょっと、ちょっと、ちょっと」

「おい、ヤスさん。どうした!」

 慌てた作業員の手が緩んだ隙に、工事用バーを跨ぎ越して現場を突っ切る。サンダルが脱げたのか、一歩踏み出すごとに固い地面がとも子の細足を突き上げてくるが、拾っている時間は無い。自身が巻き起こした冤罪騒動を振り返りもせず、とも子はなおも走った。

 植え込みを飛び越え、駐車場を突っ切り、夜間窓口へと駆けつける。灯りはついているが誰の姿もない。呼び鈴を連打し、窓ガラスを殴りつける。11時59分。残り1分。

 遠くからガサゴソと物音が近付いてくる。

「はぁーい、今行きますね」

 欠伸をしながら小太りの職員がノソノソと近付いてくる。足取りはゆっくりで急ぐ気がまるで見えないのが、とも子の気分を逆撫でる。

 ようやく開いた窓ガラス越しに、彼女は職員を殴りつけんばかりの勢いで書類を突き出す。

「婚姻届です」

「はい、必要事項を確認するので待ってくださいね」

 抜けなどあるはずがない。二人の署名も、印鑑も、証人だってバッチリ。他の書類だって全部揃ってる。これはとも子が何度も確認した事実だ。

 それなのに、何を疑う必要があるのか知らないが、職員は書類の欄を悠長に指さし確認などをしている。

 秒針は残酷に、嗜虐的に時を刻み続ける。文字盤の「9」を回って、頂点に向かう。

「はい、書類は全て揃っていますね。おめでとうございます」

 職員の落ち着いた祝福の言葉に、とも子の足から力が抜ける。終わった。間に合った。

 ――しかし。

「記念品は、何になさいますか。鉢植えと夫婦茶碗がありますが」

「まだあったのか、手続き!」

 とも子は反射的に壁を殴っていた。早く終わればそれで良いのに、碌に付合いもない役所から記念品貰って何が嬉しいのか、彼女には理解ができない。

「茶碗!」

 とも子は早く終わらせたい一心で適当に叫んだ。

 焦るとも子の気持ちを微塵も解していないのか、脳天気な態度で職員が茶碗を取りに行く。

 秒針は文字盤の「10」を既に通り過ぎていた。2月28日の終わりまで、残り……5秒。4、3……。

「お待たせしました、夫婦茶碗――」

 職員がたどり着く前に、とも子は窓から身を乗り出し、茶碗の入った箱を強奪する。身体を窓から抜き出し、腕時計を確認するのと、秒針が「0」を通過したのが同時だった。

 とも子は、恐ろしさに震えながら、職員に尋ねる。

「結婚記念日、いつになりますか」

「2月28日ですが」

 怯えた答えが耳に届いた瞬間、とも子は歓声を上げた。やりきった。ついに彼女はやりきったのだ。高々と掲げた箱の中で、夫婦茶碗がカチンと小気味の良い祝福を奏でた。

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