第12話:少なくとも、金があったら不幸にはならないよ

――同、上田家裏庭のバルコニー

 歩が大男たちに襲撃される少し前、真理とえりなは母屋の裏庭でお茶を楽しんでいた。

 母屋の裏庭にはそこそこの規模の家庭菜園が広がっていて、トマトやナスなど季節の野菜が大きな実を付けていた。

 えりなは彼らに愛おしそうにホースで水蒔きをする。その様子を日陰のバルコニーで真理が煙草を吸いながら眺めていた。

「じゃ、今月もよろしく」

 えりなが水撒きを終えて戻ると、真理が預金通帳を彼女に渡した。

 『歩貯金』と書かれたその通帳をえりなは受け取ると、真理に言われている通りに中身を確認した。

 預金履歴は100円10円単位で細々とした入金がされているが出金は一切無く、残高は2000万円ほどとなっていた。

「はい、確かに預かりました。そういえば、真理ちゃんとお茶するのも久しぶりねぇ」

 えりなは通帳を確認すると懐に仕舞い、嬉しそうにハーブティーを注いだ。

 えりな手製のスコーンを手に取っていた真理が、彼女の話に反応し、最後にお茶をしたのはいつだったか思い出そうとした。

「まぁ、ずっと忙しかったからね」

 結局思い出せなかった真理は、誤魔化すように家庭菜園を眺めながら、スコーンを齧った。

 家庭菜園には先ほどえりなが水撒きしたところに小さな虹が広がっていて、二人はそれを消えるまで眺めた。

「でも、それももう終わりでしょう? 歩くんもいのりもようやく高校卒業よ。なんだかあっという間な気もするけど」

 えりなは大事そうに預かった通帳を抱きしめ、彼女の母親としての強さを讃えた。

 真理はえりなのこの自分を必要以上に崇める癖を、恥ずかしそうに頭を掻いて受け流すと、吸い殻を揉み消して温くなったハーブティーを啜った。

「まだ終わりじゃないさ。大学行かせたら六年間の学費に臨床研修医期間の二年間、あと八年くらいはいまの生活だろうね」

 真理の言葉に、えりなは表情を曇らせた。

「本当に歩くんに医学部を受けさせるの?」

 珍しく自分の考えに異を唱えるえりなに、真理は目だけ動かして彼女の顔を窺い、カップを置く。

「医者が嫌なら弁護士でも良いよ。とにかく、金になる仕事に就ける進路に進めれば、なんでも良いさ」

 煙草を取り出し、火を点け、吸い込むとえりなに煙がかからないよう、天を向いて吐く。紫煙は日陰を作っている天幕に当たり、暗雲のように滞留して、消えた。

「お金なんて必要なだけあれば良いじゃない? 幸せはお金じゃ買えないわ」

 そう訴えるえりなの目を真理が見つめる。

 えりなの瞳の奥には、仲良く並んで歩く、歩といのりの姿があった。

「ある程度の幸せは金で買える。少なくとも、金があったら不幸にはならないよ」

 えりなは真理の瞳の奥に、東京に置きざりにされたかつての真理自身の姿を見た。

「それは……」

 彼女は一方においては、母親として正しいことをしている。

 自分の負った傷を、痛みを、歩に背負わせないために、こうして彼にも内緒で彼の独立資金を貯金したりしている。

 だがそれは彼にとっての本当の幸せなのか。

 そう訴えるだけの資格が、自分には無いとえりなは、自分を責め、俯くしかなかった。


 二人が問答を終えたころ、安達家の方で、派手に物音が響いた。

 何事かと真理たちが母屋の隙間から様子を見ると、男二人組が大声を出しながら入っていく姿が見えた。

「アイツら……」

 真理が彼らの姿を確認しようと身を乗り出そうとしたところ、えりなが彼女の裾を掴んで止めた。

「あの人たち、ヤクザなの? 歩くんは大丈夫?」

 怯えたえりなが、真理に縋るように背中にしがみついている。

 真理は慰めるように彼女の頭を撫でる。

「……歩なら大丈夫だから。ちょっとヨウさんに電話入れさせて」

「ええ、ヨウさんに任せましょう」

 二人は男たちに気付かれないように母屋に入っていった。


――場所戻り、豊島区、黒龍商会本部

 挨拶が終わり、簡単な会食もひと段落着いたころ、キムが一連の騒動について口を開いた。

「それにしても冴島さん。あなた、随分良い時期に独立なさりましたね?」

 酒を傾けていた冴島の手がピクリと止まった。

 今回の一連の騒動は、黒龍商会がコウ・キュウキに私物化されてしまったがために起きてしまったことを、冴島達はすでに掴んでいる。

 であるのであれば、目の前のこの敗軍の将は、火消しに東奔西走している冴島達に本来は頭を下げなければいけない立場のはずである。

 しかしながら現在の冴島は雲雀任侠会とは袂を分かち、独立勢力として活動している。

 その足元を見たキムは冴島達に己の力を誇示するため、このような態度に出ているのだ。

「と、おっしゃいますと?」

 慎重に言葉を選びながら、冴島は会話を続ける。

 冴島の後方に控えている遠田と石橋はいまにも飛びかかりそうであったが、絶対に手を出すなと冴島は厳命されていたため歯を食いしばってキムの誹りに耐えていた。

 冴島の目的はこの場をきっかけにコウ・キュウキを引きずり出すことである。

 その糸口を掴む前にご破算にしてしまうのは、なんとしても避けなければならなかった。

 杯を置いたキムが、彼の後方に控えているボディーガードに葉巻を点けさせる。

 紫煙を燻らせながら、キムは会話を続ける。

「そうでしょう? 新宿を騒がせたシュルティも死んで、明日にも警視庁からウチと雲雀任侠会に接触禁止令が出されるんです。警視庁もそのまま雲雀任侠会解体に動き始めるようですし、出費は結構なものでしたが、このままいけばウチの一人勝ちですな」

 再び扇子を開き、扇いで煙を散らしながら高らかに笑うキム。

 扇子に着けられた下卑た香水の匂いが、冴島の鼻を突いた。

 そもそも黒龍商会が新宿で銃撃事件を起こしたのだが、その目的であったシュルティはトー横で死んだので、結果だけ見ればひとまず落着なのである。

 キムからすれば怖いのは縄張りを荒らされた雲雀任侠会からの報復であったが、それも警視庁から接触禁止令が出る。

 それに託けてキムは彼らにそのまま雲雀任侠会を解体するよう差し向けたのだ。この間に多額の裏金が動いたのだろうと、冴島は察した。

 つまりキムはこのまま雲雀任侠会が解体されるまで大人しくしていれば、自分たちの商売に対して口酸っぱく監視する連中がいなくなり、東京は自分たちの手中に落ちると考えているのだ。

 こうした水面下での攻防があった上で、キムは冴島に『良い時期に独立した』と言い放ったのだ。

「しかし、少女とブツはまだ見つかっていないんでしょう? のんびりしていると逃げられるのではないですか?」

 冴島も内心腸が煮えくり返っていたがこれを好機と捉え、鉄仮面を被りながらこの話題に切り込んでいく。

 痛いところを突かれたキムも反応し、扇いでいた扇子をパチンと閉じた。

 キムは身を乗り出して冴島に耳打ちする。

「それでなんだがな、どうだ? ウチの下でそのガキとブツを探してはくれんか? 金なら出すぞ? なんならウチのシノギを分けてやっても良い」

 キムは冴島に自分たちの傘下に入り、小間使いとしてなら使ってやると提案した。

 黒龍商会のシノギはアムリタをはじめとした違法薬物取引、違法売春に高利貸し、みかじめ料の徴収など他人を食い物にするものばかりである。

 雲雀任侠会にもシノギはあるが、それはあくまで表社会で大っぴらに商品として取り扱えない類いのもので且つ、それが無いと生きていけない人たちに対象を絞っている。トラブル解決の際の用心棒代についても、金銭の要求は厳禁とされている。

 あくまで店側の善意の範囲に留め、また報酬が無給であっても、以降の遺恨は一切無いよう発足の時から現在も徹底して厳命されているのだ。

 そう言った鉄の掟があるからこそ、冴島以下雲雀任侠会に属する構成員たちは人々に認められ、彼らは胸に着けた代紋に誇りを持っていたのである。

 キムは冴島にその誇りをドブに捨て、自分の靴を舐めろと言ってきた。

 冴島は怒髪天を衝く思いであったが、同時にキムが餌に食いついたのを確信した。

 冴島は席を立ち再び跪いて平伏する。

「誠に寛大なご配慮、痛み入ります」

「ほっほっほっ、そうだろそうだろう」

 殊勝な態度を貫く冴島に、キムは気持ち良さそうに葉巻を吸った。

「実はそのことで私どもも、ご相談したいお話がございます」

 顔を上げた冴島が、キムに申し開きする。

「なんだ? なんでも言ってくれ。ワシとキミの仲じゃないか」

 すっかり気を良くしたキムが、跪く冴島に席に戻って話すよう促す。

「実はその少女とブツなのですが、すでにこちらで保護しておりまして」

 ようやく好機が来たと、冴島は勝負に出た。

「なんだと!? それは本当か!?」

 驚くキムに、冴島は頷く。

「しかしこれが難儀しておりまして……。失礼、お耳をよろしいでしょうか?」

 冴島に促され、キムは耳を欹てる。

「コウ・キュウキと言う人間を出せと言っております。こちらにご厄介になっているはずだそうで」

 再び驚き、冴島から離れるキム。

「なぜ、その名前を……!」

 キムの反応に、冴島の目の奥が静かに光り始めた。

「お呼び、いただけますでしょうか?」

 キムは一寸悩むと、ボディーガードを呼び、コウ・キュウキを呼んでくるよう伝えた。

 ボディーガードの一人がキム側の扉から応接室を出るのを確認したタイミングで、冴島は次の作戦に移行する。

 冴島は脚に置いた手の片方をさり気なく落とすと、キムに見えないよう遠田と石橋に合図を送った。

 遠田と石橋は目だけでそれを確認すると、遠田が尻ポケットに入れていたスマホを周囲にわからないよう操作し、石橋のスマホに電話を送る。

 あたかも外から着信があったかのように石橋はそれを受け取り、一礼すると応接室を出る。


 石橋は応接室を出ると、外で待機していた構成員に悟られぬよう、すぐに遠田との通話を切って別の所へ電話する。

 石橋が正門を出ると待機していた福永から小包を受け取り、また屋敷の中に戻っていくのだった。


 石橋が電話から戻ると応接室にはキムと冴島の間に男が座り、その後ろに女が立っていた。

 男の方は五十も半ばほどのスーツ姿の優男で、石橋はこの男がコウ・キュウキだと察した。

 女は顔が見えないが体つきは若く、行っても二十代前半だろうと石橋は思った。

 その服装は腹ががっつり見えるショート丈のホルターネックトップスとビキニパンツ。その上にカウボーイが着る股下が切り込まれた、チャップスと呼ばれるズボンを穿いており、交差するように腰に提げられたショットシェルベルトには、ショットガンの弾ではなく、アムリタが装填されている。

 そしてなにより、水牛の頭蓋骨を思わせる被り物をしていたのが、女の不気味さを強調させていた。

 張り詰めた様な沈黙が続く中、先に口を開いたのは冴島であった。

「お呼び立てしてしまい、申し訳ありません。私は冴島組組長の冴島と申します。コウ・キュウキさんでよろしいですか?」

 平常に挨拶をし、相手の様子を探る冴島。

 冴島の挨拶にコウも一礼し、丁寧な挨拶を述べた。

「ご丁寧にありがとうございます。私は人類統治共和国、国家安全保安局局員、コウ・キュウキと申します。彼女はミン・シユウ、私の部下兼ボディーガードです」

 落ち着いた、清涼感すら感じるその声色に、石橋達は面食らった。

 だが冴島だけが、その声の奥に潜む、氷のように冷酷な意思を感じ、手の平にジワリと汗を滲ませるのだった。

 なにより冴島が警戒したのはコウの後ろに立つミン・シユウと言う女だった。

 肌の露出の多いその服装のおかげで、その全身に現れているタトゥーが見て取れた。

 彼女のタトゥーは全裸男と同質のものだ。

 冴島の直感がそう訴えかけていた。

「それで、お聞きしましたが我々が探している少女と荷物をそちらがお持ちだということで?」

 コウたちの底知れぬ不気味さに気圧されかけた冴島は、辛うじて平静を装い頷く。

「しかしひとつ、確認したいことがあります。コウさん、先日の歌舞伎町での銃撃事件、アレは貴方の指示で行ったものですか?」

 冴島の質問に、遠田と石橋が息を呑んだ。

「ええ、そうです。それが、なにか?」

 数瞬の沈黙はあったが、コウはにこやかな顔を崩さずさらりと認めた。

「こ、コウ先生……」

 止めようとしたキムを、コウが遮る。

「さ、冴島さん。あの件はウチの若いもんが勝手に……」

 このままでは抗争が起きると察知したキムは、雲雀任侠会と銃撃戦を起こしてしまったことは、現場の構成員が勝手にやったことだと弁明する。

 その言葉を聞き、冴島はテーブルにドカッと足を乗せると勝負に出た。

「ほぉ、若いもんのせいですか。黒龍さんはケツ持ちの仕方も御存知無いご様子で」

 冴島の眼光に鋭さが増す。

 コウとミンはその様子を楽しそうに眺めていた。

「なんじゃワレェ!!」

 態度を急変させた冴島に、ボディーガードの一人が啖呵を切り、懐から銃を取り出そうとするのを冴島が遮った。

「色気出すなよ。俺は挨拶に来てるんだ。そら、遅くなっちまったがな、ちゃんと手土産もあるぞ」

 冴島が石橋に目配せすると、石橋は先ほど外で斎藤から受け取った小包を冴島に渡す。

 冴島はその小包を乱暴に破き、テーブルに中身をぶちまけた。

 テーブルの上に、人間の右手が十本ほど転がった。

「ひっ、ひぃいいっ!?」

 キムはそれを見てソファから転げ落ちる。

 キムと対照的にコウは、矮小なこの島国にこのような侠客がいたのかと、口角が不気味にあがった。

「あの晩、黒龍さんのモンに弾かれたウチの若いのが十人、その分の落とし前だ」

 早朝、林下がチョウの自宅を襲撃したように、冴島組の実働部隊は水面下で黒龍商会幹部の自宅を一斉襲撃、拉致監禁し、彼らの右手を切り落としていたのだ。

「あ、アンタ……こんなことして、ここから生きて帰れると思ってるのか!?」

 虚勢を張るキムに冴島はまだ気付かないのかと気の毒そうに笑う。

「この屋敷の包囲はすでに完了している。生きて帰れないのはアンタの方だよ、キムさん」

 応接室の外は、すでに石橋が手配した別動隊が秘密裏に包囲、制圧を完了していた。

 一触即発の空気の中、コウは拍手して冴島を称賛した。

「いやいや、中々のお手並みで。では、今回の手打ちとしては以上で?」

 この状況を楽しんでいるかのようににこやかに話すコウ。

 実際にこの状況であっても、ミンがいる以上、彼らの優位は変わらない。

 戦闘になれば、自分たちが負けるのは冴島自身もわかっていた。

 そのため冴島は次の勝負に打って出た。

「寝惚けてんですかい? コウさん?」

 冴島は身を乗り出して、コウを見据える。

「これは黒龍商会がウチのモンを弾いた分だ。俺ら日本中のヤクザを舐め腐ったアンタからの落とし前が、まだ着いちゃいないでしょうが」

 凄む冴島に、コウの後ろで腕組みをして立っていたミンの肩が、ピクリと動く。

 コウはミンを制止すると、覗き込むように冴島を見つめると、試すように答えた。

「……わかりました。オトシマエ? でしたか? 何本いきますか? 1本ですか? 2本ですか?」

 ヒラヒラと手を出してどっちから切り落とすのかと尋ねるコウ。

「なかなかフカすじゃねぇか」

 昨晩赤羽から聞いた通り、相手は歴戦の国際テロ工作員。流石に場慣れしていると、冴島は内心焦りを感じていた。

 しかし冴島のチャンスは、思いもよらないところから湧いて出た。

「洪先生、言事聞必要無。我彼殺今此場」

 痺れを切らしたミンが被り物を脱いで、コウに抗議する。

 ミンは目鼻立ちは整っているが、左目を隠すように切り揃えた漆黒の前髪と、人統人にしては高過ぎる鼻、目元の掘りの深さから、彼女が北欧出身の下級人統人であるのが見て取れた。

 冴島は人統語はわからなかったが、ミンの語気から内容はなんとなくわかった。

 そして冴島はミンがこの駆け引きに勝つ鍵だと看破した。

「おっと、俺を殺したらガキとブツの居場所はわからなくなるどころか、サツに垂れ込む手筈になっている。アンタらは俺らの要求を呑むしかないのさ」

 コウはこの場で初めて、にこやかであった表情を崩した。

「……わかりました。貴方がたの要求はなんでしょうか?」

 手を合わせ、腰を据えたコウが、漸く冴島と交渉のテーブルに立った。

「まずはアムリタだがな、今後はウチが取り仕切る。これは絶対譲らん」

 冴島はコウとキムに条件を突きつける。

 その内容を聞き、キムは顔面蒼白になった。

「そ、それを取り上げられたら、ウチのシノギが」

 冴島の要求は黒龍商会にとって死刑宣告に近いモノであった。

 黒龍商会のシノギについては、先に触れた通りであるが、実際のところ彼ら自身もまた、アムリタが生み出す利益に依存していた。

 キムはアムリタが法の目を掻い潜れるのを良いことに、他のシノギを縮小し、このドラッグにすでに全力投資をしていたのだ。

 その黒龍商会からアムリタを取り上げるのは破産することに等しいのである。

「貴方は黙ってなさい」

 なんとか譲歩してもらえるよう、キムはコウに縋りつくがコウはこれを振り払った。

 冴島は懇願するキムを見据え、言葉を続けた。

「キムさん、アンタらアレをガキにも捌き始めたようだな。俺らの世界にも渡世の仕来たりってのがある。アンタらのやり方は流石に度が過ぎてる。ウチが市場を正常化させてもらう」

 冴島に譲歩の意思が一切無いことがわかったキムはこの世の終わりのように泣き喚いた。

 このやり取りを聞いていたミンが、ケタケタと笑う。

「先生、彼未熟者。彼無知。此世界、金暴力所持者全行動許可」

「カタギさんあっての極道だ。それを忘れたら、俺らは野良犬以下なんでね」

 侮辱しているとはなんとなくわかった冴島は、ミンに聞こえるともなく吐き捨てた。

「……良いでしょう。アムリタの製造方法と、日本国内の製造工場の譲渡契約書を作成いたします。これでよろしいですか?」

 コウは冴島の条件を呑み、冴島はこれに頷いた。

「次にアンタらがなんであのブツにそこまでご執心なのか、理由を教えてくれ」

 次に提示した条件には、コウは眉を顰めた。

「……それを知ってどうするつもりですか?」

「なに、自分の手元にあるモノがどんなモノなのか知りたいだけだ。ただの興味本位だよ」

 冴島の二つ目の条件、それは赤羽への手土産だった。

 冴島と赤羽は協力関係にある。

 そして赤羽は一連の事件に関する捜査に関わっている。

 その中心となっているクスリの情報を得ることは、今後の対策を講じる上で重要なことであった。

 コウは冴島の発言に対して、その真意を探るように彼の目を見つめる。

 その奥底の見えない、深淵の闇のような瞳に、冴島は冷や汗をツウと一筋垂らした。

「……良いでしょう。BETAについてお話しましょう」

 コウは背凭れに身体を預け、短く溜息を吐くとこれを了承した。

「BETA? それがアンタの探している例の薬か?」

 例の薬の名前くらいは冴島も赤羽から聞いているが、それをコウに悟られぬよう、敢えて初めて聞く風に振舞った。

「仙丹、と言うのはご存知ですか?」

 コウは頷き、話を続ける。

 冴島は首を横に振った。

「ネクタル、エリクサーでも良いですよ。服用したものはたちどころに怪我も病も癒え、不老不死にさせる空想上の霊薬です。いえ、空想上の霊薬、でした」

 コウは仰々しく宣う。

 冴島は耳を疑ったが、その内容が嘘でないのは、彼らのこれまでの行動が物語っているのだろうと判断した。

「……にわかには信じ難いな」

 さらに情報を聞き出すため、信じられない風を装う冴島。

 コウはしたり顔で話を続けた。

「少し前にも北アメリカで発表されたでしょう? 万能ワクチンALPHA。ALPHAは元々BETAを開発する過程で生まれたものです」

 赤羽からALPHAは全裸男ことシュルティ博士の兄、スムリティ博士が同じ製薬会社で開発していたことは冴島も聞かされていたが、ALPHAとBETAが地続きのものだという情報は初耳であった。

 コウの話に口に手を当てて思案しながら、相槌を打つ冴島。

「それとここ最近黒龍さんたちが捌いているドラッグ、アムリタですがそれも我々が奪取したBETAの試作品を元にして作ったものです」

 この情報については、冴島は衝撃であった。

 なぜ黒龍商会がアムリタなんて都合の良いドラッグを手に入れられたのか。

 つまりコウはBETAを手に入れるまでの間、黒龍商会を自分の手駒として利用するための対価として、アムリタを彼らに分け与えたのだ。

 キムたちは無理矢理やらされたのではない。餌に釣られて自ら彼らの軍門に下ったのだ。

 いまこの場でキムを八つ裂きにしてやりたい冴島であったが、それを堪え、話を続けた。

「それで、アンタはそれを手に入れてどうしたいんだ?」

「そこまで答える必要は無いかと」

 コウはにこやかな表情から一変し無表情になり、一方的に会話を終わらせた。

 コウたちの目的の核心に触れたかった冴島であったが、これ以上はご破算になりかねないため、質問を終わらせることにした。

「大体わかった。じゃあ取引の場所だが」

 冴島が話を進めようとした時、コウが遮った。

「ここではダメなのですか?」

 コウは条件を呑んだのだから、すぐに寄越せと要求する。

 コイツは今日、仕留めなければいけない。

 そう考えた冴島は頭をフル回転させ、博打に打って出た。

「工場の引継ぎ手続きが先だ。それが終わったら、その場で渡してやるよ」

 捉えようによっては、冴島はコウを信用していないとも言える。

 しかし実際に、コウの話が本当である確証は無いのだし、工場を手に入れてからでないとソフィアとBETAは渡せないのは、筋は通っている。

 冴島とコウは互いを見据え、沈黙する。

 張り詰めた空気が応接室を包んだ。

「良いでしょう。合理的なのは好きですよ。ではご案内します」

 コウは沈黙を解き、にこやかに笑うと、冴島に握手を求めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る