おさるの神様

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

おさるの神様

 「いかがでしょうかねぇ」狐目の不動産屋の問いに、私は「こんないい部屋、断る理由がありませんよ」と即答した。


 駅に隣接した15階建てマンション最上階の3LDK。まったく一人暮らしが選択する間取りではなかったが、家賃がたったの三万円と言われれば話は別だ。「桁を一つ間違えていませんか?」「事故物件じゃないんですか?」何度も確認したが、狐目の男は「はい、間違いございません」と繰り返した。契約書にも問題はなかった。


 いざ署名の段になったところで男の携帯電話が鳴った。失礼します、と断りを入れて応対を始めると、受話口から相手の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。滑舌が悪く内容は聞き取れなかったが、狐目はハイ、ハイ、と顔色を変えずに聞き流していた。


 お待たせしました、と通話を終えた狐目に「大変ですね」と社交辞令の労いをすると「これも仕事ですから」と笑ったが、やはり思うところがあったのか「社長さん──と言っても、個人事業主のデザイナーさんなんですけどね」と話題を延ばした。「ああいう物言いをされるの、会社勤めをされていない方に多いんですよ」と、表情を苦笑いに変えた。私のサラリーマンという立場を知った上での共感を求める愚痴だろう。愛想笑いを返して書類にサインをした。


※ ※ ※


 翌日。


 「これなんだがね」と中年サラリーマンに案内された事務所で、急に動かなくなったと連絡のあった複合機を前にする。様々な企業にリースしている複合機のメンテナンスが私の仕事で、顧客から連絡が入ると直ちにパーツを山積みした社用車を走らせて修理に向かう。


 「この新型になってから、どうも調子が悪いんだよな」と、修理道具一式を用意している私の隣で中年が愚痴った。「それはどうも、すみません」と流して作業の準備を進めると、それが気に食わなかったのか、「なあ、こっちは客だぞ。あー、あんた平社員だろ。だからそんな無責任な態度がとれるんだよな」と愚痴が苦情に変わった。「『立場が人を作る』って言葉、知ってるか? 役職がついて偉くなるとな、自然に責任感が湧いてきて、何事にも真面目で一生懸命な人間になれるんだよ」となぜか自慢気に断言した。無視して仕事を進めた。


 「見せてもらいます」と正面のカバーを開くと、すぐに原因が分かった。他社から販売されている格安トナーが内部で液漏れを起こしていた。「すみません、このトナーなんですが……」そこまで告げたところで、中年が「あー、それね。おたくのは高いから」と悪びれずに言った。私がタブレットに修理費用の見積もりを表示して見せると、中年は顔を青ざめさせ「おい、こんな高いわけないだろう!」と私を怒鳴りつけた。メンテナンス費用は月額固定だが、メーカーの純正品を使用しなかった場合、費用は全額負担となる。業務用のトナーは高額だ。その上、もし液漏れで基板まで交換となればそれなりの稟議を通さないといけない金額になるだろう。納得しない中年に料金の内訳を説明し終えると、頭の中で始末書の下書きでも始めたのだろうか、表情が暗く沈んでいった。非はすべて中年にある。理不尽に怒鳴られた私にはこの男を糾弾する権利があった。しかし。


 トナーを取り出して内部に漏れた液を拭き取り、電源を入れ直す。エラーコードの表示はなく、正常に再起動が完了した。うなだれる中年に「次からは純正品を使ってくださいね」と告げ、さっきの見積もりを消去した。中年が安堵のため息をつき、小声で「ありがとうございます」とつぶやいた。これでいい。誰だってミスはする。知らないこともたくさんあるだろう。当たり前の話だ。それに対していちいち感情を露わにして怒鳴るなんてのは、自分のことを完璧な人間だと思い違いをしている、自制の効かない阿呆がやることだ。


 私は中年へ一つ借しを作るのと引き換えに幾ばくかのストレスを胃に溜め込み、その日の仕事を終えた。


※ ※ ※


 エレベーターでマンションの最上階まで昇り、自宅の扉を開くと、日中忘れていた喜びが全身に戻ってきた。今でも信じられないが、これが新しい我が家だ。


 景色がよく、部屋も広い。すばらしい家だ。特に気に入っているのは、中央に位置する和室六畳間だ。和室の存在は人生の余裕と密接に繋がっている。ここには家具は一切持ち込まず、静寂に包まれて贅沢な時間を過ごすと決めていた。それだけでもこの家には十分な価値があった。仕事で抱えた陰鬱とした気分を、まるで敷き詰められたい草が吸い取ってくれるようだった。部屋の中央で座禅を組んで深呼吸をする。……静かだ。都会の喧騒から切り離された空間で心が本来の姿を取り戻していく。この時間こそ、多すぎる情報に囲まれた現代人に必要なものだ。


 ……だが、その大切な時間はすぐに奪われた。なにやら階下が騒がしい。床下から複数の人間が叫んでいるのが聞こえてくる。すぐに収まるだろうと我慢していたが、今度は音楽が鳴り響いてきた。挙げ句、犬だかなんだかわからない動物の鳴き声まで聞こえ始めたところで我慢が限界に達した。私は靴を履いて玄関を出ると、階段を降りて自室の真下にある1404号室のインターフォンを押した。夜中の大騒ぎはまだしも、ここはペット禁止だ。文句を言う権利はある。しばらくすると玄関扉が開き、住人が顔を出した。「……なんでしょうか」その男のしゃがれた声に私は面食らった。齢70を過ぎた猫背の老人だった。「あの、上の階のものですが、もう少し静かにしていただけると……。あと、ここはペット禁止では……」語尾が小さくなっているのが自分でも分かった。部屋の中からは誰の声も、動物の鳴き声も聞こえてこない。「はあ、そりゃあ別の部屋ではないですかねえ。私、さっきまで寝てたもんで」と欠伸をする老人に、私は謝罪して部屋に戻った。


※ ※ ※


 しかし騒音はまだ続いていた。畳に耳を押し当てる。音は明確に真下から聞こえていた。あの老人が嘘をついているのかとも思ったが、よく聴くと音が反響していることに気付いた。根源はもっと、ずっと下にある。立ち上がり、半信半疑で畳をめくり上げた。


 穴があった。


 畳の下に、濡れた岩盤に囲まれた穴がぽっかりと空いていた。直径はちょうど一畳分。穴は垂直に伸びており、数メートル先は暗闇に沈んでいて何も見えない。穴の入口には赤茶色に錆びた梯子が架けられていて、私を深淵に誘っているようだった。はるか奥からエコーのかかった唸り声や音楽、男女の話し声が聞こえてきた。あり得ないことだ。老人の部屋はどこへ消えたというのだ。いや、それどころか、もっと下のフロアまで貫通する高さから音は聞こえている。私はすぐに狐目の不動産屋に電話をかけたが、いくら呼んでも出ない。諦めてコールを切ると、同時に、ガシャンと何かが閉まる音が全方位から聞こえた。和室を出ると、すべての窓と扉が開かなくなっていた。正確に言えば、すべての窓と扉の奥に、厚い鉄の防護壁が張られていた。やはりこの家には初めから何か細工があったのだ。


 引っ越したばかりで冷蔵庫にはほとんど食糧がない。私の腹はすでに鳴っていた。このままではおそらく二日も持つまい。選択肢が無いのであれば、行動は早い方がいい。


※ ※ ※


 「おえっ」と梯子を降りながらえずいた。淀んだ空気と赤錆とが混ざり合って異臭を放っていた。おそるおそるとはいえ、もうかれこれ十分は下っている。高さで言えばマンションの5階あたりまでは来ているだろう。穴はまだ続いている。「おおおい!」と叫んだ声は反響しながら深淵へと消えた。とてもマンションの高さでは足りない深さだった。


※ ※ ※


 ある地点まで降りたところで音が消えた。獣の唸り声も人の声も音楽も何もかも消えた。静寂に包まれると、ますます今いる高さがわからなくなる。だが引き返したところで何も解決しない。恐怖心を脳の底へと追いやり、無心で梯子を下りる。「おおおい!」また叫んでみる。音が反響しなかった。暗闇に慣れた目がついに穴の底を視認した。と同時に突然、梯子が岩盤から外れた。落下した私は壁だか床だかにしたたかに頭をぶつけ、意識を失った。


※ ※ ※


 目を覚ました私は藁を重ねて作ったベッドに丁重に寝かされていた。体のあちこちに打撲の痛みがあり、すぐには起き上がれなかった。そんな私を一匹の猿が見下ろしていた。猿は「おお、神よ。お目覚めですか」と野太い声で喋り顔を綻ばせると、果物を山盛りにした皿を私に差し出した。気づけば多くの猿が集まってきて私を取り囲んでいた。彼らは皆、私にひざまずいて畏怖の念を向けた。猿によって作られた文明。昔の映画で見たことがある。やはりあの穴は異界へと続く入口だったのだ。


※ ※ ※


 彼らは暗く出口の無い洞窟の中に集落を作って暮らしていた。男女合わせて、ざっと三十人。"匹"と数えるにはあまりにも人間的すぎた。皆、言葉を解し、火を扱い、道具を使って生活している。私の凝り固まった常識ではとても計り知れない世界だったが、「神の屋敷」として案内された石造りの家に、私の「前任者」が残した書き置きがあり、それが手引書となってくれた。


"次に空から降りてきた者よ。彼らは無条件に人を神と敬い、従う習性を持つ。欲を出さず、身の丈にあった生き方をするならば、ここでの暮らしもそう悪くはない。ただし、「唸りの穴」にだけは近付くな"


※ ※ ※


 毎朝、起きると猿たちが順に挨拶にやってきて私の機嫌を伺った。


 働かずとも、手を叩けば美味い食事が一日三食でも四食でもすぐに運ばれてきた。


 彼らは自ら望んで私の手足となって働いた。これまでずっと雇われの身だった私にとって、自分の意志が大勢の部下たちを動かす快感は初めて得るものだった。スムーズに指示を伝えるための指揮系統も数日のうちに完成し、私は主にイチを通して猿たちを動かした。イチというのはリーダー格の猿のことで、前任の"神"が彼らに名前(という名の番号)を付けていたのだった。


 「食事の質はいかがでしょうか」「態度のよくない者はおりませんでしょうか」「肩のこりをほぐしましょうか」と、イチはよく気を配り、よく働いてくれた。文明から遠く離れた不便な暮らしではあったが、その中でできる最善を尽くしてくれたし、なにより私を立ててくれた。なぜそこまでしてくれるのかと問うと「あなたは神ですから」と答えた。悪い気はしなかった。


※ ※ ※


 しかし、ここで暮らし始めて一月も経つと不満も出てきた。はじめはあれだけ美味かった果物に飽きが来たのだ。贅沢な悩みに思えるかもしれないが、娯楽の少ないこの世界において、食の占める割合は決して小さくない。それに恐らく糖分を取りすぎ、栄養も偏っていることだろう。私はイチを呼びつけて「肉が要る」と伝えた。イチは「ここにいる全員が菜食主義です」と答えたが、それと肉の有無は無関係だ。洞窟の奥から聞こえる唸り声。あの獣を捕らえてこいと命じた。イチは「唸りの穴はこの世界最果ての地、聖地です。我々は足を踏み入れることは許されておりません」と初めて神に反抗した。私は反射的にイチを殴りつけていた。肉が無いからではない。分をわきまえない態度を許すわけにはいかなかったからだ。


※ ※ ※


 その夜、私は密かに神の屋敷を抜け出し、松明を片手に洞窟の奥を目指した。目的は肉だけではない。そこへ行けばこの世界の謎が解けるかもしれないと思ったからだ。彼らはなぜ由来もわからない日本語の読み書きができるのか。陽の当たらない洞窟ぐらしで私の食べている果物は一体どこから来るのか。なぜ人を神と崇めるのか。全能である私が知らぬことなどあってはならない。


※ ※ ※


 集落からどれほど離れただろうか。既にかなりの距離を歩いたはずだが、未だ声の出所には辿り着かない。洞窟の入り組んだ岩壁に音が反響して距離感を狂わせているのだろう。だが、根源に近付くにつれ音が徐々にクリアになってきた。それでわかったのは、それは声ではなく"音"だということだ。ゆえに、その場所に獣はいない。だが、そんなことはもはやどうでもいい。この世界の秘密が隠されているのなら、神である私はそれを知らねばならない。


※ ※ ※


 壁だ。


 洞窟の最奥には壁があった。行き止まりだ。だが、ただの行き止まりではなかった。それは、ここまでうんざりするほど眺めてきたゴツゴツした岩壁ではなく、地面から垂直にそびえ立つ乾いたコンクリート壁だった。あきらかな人工物。間違いない。ここには文明がある。コンクリートに手のひらを当て、"端"を探して壁に沿って歩いた。手にした松明はとうに焦げた棒きれと化していた。暗闇の中を文字通り手探りで進むと、十メートルほど先で手触りが変わった。鉄だ。その時、壁の向こうから唸り声……いや、音が鳴った。耳をつんざく轟音と同時に鉄とコンクリートの隙間から光が漏れ出て、壁の形状を露わにした。それは壁ではなく、鉄製の扉だった。震える手でドアノブを回し、私はこの世界との境界線を跨いだ。


※ ※ ※


 「想定より一週間遅かったですね。よほど猿たちのボスがお気に召したと見える」と、扉の向こうで私を出迎えた男が言った。あの狐目の不動産屋だった。わけがわからず呆然と立ち尽くす私の眼前を、ライトを煌々と照らした地下鉄の車両が轟音を響かせながら通過していった。「実験は以上。皆さん、お疲れ様でした」と狐目が手を上げると、少し離れた別の扉から見知った猿たちがぞろぞろと出てきた。その中にイチもいた。声をかけようとすると、イチは猿の頭を取り外し、汗にまみれたヒトの顔を表に出すと、私を一瞥し、一言も口にせず、他の猿たちと共に立ち去っていった。


 「ご協力いただいた謝礼です」と狐目が数十枚の万札が入った封筒を手渡してきた。封筒には一枚の名刺が添えられていた。名刺には聞いていたのとは別の名前と、文部科学省の文字があった。「『ヒエラルキーの位置変化による人格への影響について』──これは国に認可された社会実験ですので、何卒ご容赦いただければと存じます。それでは」そう言い残して狐目が立ち去ろうとしたので、慌てて呼び止めた。「ま、待てよ。じゃあ、あの穴や猿は一体……」「ああ、マンションの穴ですか。あれは最初からああいう作りですよ。最上階から地下実験場まで直通の穴があり、それを通すための柱がある部屋で階下の住人には暮らしてもらっていました。もちろん、マンションの住人も猿もこちらで雇った方々ですよ。ああ、あなたの会社にも承諾を得ておりますから、明日からは元通り復職していただけますよ。……ただ、申し訳ないのですが、その名刺の通り私は本物の不動産屋ではないので、住む場所だけはあらためてご自身でお探しいただればと。それでは、今度こそ失礼いたします」


※ ※ ※


 久方ぶりに地上の光を浴びた。


 以前と変わらず人々は街で暮らし、それぞれの道を歩んでいた。まるで地下の出来事などなかったかのように時間は進んでいた。とはいえ、元々は私もその文明の一員だったし、そちらで暮らしていた期間の方がはるかに長いのだから、身体も心もすぐに順応した。明日からはまた複合機の修理だ。……と、その前に取り急ぎ住む家を探さねばならない。


 幸い、偽物だったのは狐目の男だけで、不動産屋自体は以前と同じ場所に建っていた。「駅の近くで家を探しているのだが」そう尋ねると、店員はしばらくPCで物件を検索した後「すみません」と謝り、条件に見合う物件が無いと告げた。この私にだ。私は金の入った封筒を机に叩きつけ、「こっちは客だぞ!」と店主を怒鳴りつけた。


-おわり-

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