びぃどろよりも脆くて痛い

蛙田アメコ

びぃどろよりも脆くて痛い

 さあ、仕置きも折檻も何するものぞ。

 二人ならば、地獄の果てまでも逃げきれるのだ。


***


 江戸は吉原、夢の花街。

 幕府公認の花街、江戸最大の歓楽街。

 三千人におよぶ遊女が暮らし、その身を売る吉原の片隅『結城屋』に――怒鳴り声が響く。

「あぁああっ! 夕霧、あんたってやつはまたぁ~!」

 泊まりの客も帰っていった早朝の吉原で若い新造――まだ姉女郎についている見習い遊女の烏は、空を見上げて頭を抱えた。

 客がいなければ、時代のついた廓言葉なんぞ使わない。

 きっぱりとした娘言葉だ。

 少女は、どこまでもどこまでも真っ黒い髪をしている。鬢付け油で艶やかに光る髪にちなんだ「烏」という源氏名は姉女郎の鷹山がつけた。吉原に売られてくる前の名前は、まつといった。

 からす、だなんて変な名前。絶対におもしろがってつけた名にきまっている。

 さて。

 なぜ烏が頭を抱えているのか。

「あんたってやつは、あんたってやつは……」

 見世、と呼ばれる女郎屋の二階はさまざまな年代の遊女たちが春をひさぐ小さな部屋が無数に連なって出来ている。

 その見世の屋根の上に、烏とおなじ振り袖姿の少女が座り込んでいるのだ。

 冬へと向かう清涼な朝の空気のなかで、屋根の上の少女はじぃっと空を見上げている。

「夕霧、いいかげんにおしよ」

 烏と同じ日に吉原に売られてきた新造、夕霧だ。

 同じ年代の新造で、いっとう美しいと評判の少女である。

「ねえってばっ!」

 声を荒げるけれど、夕霧は動かない。烏は焦った。その人影をみとめているのが、烏だけならよい。けれども、屋根の上でのびのびと大欠伸をしている少女の姿はよく目立っていた。

 よその見世の姐さんたちが、二階の窓からその人影を指さして大笑いしているではないか。

 ありえない。

 自分たちの身体は、商い道具だ。

 それを、屋根によじ登るだなんて。何をしているんだ。

 こういった夕霧の奇行は、ちょっとした結城屋の名物になっている。湯屋で顔を合わせるよその見世の姐さんたちが、おかしそうに夕霧の噂話をしているのを何度も耳にした。

「ねえ、聞いているの。夕霧!」

 烏の声に、屋根の上の人影がやっと反応する。

 ひらひらと手を振る少女は、朝日を浴びてへらりと笑った。

「や、烏ちゃん。おはよ」

 透き通るように白い肌の少女だ。

 朝日のしたで鳶色に光る髪は、烏とおなじく島田に結われている。

 烏の姿を認めると、とろりと垂れた目尻がさらに下がる。

 ああ綺麗だと、烏は息を飲む。

 夕霧は、烏と同じ日に売られてきた娘だ。――夕霧の姿をひと目みとめた日から、烏は夕霧に心を奪われ続けている。

「霧江姐さんにまた叱られるよぉ」

 霧江というのは、夕霧の姉女郎で結城屋いちの売れっ子だ。

 小見世である結城屋に三人しかいない部屋もち女郎の頂点に立つ女である。烏も、その部屋もち女郎のひとりである鷹山の妹分ということになるのだが、やっぱり霧江の部屋とは布団ひとつ、調度品ひとつにしても、いくつも格が違うように思う。

 霧江は客にも同僚の遊女にも神経をいつも尖らせている美しい痩せぎすの女で、烏はすこし彼女のことが苦手だ。

「霧江姐さん、自分とこの妹分じゃなくても平気で拳骨くらわせてくるんだから」

「あっはは。上等、上等。あたしたちは大門の向こうにいくこともできないんだから、屋根に登るくらいばちは当たらないでしょう」

 こともなげに、夕霧は肩を震わせた。

 するりするりと屋根から 格子のはまった窓を伝って、烏のまえにすとんと降り立った。

 しなやかで、健康的な身のこなしだった。

「烏ちゃん、今朝も元気だねぇ」

「あんたのせいでしょうよ、夕霧が妙なことしないように見ていてくれって霧江姐さんに言われてるんだよ」

「や、霧江姐さんらしいわ」

 ふっくらと笑う夕霧の笑顔は、助兵衛な男どもならばすぐにでも骨抜きにされる愛嬌がある。声もいい。

 実際、夕霧は将来この結城屋を背負って立つ看板候補として、英才教育をうけていた。遊女の身の回りの世話をする禿と呼ばれる幼い見習いのうちから、楼主の部屋や売れっ子女郎のもとについて歌舞音曲の稽古をするのだ。そのあいだ、見世の手伝いや、姐さんたちの身の回りの世話といった雑用は免除される。烏が姐さん女郎について、昼も夜もなく雑事に走り回っていたあいだ、夕霧はそういう教育をうけていたわけだ。

 それが羨ましいかと言えば、烏にはそうは思えなかった。

 だって、いかに芸が達者だろうが最後に売るのは女の身体なのは変わらないし、それに、日々を過ごしていくうちに夕霧の奇行はどんどんと度を超えていっているのだ。

 見世に売られたばかりのころの夕霧は、空を飛ぶ蝶々やツグミに目を奪われてぼぉっとしているのを叱られる程度だったのが、長じるにつれて屋根に上るわ、お座敷から抜け出して台所で大きな卵焼きをこさえるわ、果ては雪の降る日にやってきた姐さんの上客と雪合戦に興じるわ。

 そのたびに、夕霧は行燈部屋と呼ばれる仕置き部屋に閉じ込められて、ときには折檻されたり食事抜きなんて仕置きをうけたりもしていた。

 とうの夕霧がちっとも応えたふうではないので、お仕置き大好き縛りの天女と遊女時代に言われていたらしい見世の女主人であるおかあさんまで、近頃は「夕霧を責めるの、なんか張り合いがないわぁ」とぼやいている始末だ。

「ね、烏ちゃん」

「なに……って、ちょっと。手ぇ繋いでどうしようっていうの、ぁ、ちょ、指の股、撫でないでって、」

「ふふ、かわい」

 すりすり、と皮の薄い指の股を撫で上げられて、「ひぃ」と小さく声がでる。

「ね、見逃してよぉ?」

 ずいっと唇が触れそうな距離に顔を寄せられて、烏は唸る。

 ああ、この、やたらめったら綺麗な夕霧の顔に、どこまでも澄んだ鳶色の目に、自分は弱いのだ。

「でも、」

「ね。お願いよぉ」

 砂糖菓子みたく、甘たるい声。

 まだ客をとらない新造のくせに、男を誘っていると、姉女郎たちが嫌う……烏の好きな声だ。

 はあ、と烏はため息をおさえられずに吐き出した。

「そういう手管は、客にするもんだよ」

 途端に、夕霧の表情が曇る。

「……男なんて、大嫌い」

 ああ、と烏は思う。

 夕霧は、吉原という苦海にあって「男が嫌い」だといってはばからない。それがまた、姉女郎たちの不興を買うわけだ。

 そうこうしているうちに、夕霧の姉女郎の霧江の怒鳴り声が響く。

「くぉらぁ! 夕霧、あんた何をやってんだい!」

 もう客の引けた朝の吉原では、猫なで声を出す必要もない。

 鬼ババアのような声だった。

 その声に、烏は思わず身をすくめる。霧江の金切り声が烏は苦手だった。

 ああ、また怒られてしまった。これは、しばらく機嫌の悪い霧江の顔色をうかがいながら見世で過ごさなくてはならなくなった。

「あっはは。怒ってる」

 げんなりしている烏をよそに、夕霧は実に愉快そうだ。

「笑い事じゃないよ」

「こりゃあまた、行灯部屋で絞られちまう」

「そうだろうね、まったく今月になって何度目さ」

 はーぁ、とあきれてため息を吐く烏の耳元に夕霧が唇を寄せて囁く。

「でもさ、男に媚びるよりはずっといい」

 じろり、とにらみつけると、天女様みたいな美貌で夕霧は笑った。



***



「まったく、どうして夕霧はああなんだろう」


 烏は、姉女郎の鷹山の座敷の前の間で布団にくるまって小さくなっていた。

 もっと下級の店では女郎たちは大部屋で寝起きする。座敷持ちの姉女郎についているぶん、烏は幸運だといえる。誰かの歯ぎしりに悩まされることもないし。

 鷹山は、すでにぐっすりと眠っている。

 数時間後には、吉原の昼の営業――昼見世の準備のために起床の鐘が鳴る。そこからは休む間もなく朝方までお勤めに励む遊女たちにとって、朝の二度寝は貴重な睡眠時間だ。

 烏が吉原にやってきてもう何年も経つはずなのに、お天道様が昇ってくる朝に眠りにつく、というのにまだどうにも慣れないでいた。

 眠れないので、ころころと寝がえりをうっていると、廊下につながる障子がすぅっと音もなく開いた。

 だれだろう、と視線をやると。

「や、烏ちゃん」

「夕霧」

 眠っている姉女郎たちを起こさぬように、吐息だけで声を発する。

 襦袢だけをまとった夕霧は、烏の煎餅布団にするすると潜り込んできた。

 夕霧はときおり、こうして烏と共寝をしたがる。もう幼い子供でもあるまいし、ひとりで眠れないということでもないだろうに。それに、店一番の売れっ子である夕霧の姉女郎、霧江の座敷には烏のものよりうんと上等な布団を置いているのに。ただ、烏はそれを嫌だとは思わない。夕霧のぬくさが布団にじんわり広がっていくと、朝日の光が眩しくても不思議とよく眠れるのだ。

 もぞもぞと身体を寄せて来た夕霧が、いたずらっぽく囁く。

「ね。烏ちゃん、口開けてみ」

「ふぇ? ……むぐっ」

 なんで、と尋ねるまもなく何かがぐいっと口に押し込まれる。

 しょっぱい。ふわふわしていて、こくがある。

 これは――。

「卵焼き?」

「そう。台所から、卵焼きの端っこくすねてきた」

「またかい」

 結城屋は、仕出しの宴席が主流となった近頃の吉原では珍しく見世に台所をもっている。

 そこで毎夜焼かれる卵焼きは、田舎ではまずお目にかかれないほどに、とても贅沢なものだ。夕霧は、ときおり台所から客に出さなかった卵焼きのしっぽを持ってきては烏に半分よこしてきた。

「や。本当においしいねぇ、卵焼きのしっぽ」

「美味しいけれどさ。なんだか、今日は随分としょっぱい……え?」

 目に入った色に、烏はぎょっとする。

 赤。生々しい色。

「あちゃ。ばれたか」

「ばれたかじゃないよ!」

 夕霧の白い指から、だくだくと赤い血が流れていたのだ。

 どこで怪我をしたんだろう。

「はやく、血をとめなくちゃ」

 ぎゅう、と血を吹いている指の根元をおさえてやる。指でやるのがまどろっこしくて、自分の指をからめて手を繋ぐようにしてやった。

 指が白くなるくらいに押さえていると、少しだけ血の勢いがよわまる。

 ちゅう、と流れる血を舐めとってやれば夕霧は嬉しそうに身をよじらせた。

「やあ、烏ちゃんってば」

「あとで、姐さんに軟膏をもらおうね」

「ふふ、うん。ありがとうね」

 ほにゃ、と夕霧が笑う。

「どうしてこんな怪我」

「うん、霧江姐さんがお客にもらったびいどろをさ、割っちゃった」

 びいどろ、というのはいわゆるガラス細工だ。

 風鈴のようなガラスのふくらみに細い管がついていて、その管から息を吹き込むとぽっぺんぽっぴんと音が鳴る。

 長崎土産の蒔絵が入った美しいびいどろを、遊女たちによこすのが近頃の「粋」なのだそうだ。

 腹も膨れないし、かんざし代わりにするにも壊れやすいから、遊女たちからは不評なのだけれど。

「……姐さん、怒ったでしょう」

「ううん、まったく。嫌な客のよこしたもんだって」

「ああ、そう」

 烏は白けた気持ちになる。びいどろ、結構好きなのだけれど。

 なんとなく、危なっかしいところが夕霧に似ている。

 夕霧は、血を流している自分の指と烏の顔をじぃっと見比べて、ほにゃっと笑った。……この笑顔を見ると、なんだかよく眠れそうに思える。

 ぎゅっと握った手はゆるめないよう、烏はそっと瞼を閉じる。

「ね。烏ちゃん。こうして手をつないでるとさ」

「うん」

「思い出すよねえ」

「なにを?」

 烏は目を閉じたまま、夕霧の言葉に返事をする。

「だから、あたしたちが初めて会った日のこと」

「ああ……」

 そうだ、と烏は思い出す。

 この吉原に売られてきたときも、自分たちはこうして手をつないでいた。


 ――烏が吉原にやってきた日は、よく晴れていた。

 しらみとのみまみれの、汚い子どもだった。農村に生まれて、松という名をもっていた。八人の兄弟がいた。何人かは幼いうちに死んでしまったけれど、それでもまだ口減らしが必要だった。

 松、と呼ばれていた烏のしたには、弟がいた。男は将来の働き手にもなるし、上に二人いる兄になにかがあったときに家を継ぐかもしれない。だから、弟は家に必要だった。

 そういうわけで、母がまた新たに子を孕んだことが分かってしばらくした夜、烏は見知らぬ男につれられて、故郷の村をあとにした。

 よくある話だ。

 目指すは吉原。姫様みたいな着物で、白いまんまをたらふく食えるのだと、道すがら男は言っていた。

 そのときの烏は、五つか六つかの年だったけれど、自分の行く末はなんとなく知っていた。

 男は烏の黒い髪を、「男がよろこぶよ」と、しきりに褒めそやしていた。都合の悪いことは、この人は一言も口にしないのだと思った。たとえば、烏の頬に浮くそばかすとか。

 江戸に向かう途中、いくつもの風景を見た。

 山でずいぶんと雨が降ったようで、濁った川がごうごうと音を立てていたのを覚えている。

(しにたくない。おれは、しなずに生きて、生きて、村に帰るんだべ)

 うねるような濁流をじいっと見つめていると、不思議とそういう思いが烏のなかに湧き上がってきた。

 怖かった、のだと思う。

 死にたくない、と思えば思うほど、これから向かう先で起きることを悶々と考えてしまって、烏の幼い足はがくがくと震えた。

 道すがら、子どもがひとり増えた。

 烏と同じような理由で、烏と同じように売られたであろう娘だった。

 やっぱり烏と同じように小汚い格好だったけれど、驚くほどに肌が白かった。

「お松ちゃんっていうのね」

 その娘は、まるでお天道様みたいにほにゃっと笑った。

 ぽかぽかと照らされる鳶色の髪が綺麗だった。

「ね、見て。とんぼ」

 秋晴れの空を二匹連なって飛び回るとんぼを指さして笑った娘。

 それが、夕霧だった。

「飛んでるねえ、とんぼ」

「…………そんなん、見ればわかるべ」

 烏は田舎の訛りのきつい言葉で呟いた。

 死にたくない、生き抜きたい、怖い。そんなことをぐるぐると考えていた烏の震える手をとって、ぎゅうっと握ってくれたその手は柔らかくて、泣きたくなるくらいに温かかった。

 それから、ずっと夕霧と手をつないで歩いた。

 烏たちを連れて歩く男は、それをせせら笑うような顔をしていたけれど、その手を解くことはしなかった。


 烏はすぐに気づいた。

 ほにゃ、と笑ってみせた少女の指も、自分と同じように絶えず震えていたのだ。

 その手を解いたら、恐れややるせなさに押しつぶされてしまいそうで。ふたりはずっと、手を取りあって吉原への道を歩いたのだ。

「ずっと、こうしてたいなぁ」

 秋空を飛びまわるとんぼを見上げては、夕霧は歌うように呟いていた。

「そんなん、できるわけねえべ」

 なんて言いながら、烏も同じように思っていた。

 この道中がずっと終わらなければいいのにと。


 よく晴れた朝、たどり着いた吉原でふたりは同じ見世に買い取られた。

 ……ああ、この娘とずっと一緒にいられる。そう思って、烏はすこしだけ嬉しかったのを、今でも覚えている。


 ーーそんな、遠い日の夢を見た。


***


 夕霧は美しい。

 おそらく、姉女郎たちと比べても結城屋を訪れる男たちの目を引くという意味では、飛びぬけている。

 そういうわけで、張り見世に並ぶ姉女郎たちの後ろに控えて三味線をかき鳴らすのは、ここしばらくは夕霧の役目だった。

 張り見世というのは往来に面した店先のことで、ここに居並んだ遊女たちが格子の内側から自分の姿を見せて客を待つ。

 位の高い見世には張見世はないけれど、茶屋への呼び出しだけでやっていけない小さな、それこそ結城屋のような見世にとっては張見世は生きた看板だ。

 ずらりと遊女の居並ぶそこで聞こえる三味線の音色や、それをつま弾く新造の美しさというのも、客を誘う立派な品物なのだ。

「まったく。うちの妹分がドジで悪いねえ、烏」

 昼見世が始まってすぐに、絢爛豪華な打掛をまとった霧江に声をかけられた。烏は「いえ」と短く応える。

「ま、烏のほうが三味線は何枚も上手だもの。見世にとってはいいのかもね」

 霧江は言って、張り見世の一番目立つ位置に腰を下ろした。格子の外からよく見える正面は、一番人気の彼女のための場所だ。

 夕霧がびいどろで切った指は、悪いことに三味線の糸をおさえる左の人差し指だった。

 びいどろを割ったときに指を切ったことを隠していたせいで、霧江にもおかあさんにも「なぜすぐに言わないのだ」とどやしつけられていた。

 三味線が弾けない夕霧のかわりに、こうして烏が代わりに糸をかき鳴らして小唄をうたっている。

「本人はケロっとしてたそうじゃない」

「夕霧なんて名じゃなくて、蛙とかにしたらどうかね」

「やだ、そんな名じゃ客もとれないよぉ」

「今頃あのこ、行灯部屋だろうね」

「はあ、また。座敷に出ているより仕置き部屋にいるほうが長いんじゃないかい」

「違いないや」

 姉女郎たちが軽口を叩いては、わっと張り見世が湧く。

 よい陽気だ、と烏は思う。秋と冬のはざまの季節は過ごしやすい。真夏は蒸し暑くて敵わなかったし、これからやってくるキンキンと寒い真冬には、こんなに和やかではいられない。

 みな、はやく客をとって少しでも暖かい座敷に引っ込みたいと躍起になるのだ。

(……行灯部屋、暗いしじめじめしてるだろうに)

 こんなにいい陽気の夜に、お仕置きとして閉じ込められているであろう夕霧。傷に触らないといいけれど、と烏はぼんやりと考えながら三味線のバチをふるう。……夕霧は、今日はメシ抜きだろう。

(お座敷で客の食べ残しがあれば持って行ってやろうかな)

 そんなことを考えていると、背後から声がかかった。

「烏、こっちにおいで」

「鷹山姐さん」

 深緑の打掛をした姉女郎が、女亭主のとなりに座って手招きをしていた。

 昼見世に並ばずに話し込んでいたのだろう。

 何か、しくじったのだろうか。烏は一番年若い姉女郎に三味線を渡して立ち上がる。

 鷹山は、じいっと烏を見つめている。

「三味線、また腕をあげたんじゃないかい」

「ありがとうございます。まだまだです」

「近々、店で一番うまい弾き手になるかもねえ」

 見世の女亭主であるおかあさんが、口をはさむ。

 烏はとくに芸事の稽古は好きで、下働きの合間に熱心に練習をしていたから、素直に嬉しい。

「あんた、いくつになった」

 ずばりと、鷹山が問う。

「十五です」

 烏は答える。自分の年など正確にはわからないが、そういうことになっていた。

 鷹山はおかあさんと顔を見合わせる。

 そうして、珍しくきちんと正座をして妹分の烏に向き直った。烏もピンと背筋を伸ばす。

「烏。そろそろあんた、初見世のしたくをしようか」

「初、見世」

 一瞬、ぽかんとしてしまってから、烏はきゅうっと唇を噛んだ。

 ついに、この日がやってきた。

 初見世というのは、新造が見習いから一人前の遊女になる日のことである。

 客を、とるのだ。

 烏は夕霧とは違う。「男は嫌いだ」なんて、言ったことはない。

 ここに売られてきたときから、自分の将来のことなんてわかっていたはずだった。

 けれど、どうして。

(どうして、夕霧の顔が浮かぶのだろう)

 頭が真っ白だ、と烏は思う。

 無性に、いまは行灯部屋にいるであろう夕霧に会いたかった。

「あ……その、」

 ありがとうございます、と言わなければいけないことは分かっていた。

 初見世というのは、見世にとってもちょっとした祭りのようなもの。いままで、烏の面倒をみてくれた鷹山にだって恩義がある。

 にっこりと笑顔の一つでも見せて、深々とお礼を申し上げなくてはいけないのに。

 烏が、まるで金縛りにでもあったかのように身じろぎひとつできないでいると、近頃買われてきたばかりの見習いがぱたぱたと走ってきた。

 鷹山がぴしゃりと叱る。

「こら。見世で走るんじゃあないよ」

「鷹山さん。ごめんなさい、でも、その、夕霧さんが」

「夕霧が、どうかしたの!」

 思わず、声を張り上げた。

 少女が、もじもじと身を小さくして俯いた。

「夕霧さんが……行灯部屋で、その、ひどいお熱で」

 立ち上がって、駆け出そうとした腕を掴まれる。

「っ、鷹山姐さん、離して」

「昼見世は始まってるんだ。あんたが行ってどうなる。おかあさんに任せなさい」

「でも」

「あの娘だってもう年頃だ。霧江が決めればすぐに客をとるようになる……そうなったら、もう一本立ち。てめえの身体の具合も一人でどうにかできないようじゃ、この街じゃやっていけない」

 有無を言わさぬ口調だった。

「さあ。張見世にもどって、三味線を弾くの」

「……わかりました」

 生き抜かなくてはいけない。

 烏は売られてきた日から、生き抜いて、この町を出るという決心をしていた。

 そのためには、鷹山の言っていることはどこまでも正しい。

(……あとで、見舞いにいってやろう)

 けれど、三味線をつま弾く烏の心は奇妙にざわついていた。夕霧のことが頭から離れない。

 その日、烏は珍しく三味線の糸を二度も切った。


***


「はぁ、大引けだ」


 空気の緩んだ見世に誰かの声が響いた。

 大引けの時刻が過ぎて吉原の大門がしまってしばらくすると、客をとれなかった遊女たちは自分の寝床に引き上げていく。烏も手早く着物を脱ぎ、寝間着がわりの襦袢に着替えた。

 早朝から昼見世の支度がはじまるまでが、遊女達にとっては束の間の休みなのだ。

 皆が寝床にもぐりこむなかで、烏が急いだのは奥の部屋。病気をした禿や新造を寝かせておくための、二畳たらずの小さな部屋だ。

「具合は、どう」

 よれた襖を開けると、夕霧がそこに横たわっていた。

 じっと閉じられていた瞼がもちあがり、ややあってから夕霧は「やあ」と間抜けな声とともに軽く手を挙げる。

 拍子抜けするくらいに脳天気な声色で、いつものへにゃりとした笑顔を浮かべている。

「いやあ、ありがたいね。こうやってゆっくり烏に会えるなんてさ」

「倒れた、っていうからこっちは肝を冷やしたよ」

「ははは。ごめんよぅ。医者の言うには、膿んだ傷から熱がでたんだってさ」

「傷って」

「ほら、びいどろ割っちゃったときの」

 なるほど、あのとき舐めてやった指は、思えば熱を持っていた。

 夕霧は、まるで武勇伝を語るみたいに楽しげに続ける。

「労咳じゃあないかって、おかあさん青くなっててさぁ」

「そう」

 つとめて素っ気なく返答をした。

 吉原に売られてきたばかりのころ、労咳で死んだ姐さんを見た。やせ細って、真っ白になって、陸にいるのに溺れて死んだ。自分の血で溺れる夕霧なんて、見たくはない。

「労咳じゃないって聞いて、おかあさん、ずいぶん安堵してたでしょう」

「そりゃあ、烏。当たり前だよぅ」

 夕霧はほにゃっと笑う。

「稼ぎ頭の女郎にしようってんで、引っ込み禿だぁ、振り袖新造だぁって引き立ててもらったから、あたしが死んだら大損だ」

 あっけらかんとしたものだった。夕霧は身体を起こして布団のうえで胡座をかくと、膝に肘をついて、くすくすと可笑しそうに肩を揺らす。

 ほにゃほにゃとした笑みを浮かべて、己の命を金と秤にかけるような話を平気でする夕霧に、苛立ちを覚える。

「ずいぶんと、乾いたことを言うじゃないか」

「あっはは。ほんとうはさ、このまま死んじまえばいいのさ。男のまらに股ぐら貫かれるくらいなら、死んじまったほうがよっぽどいいよ」

「夕霧、馬鹿いわないで」

 冗談だか本気だか分からない戯れ言を聞いていられずに、烏は語気を強めた。

 こちらは、その「死んじまったほうがいい」ことに、もう明くる月にはなるというのに。

 烏は、突きつけるようにその事実を告げる。当てつけのような気持ちもあった。

「初見世が決まった」

「……えっ」

「相手は、見世のお得意の呉服問屋の三島屋さん」

「じいさんじゃないか!」

「優しくって、床も上手いって」

 何か言おうとして、夕霧が言葉を詰まらせる。

 どうして夕霧がそんな顔をするのか、烏には分からない。破瓜されて、股から血を流すのは夕霧じゃあなくて烏なのに。

 大きな鳶色の目玉に、いっぱいの涙を浮かべてしまった夕霧の背をさすってやる。

 夕霧が、ふいに烏の寝間着の袂を掴む。指の力が、強い。

「ねえ、烏」

 弱々しい声で、夕霧に呼ばれる。

 なに、と応えると袂をぐいぐいと引っ張られた。

「手、繋いで」

「なんだい、子どもじゃあるまいし」

「いいから」

 するり、と夕霧のふくよかな指が烏の腕を滑り落ちていく。

 三味線を弾くには都合のいい烏の筋張った指に、夕霧の指はやわらかく絡みついた。

 指と指を絡めて、指先ですりすりと手のひらを撫でる。

 やわらかい指に愛撫されるのはこんなにも心地がよいものか。自分の細く節がたった指とは大違いだと、烏はぼんやりと目を閉じる。

「……いやだよぅ、男に抱かれるなんて」

「あんたじゃなくて、抱かれるのはあたしでしょうに」

「男なんかに抱かれるのは死ぬほど嫌だけど、烏が男に抱かれるほうが、もっとずっと嫌」

 きっと、夕霧はわかっている。

 烏の指が、かたかたと細かく震えていることを。

 この震えが、初見世が決まったと知らされてからおさまらないのだ。

「一緒に寝てくれるかい」

「座敷に戻らなかったら、鷹山姐さんにどやされるよ」

「どやされたって、構わないよぅ」

「だから。どやされるのは、あたしでしょうに」

 くく、と烏は肩を震わせる。

 おかしかったからだけではない。遠からぬうちに、男と共寝をするようになるなんて、信じられなかった。怖かった。

「男なんて、大嫌い」

「うん、うん」

 結局、その朝は夕霧と同じ布団で眠った。

 繋いだ手は、起床を知らせる鐘に目が覚めたときも、やっぱり繋がれたままだった。

 烏は思い出す。

 ああ、そうだ。この柔らかい手を守ろうと、あの日とんぼを見ながら決めたんだ。

「ね、烏ちゃん。好きよ。ずぅっと、一緒にいてねぇ」

 だから、目が覚めて夕霧があの砂糖菓子みたいな甘い声で囁いたときに、「うん、うん」と頷いてしまった。

 そういう手管は、客にするもんだよと、言い返すことができなかったのだ。


***


 柔らかい指が股の間でぬるりと滑って、ひぃっと声が上擦った。

「だめ、だめ。夕霧、指は」

「ふふ。烏ちゃん、かわいいねぇ」

「うぅっ」

 あの夜から、夕霧は烏の布団にしょっちゅう潜り込むようになっていた。

 引っ込みとして歌舞音曲と一緒に仕込まれたという床の技をあやつる夕霧の柔らかい指は、烏のまだ開かれていない身体を、とろり、とろりと溶かしていく。

 烏の初見世は、ふた月後に決まった。

 正月の公休日を超えて、節分の催しの始まらないうちに初めて客をとることになる。真冬の初見世だ。

 年末の催しと初見世の支度とで、見世は賑わいと慌ただしさを見せていた。

 その中心である烏は、初見世でまとう打掛や簪を見繕うのに忙しい。それに加えて、見習いの新造として良くしてくれていた姉女郎のお得意様へ挨拶等々で目が回るほどだ。

「ん、ん……っ夕霧、口吸って」

 だから、こうして夜な夜なやってくるようになった夕霧に甘えたくなってしまうのは仕方のないことなのだ。烏の初見世が済んだら、遠からず夕霧にもその日がやってくるだろう。

 将来の結城屋を背負って立つ期待の新造の初見世ともなれば、烏のそれの何倍もの客が夕霧の打掛姿を目当てに集まってくるに違いないのだ。

 それをわかっているからだろうか、夕霧の奇行は日に日に激しさを増していき、食事を抜かれたり、軽い折檻をうけている。

 姉女郎たちが「新造の癖に部屋持ちなんて羨ましいね」と揶揄されるほどに、行燈部屋に叩き込まれていることが多くなっている。

「いいよ。烏ちゃんのして欲しいこと、なんでもしてあげる」

 ちゅう、と烏の下唇を吸う夕霧の歯は真珠のように白い。

 島田に結った髪からは油のよい匂いがした。烏も、姉女郎の鷹山も使えないような、上等な油の匂いだ。

「ぅん、っ、んん……」

 烏の筋張った身体を弄る夕霧の指は、まるで上等な簪でも扱うかのように丁寧で。どこまでも、どこまでも、烏は悦楽におちていく。

 けれども、指が。

 夕霧のしなやかな指が烏のいまだ閉じている蜜壺に伸びると、とろけた身体は強張った。

「……だ、め」

「や、いじわる」

「だって、初見世前に破瓜してたなんて知れたら、殺される」

 遊女の初見世には、通常の揚代よりも高い値がつくことになっている。見世の馴染みの上客が、うんと祝儀をはずんで女郎の初物を買うのである。初見世の相手をつとめることができるのは、客にとっても名誉なことだった。

「三島屋さんだかなんだか知らないけどさ、そんなシワシワのじじいのために初物をとっておくの? あたしにくれないの?」

 夕霧は濡れた唇を尖らせる。

 長いまつ毛が色の白い肌に影を落とした。

「奥の座敷に鷹山姐さんが寝てるんだもの」

「だからなあに? 聞かれたら恥ずかしいの?」

「恥ずかしいとかじゃないよ、こんなことしているのが知れたら……」

 見世の若い男と寝ているのがバレた姉女郎が、顔が膨れるほどのひどい折檻にあったのを知っている。間夫じゃないにしても、新造同士で床を共にしているなんて知れたらどんな目に合うか。

「いじわる」

「あっ、ぅっ」

 拗ねた童女のような表情のままで、夕霧の巧みな指は烏の弱い肉芽を責め立てる。

 きゅうきゅうと下腹が切なく疼いてからは、もうだめだ。

 あ、あ、と絹をしぼるような細い声をあげて、烏はとろけるように気をやった。

「……は、」

 強張っていた身体の力が抜けていく。

 ふぅふぅと荒い息をついて、夕霧の首筋に鼻を埋める。

 薄い皮膚を唇と舌でくすぐれば、「ん、烏ちゃんは上手だねぇ」と夕霧はさも嬉しそうに声を弾ませた。

「ね。あたしも触ってもいいでしょう」

 くたくたに蕩けさせられた烏のそばかすの浮いた肌は、まるで湯上りのように火照ってしまっているし、寝巻きは、くしゃくしゃに寝乱れている。

 それに対して夕霧は、興奮のためかほんのわずかに頬を染めているのみで、寝巻きの襟も深く合わさったまま。それが、妙にシャクだった。

 烏はいまだに、夕霧のたおやかな乳房にだって触れられていない。

「だぁめ」

「……なんで、あたしばっかりなんだよぅ」

「烏ちゃんの初めてくれたら、考えてもいいよぉ」

「それは」

 言葉に詰まる。

 自分の初めてを、夕霧の指が奪っていく。

 そう考えるだけで、じくじくと下腹が疼くけれども、それはこの吉原で何があっても生き延びてやりたいと願う烏にとって、譲りがたい一線だ。

「……ね、烏ちゃん」

「なに、夕霧」

「あたしの秘密、教えてあげようか」

 夕霧は、印象的な鳶色の瞳をすぅっと細める。

「ひみつ?」

「そう。でもね、その秘密を聞いたら」

 熱い吐息が烏の耳たぶを湿らせる。

「もう、戻れないかもしれないよ?」

 耳に直接流し込まれる甘い声に、ぞくぞくと背すじが震える。

 なに、戻れないって。

 秘密って、なに。

 次々に頭に浮かぶ「なに」を全部飲み込んで、烏は小さく頷いた。

 だって、夕霧の柔らかい手は今も烏の手をしっかりと握っているのだから。


***


 ――誰にも見られないように行燈部屋に来て。

 夕霧の言葉通りに、烏は大引け後にそっと鷹山の座敷を抜け出した。

 今日はよく客がついている。座敷持ちの女郎たちは客と共寝をしているし、座敷を持たない女郎たちが客を取る回し部屋もいっぱいだ。客と姐さんたちのまぐわう声がそこかしこから聞こえてくる。

「……や、烏ちゃん」

 普段は使わない座布団や壊れた座布団が積み上げられている行燈部屋から聞こえてきたのは、小さな声だった。

「夕霧……どうしたの、それ」

 烏が持ってきた蝋燭の光が、部屋の片隅にうずくまっている夕霧を照らした。

 白い頬に、赤黒い痣が浮かんでいる。

「いやあ、おかあさんを怒らせちゃってよう」

「何したの」

「霧江姐さんの馴染みの吉田様をさ、『ふやけた饅頭の土左衛門』って呼んでたのがバレた」

「ぶっ!」

 思わず、噴き出す。

 吉田様、というのは黒門町にある呉服問屋の若旦那で霧江の一番の上客だ。御座敷に呼ばれたほかの女郎や新造たちにも祝儀を弾んでくれるのだけれど、やたらと尻や足をやらしく撫でるというので評判が悪い。霧江の客としてあがっている見世で、ほかの女郎に浮気をすることはご法度のはずなのだ。

 やにさがった生白い顔と、たるんだ身体つき。なるほど、たしかに『ふやけた饅頭の土左衛門』である。

「うまいことつけた渾名だと思うんだけどねぇ。殴られた」

「当たり前だよ」

 夕霧は客に妙な渾名をつけるのが趣味なのだ。

 そんな軽口を叩きながら、夕霧は部屋の隅に山と積まれた座布団をてきぱきと退かしている。てんてんとカビのはえた土壁が見えてきて――烏は息を飲んだ。

「ちょっと……これって、」

「ん。これがね、あたしの秘密だよ。烏ちゃん」

 壁に、ぽっかりと穴が空いていた。

 正確にはまだ「穴」ではない。外壁に達しそうなほどに掘り進められた大きな凹みだ。ちょうど、人ひとりが通れるくらいの大きさの凹み。あとほんの少しだけ力を加えたら、外壁はもろもろと崩れ去るだろう。

「はじめは、ほんの少し壁の表面が剥げていただけなんだよぅ。ほじってみたら、どんどん穴が大きくなるのが面白くてさ」

「夕霧が掘ったの……いったい、どうやって」

「歯の折れた櫛とか簪とか、そういうので少しずつさ。あたし、行燈部屋に住んでるようなもんだからさ」

「あっ」

 もしかして、と烏は息を飲む。

 夕霧の度重なる奇行は、行燈部屋に入れられることで穴をほる時間を稼いでいた……ということなのだろうか。

 ひんやりとした声で、夕霧は囁く。

「逃げよう」

「……逃げる」

 吉原からの足抜けは、客に妙な渾名をつけるどころでは済まない重罪だ。

 毎夜硬く閉ざされる大門も、ぐるりと吉原を取り囲むお歯黒どぶも、遊女がどこにも逃げられぬようにと作られている。

 時折、惚れた男と駆け落ちをしようと足抜けを試みる遊女もいるが、そのほとんどは失敗に終わっている。連れ戻されれば、死ぬような折檻を受けることになる。

 初見世を前に足抜けをしようなんていうことが知れれば、烏もただでは済まないだろう。

「ね、烏ちゃん。あたしはね、男が嫌い。男が憎い。腫らした魔羅でもって、あたしたちをいじめることしか頭にないやつらに、指一本だって触られたくないんだよ」

「うん」

「おとうはね、いつも、おかあを殴って、手篭めにして、それで……それで」

「うん」

「……男は、みんな嫌いなんだよぅ」

 夕霧の声は震えていた。

 売られてくる前の夕霧に、何があったかはわからない。

 けれど、きっと、聞いたら泣いてしまうような痛みの破片が、夕霧の美しい胸の内には突き刺さったままなのだ。粉々になったびぃどろのように、いまも夕霧の鋭く心を切り裂いている。

「ねえ、烏ちゃん。お願いだよぅ、一緒に逃げて。男になんか抱かれたくない、姐さんたちは平気な顔をしているけどさぁ……こんな町も、見世も、大嫌い。夕霧なんて気取った名前も嫌いだよ。烏ちゃんだけが好き。……あたし、もう、自分の名前だって覚えてないんだ」

 すがりついてくる夕霧を、烏はだまって抱きしめた。

 温かい。いい匂いがする。

(ああ、そうだ……あたしは、あの日に決めたじゃないか)

 深くまぶたを閉じれば、脳裏にあの日見た赤いとんぼが飛んでくる。

「……いいよ」

 烏のその言葉に、まるで赤子のようにほにゃりと笑みを浮かべる夕霧。

 指を絡める。

 あの日のように。

 そうして、そっと、口を吸った。

 舌を絡めれば、甘やかな疼きが背筋を駆け抜ける。夕霧の舌から湧いてくるつばは、甘かった。そっと、貝殻みたいな耳たぶを指で愛でると、夕霧は「んっ」と小さく喘いだ。

「……初めて、触らせてくれたねぇ」

「ん、烏ちゃん……案外上手だね」

「案外って何さ。ね、あんたが逃げたいなら、あたしもついていくよ。とんぼを見ながら、約束したでしょう……ずぅっと一緒にいようって」

 繋いだ手の力を、ぎゅうっと強める。

 持ってきていた蝋燭の灯りが、消えた。


***


 その夜から、夕霧の奇行はやんだ。

 やっと身の程を弁えたのか、と意地悪な姉女郎たちは口々に囁き合っていたけれど、そうではない。そうでは、ないのだ。


 それは、誰も知らない夜。

 新年を迎えた吉原の、きんと凍りつくように寒い真夜中。大引けまであとわずかとなったころ結城屋の小汚い行燈部屋に二人の新造が身を寄せ合っていた。

 たおやかな振袖は、脱ぎ捨てた。この日のために手配した男物の着物を尻端折りにして、島田に結った髪を観られぬように手拭で隠す。

「さあ、壁を蹴破るよぅ」

 鳶色の髪の少女が、上擦った声で囁く。

 客をとらされる日がくる前に、ここから逃げ出すのだ。

 烏という源氏名で呼ばれていた少女は、静かに頷いた。

 吉原からの足抜け。一世一代の大勝負。

 姉女郎のおつかいで吉原を歩くたびにふたりで練り上げた、逃走経路を何度も頭に思い描く。

「ね、烏ちゃん、どきどきする」

「うん」

「うまくいくかな」

「うん、きっとうまくいく」

 大丈夫、大丈夫。

 艶やかな黒髪を念入りに隠しながら、そう自分に言い聞かせる。

 そうして、大きく息を吸い込むと、烏はかたわらの少女に声をかけた。

「ねぇ」

「なに、烏ちゃん」

「ここから逃げても、どこに行っても、ずぅっと一緒に居ようね」

「……うん。もちろんさ」

「ん……あたしたち、ふたりなら大丈夫だよね。お鶴ちゃん」

 お鶴ちゃん。

 その名を呼んでやると、夕霧と呼ばれていた少女は息を飲んだ。

 とんぼを見上げながら歩いていた道で聞いた名前。烏は、かつて手を握り合いながら教えて貰ったその名前を、一度だって忘れたことはなかった。

 当人が忘れてしまっても、あの日のとんぼの赤さと一緒に、ずっと覚えていた。

「……ありがとう、お松ちゃん」

 懐かしい名で呼び返されて、お松の胸は震えた。

「ああ。久しぶりに呼ばれた」

「や、鶴に松なんて、あたしたちよっぽど縁起がいいね!」

「うん、そうだね」

 お松は、深く頷いた。

「……壁、破るよ」

 そう。

 ふたりならば、絶対に大丈夫。どこまでだって逃げられる。


 握ったお鶴の指に、びぃどろで切った傷痕を感じる。

 もしこの足抜けが失敗しても、ふたりならば大丈夫だとお松は信じている。

 びぃどろよりも脆くて痛い人生だって、手を取り合っていれば――きっと。

 右足をあげて、すっかり薄くなった壁に狙いを定める。

 この壁が破れたら、大逃走劇のはじまりだ。


「さあ、行こう。お松ちゃん」

「うん、お鶴ちゃん。一緒に行こう」


 さあ、仕置きも折檻も何するものぞ。

 二人ならば、地獄の果てまでも逃げきれるのだ。


【終】

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びぃどろよりも脆くて痛い 蛙田アメコ @Shosetu_kakuyo

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