第5話
翌朝、起床した来は食事も摂らずに家の納戸という納戸を開け、埃被った段ボールやクローゼットの衣服を引っ張り出した。
遅れて起きた若菜が尋常ではない探し方に心配そうに尋ねても、来はちょっと、というだけで全てを答えることはなかった。
彼が探していたのは母の痕跡だった。
母はどうなったのか? 来はその思いに憑りつかれていた。父が死に、電気代や水道代の請求が自分の所へ来たことで、母は既に死んだとばかり思っていた。
しかし、ほんの数カ月前まで父の存在はおろか、実家の場所さえも忘れていた頼りのない記憶だ。母の死の記憶がない以上、母がまだ生きているという可能性は捨てきれない。
家の中を引っ掻き回し、母が暮らしている痕跡を探した。女性ものの衣服はカビの生えた箪笥にしまわれ、もう数十年近く出し入れされた形跡はない。仏壇も確認したが、ズタボロになった衣類が無造作に押し込まれているだけで、他には何もなかった。
家の中を探しつくした来は、朝ご飯を知らせる若菜を無視して家の裏手にあったあの納屋へ歩いていった。
大きな納屋の前で立ち止まり、深呼吸をする。新芽の香りと動物の匂いがした。
ゆっくりと、建物の中に入ると動物の匂いはぐんっと強くなった。持っていたスマホのライトで部屋の中を照らし、来は妙な納得感を覚えた。
散乱したペットボトルや割れた皿。真っ二つにひき破かれた雑誌。前倒しになったテレビの前には、潰れたリモコンが落ちている。
キッチンの方へ進むと、大きな業務用の冷蔵庫が、放り投げられたように床へ転がっていた。
おもむろに冷蔵庫の戸を開くと、強烈な腐敗臭が鼻を突き、来は思わずむせ返った。
口元を隠してライトで照らす。中に黒い大きな塊がいくつも見えた。肉の塊だった。齢80近い老人が食べきれない程の大きさの肉塊が、いくつもあった。
咳き込んで、戸を閉め、来はため息を吐いた。そして、確認するようにして天井にライトを向けた。
スマホのライトでは、天井を照らすことは出来なかった。辛うじて梁がうっすらと見えるだけで、頂点がどこにあるのかは目視出来ない。
そして合点がいった。この建物の言い知れぬ空白感。外観に見合わぬ、空間の広がり。その正体。
この建物には2階がないのだ。本来2階分の高さがある建物が、まるごと吹き抜けになっている。
見上げてみると、異様な高さだった。高い所では、4m以上ある。
家の奥へ進んで行くと、家のサイズに不釣り合いなほど巨大なドアがついていた。
やはり、昨夜観たあの人影は母だったのではないか。そして、この建物は母が居住するために作られた住居なのではないか。
来は昨夜から抱いていた疑問に確信を持ち始めていた。
父は体の大きい母をここに匿い、人目に付かないよう生活させていた。部屋の荒れようや、手つかずの冷蔵庫を見るに、父の介護が必要なほど、母の認知機能は低下していたのだろう。
しかし、その父が死に、世話をしてくれる人がいなくなった母は、飢えと孤独から外の世界を求めた。来の頭には、地面に散乱していたガラス片が浮かんでいた。
当然、疑問は残った。いくら母が大きかったとはいえ、それでもせいぜい2m近くだ。昨夜の人影は優に4mはあった。
納屋を後にした来は昨夜、人影が立ってたい場所を散策してみた。
記憶をたどってみると、確かに昨夜の人影の体高は2mではきかない。母は自分が家を出た後も、身長を伸ばし続けたというのか。成熟した人間がその後も急進的に身長を伸ばす可能性はあるのだろうか。そもそも、人間の肉体はそれほどの巨大化に耐えることが出来るのか。
あらゆる疑問が浮かんだ。しかし、それは母がまだ生きていたという高揚感に比べれば大したことではなかった。
辺りを渉猟していた来は、足元に足跡のようなくぼみを見つけ、思わずほころんだ。地面に這いつくばって、わずかながら沈んだ土をじっと見つめる。
これをたどれば、母に会えるのではないか。フッと来は森の奥へと視線を投げた。
森には朝日が差し込み、遠くまで見渡せた。遥か遠くで木々の枝が揺れ、葉がざわめきを立てる音がする。鳥が、ワッと飛びだった。
それとほぼ同時に、木の間からヌッと人の影が見えた。それは昨夜の人影とは違い、普通の背丈をし、帽子をかぶっていた。
体格から男だと来は思った。男の速度は遅かったが、歩いているわけではなく、むしろ全力で走っているように見えた。
よたよたとどうにか走っていた男は来の姿を見つけたようで、大手を振って叫んだ。
「おーいッ!」
間抜けな仕草と、小動物のような動きとは対照的な、切迫感のある声だった。
森から走り出た男は庭先に倒れ込み、ぜえぜえと息を吐いた。苦しそうな喘鳴を浮かべながら、男は肩から下げていた猟銃を地面に放り投げ、苦しそうに顔をゆがめた。彼の顔にはべったりと汗が浮かんでいた。
「なにが――」
「お、女……女がいた……」
来を遮って男が息を吐く。乾いた唾の匂いが来の元まで漂ってくる。
「女……もしかして、それは大きい、大きな女……」
喘鳴が言葉を遮っている。男は顔をゆがめて咳き込む。その様子がもどかしく、来は思わず男の肩を掴み、大きく揺さぶった。
「大きい、大きい女がいたのか!? どこにいたんだ!?」
男は眉間にしわを寄せ、咳き込みながら頷く。
「大きい、大きい女だ……あ、あぁ……」
男の顔が来の背後を見つめたまま、凝固する。フッと来の視界に影が伸びた。影は自分の頭のはるか向こうまで続いている。
男は腰が抜け、力なく倒れる。
来はゆっくりと、振り返った。
女がそこにいた。
「あ……」
思った通り、大きい。4mと純粋な数字を頭に浮かべるだけでは、想像もましてや体感することも出来ない大きさ。170ある来でも女の膝より少し高いくらいだった。
女は全裸だった。足元や腹に細いひっかき傷が無数につき、太ももから下は泥に塗れてはいたが、その肌は白く、艶やかで肉感がある。
本能的に体が静止していた。無意識のうちに体が手と足が震えている。来はなるべく、首を動かさないようにしてそっと、女の顔を見た。恐怖はあまりなかった。そこにある顔を彼は知っているという自負があったからだ。母。母が家に帰って来たのだ。自然と来の口元がほころんでいく。
しかし、ほころびかけていた彼の表情は途端に硬くなる。
「お、お前は……」
口走った刹那、病院に運ばれていく母の姿がフラッシュバックし、全てを思い出した。
目の前の女。大きいこの女は母ではない。これは……
「俺の子供……」
母と交わったあの夏。母との関係はあの一度きりでは終わらなかった。あの後も、何度も何度も母と交わった。しかし、当然の帰結としてある日、母は妊娠した。父との交渉はもう何年もなかった。胎児の父親が誰であるかは、言わずとも分かっていたはずだった。だが、父は何も言わなかった。
母は堕ろすことはせず、このまま産むと父に伝えた。その時も父は何も答えなかった。
エコーで映し出された子供は、異様な大きさだった。
近親交配が遺伝子の異常を生むのは有名な話だ。程なくして、母の子宮は胎児の大きさに耐え切れず、僅か数カ月で分娩を試みたが、母体への負担は予想をはるかに超えていた。
母は来の子を出産し終えた時には既に死んでいた。
来は理解した。自分が実家を避けていた訳を。記憶から全てを消し去っていた訳を。
目の前にいる大きい女は母ではない。しかし、そうと分かっても絶望も落ち込みもしなかった。どころか、奇妙な高揚感すらある。陶酔の中で、来はもう一度ゆっくり女の体を上から下まで見た。
男の叫び声が、来を陶酔から引きずり出す。
腰が抜けたまま、這いつくばって逃げようとする男に女は気づいた。女の影が来の横を通り抜け、風が髪をなびかせた。
「い、や、や、やめろっ、やめろっ……」
男は抱き上げられ、腕の中でぐぅっと抱きしめられる。
「おごっ、おぶっ」
言葉にならない声と乾いた木が折れるような男がリズムよく鳴り響いた。
妻の悲鳴が聞こえたのはその瞬間だった。
いつの間にか若菜が戸口のところに立っていた。彼女はあの甲高い声で断続的に悲鳴を上げている。
女の顔が若菜の方を向く。
来は足元に落ちてあった猟銃を手に取ると、見よう見まねでコッキングレバーを引き、トリガーに手をかける。銃を構えたのを若菜は見ていた。
「来ッ! 来ぅッ! 殺してッ! この化け物を殺してぇっ!」
来は照準を合わせると、ため息を吐いてトリガーを引いた。
「来ッ! 早くッ! 早――」
銃声が響くのと、若菜の頭が吹き飛ぶのはほぼ同時だった。もうなくなってしまった顔面の慣性に引き寄せられて、体は玄関ドアに激突する。
銃声に驚いた女と来は目が合う。
自分が求めていたのは母という人間ではない。自分が求めていたのは、母性。あの大きな腕の中で大きな胸に顔を埋めてジッとまどろみの中にいるあの安心感。あれを自分は追い求めていたのだ。
「ふっ……」
女の長い腕を見て思わず笑みが漏れた。豊満で張りのある胸に下半身が熱くなってくる。
来はまだ煙の上がる銃を放り投げ、女の元へゆっくりと歩いていく。
「ママ……ママ………………」
母の立像 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339
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