第4話

 リビングでテレビを見ていた来は、母の声でふと顔を上げた。


「来!」

 声は二階から聞こえている。

 返事を返すと

「ちょっと、こっちへ来なさい」

 母はそう呼びつける。


 そろそろと階段を上がり、声のする方に向かって歩く。声は廊下を突きあたった両親の寝室から聞こえてきていた。

 半開きになった寝室のドア。そこから流れ出る風が全身を撫でる。生ぬるい、心地よい風。


 ドアを少し開けて、中に入った来は、絶句した。

 ベッドには、母が寝転がっていた。


 全裸だった。


 半身を越した母は、来の姿を見て

「ふふふ」

 と笑った。

「マ、ママ……」

 胸が橋く脈打って、上手く言葉が出せない。

「おいで」

 母が優しく笑って手招きをしている。良識や自制心が足をとどめているのを知って、母はまた

「ふふふ」

 と笑った。

「大丈夫。お父さんはまだ帰って来ないから」

 風で母の長い髪が揺れる。長くしなやかな腕。白い肌。そして豊満な胸。

「あ……あぁ……」

 唾液が喉の奥に湧出し、気づくと来は母の胸の中に倒れ込んでいた。石鹸の匂いが肺を満たす。母の腕が、胸がぎゅぅっと自分を包み込んでいた。

 固くなった下半身に母の太ももが滑り込んでくる。来はそれがさも当然であるかのように、母に接吻をした。

 そして――


 闇の中、来はむくりと目を覚ました。首筋にはべったりと汗をかいている。深呼吸をすると、少しずつ胸の動悸が納まっていく。

 夢。夢だが、それは夢ではなかった。

 これは、あの夏の夕暮れ、この家で起こった現実だ。他の記憶がいくら抜け落ちていようとも、それは鮮明に思い出すことが出来た。

 あの時自分は母と交わった。母に誘われるがまま、必死に母を求めた。

 固くなった自分の物に手を伸ばすと、べっとり濡れている。夢精していた。

 生唾を飲み込んでため息を吐く。隣で寝ていた若菜が何か寝言を口走って自分に抱き着こうとしてくる。

 来は反射的に、それを避けた。

 そうだ。これだったのだ。来は思う。これが、若菜に感じていた物足りなさの正体だったのだ。自分はずっと前から、母性、あの大きな腕の中で抱きしめられる安心感をずっと、ずっとずっとずっと、求めていたのだ。


 若菜から逃れるようにベッドから降りると、洗面所へ行き、パンツを履き替えた。母の顔が頭から離れない。父親の顔はもう殆ど思い出せないのに。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、来はポーチへ出た。月明かりのおかげで、外は明るかった。

 冷たい風がゆったり吹いている。庭向こうに見える森がその風でわさわさとざわめいている。

 雲が流れ、月を覆い隠す。風がピタリと止んで、辺りに重い闇が降りた。時間が止まってしまったような感覚に陥る。来は無感情にビールを煽り、まんじりともせず庭向こうの森を見つめた。


 喉を缶ビールの心地よい発泡が刺激する。

 闇に眼が慣れ始めて来た時、来は森の中に何かが立っているのに気が付いた。

 木々の間にポツンと何かが立ちすくんでいる。最初は木々の中の一本かと思ったが、それは幹よりも横幅が広く、腕のようなものがぶら下がっている。

 熊か。来はビールを再び口へ運ぶ。

 いや、違う。それは2本の足で直立している。


 人間。

 そう解釈したが、知識が違和感の警鐘を鳴らした。

 それは、人間にしてはあまりに

 周囲に立つ木々の樹冠よりもほんの少し低いくらいで、ぱっと見、4,5mはあろうかと思われた。


 あれは、何だ。

 掴んでいたビールを柵の上に載せ、立ち上がってポーチから身を乗り出した。

 確かにそれはそこにいる。じっとこちらを見据えている。

 足元から意味の分からない恐怖が顔を出しかけた。しかし、それを押しのけるように言葉が漏れ出た。

「マ……マ……?」

 何故そんなことを口走ったのかは分からない。だが、言うや否や来は駆けだしていた。

 同時に人影は身を翻し、森の奥へ走り始めた。

「待ってッ!」

 息を切らせながら闇の中を走る。闇で目視出来ない木の根や岩にけつまずき、来は数十メートルも行かないうちに地面に転げ回った。

 よく見えないが、手と膝が酷く痛む。どこかを切ったのかもしれない。

 再び風が吹き始め、ゆっくりと月が顔を出した。

 森の奥へ視線を投げ、じっと目を凝らしたが既にそこにあの人影はなかった。



 つづく


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