第3話
3日もあれば、片付く。その見通しは、1日目にして早くも陰りが見え始めていた。
家は、ほんの1ヶ月ほど前まで人が住んでいたとは思えない程、汚れ切っていた。至る所に埃と煤が溜まり、蜘蛛やその他の虫、動物がそこら中に住処を作っている。
追い打ちをかけたのが、若菜だった。元々体力がないことは承知していたが、掃き掃除や拭き掃除をさせても、汚れに嫌悪を示し、虫に絶叫する。来は事あるごとに呼びつけられ、作業は遅々として進まなかった。
だがそれも計算の内ではないか。来は箪笥をどかしながら思った。
若菜と結婚したのは十数年前。職場の上司の紹介だった。来よりも10個以上年下で、背が低く童顔の彼女はいつも誰かの助けを必要としていた。無論、それが彼女の魅力でもあった。
確かに容姿は悪くなく、若さを抜きにしても可愛い顔立ちだ。仕草や言動に裏はなく、純真で未熟。可愛い女に甘えられるのが、男の幸せだぞと上司は笑い、来もそれには納得した。
彼女がほんの些細なことで、不安を訴え自分を頼ってくる。その度に父性を覚え、男としての優位性に満足を覚える。
だが。タンスの裏から這い出してきたムカデを箒で押し潰し、来は思う。
最初はそれもよかった。確かに彼女の未熟さ、子供っぽさに庇護欲を掻き立てられた。しかしいつの頃からか、そこに何か埋まることの無い溝を感じた。齢を重ねても、相変わらず未熟で無知な若菜に腹を立てているわけではない。
彼女に頼られるときには、確かに愛を感じる。自分が彼女を助けてあげねばという男の自覚のようなものも感じる。ただ、それで終わりだった。何かが足りない。
言ってしまえば、来は若菜に物足りなさを感じるようになっていた。
「来ぅッ!」
家のどこかで若菜の声がする。来はムカデの死骸を雑巾で拭き取り、ため息を吐いた。
声を探して家の中を歩くと、若菜は二階の納戸の中にいた。細長い納戸にはいくつものダンボールが積み上げられている。
家中に漂うカビの匂いは、ここから発出しているのではないかというほど、強烈だった。
薄暗い部屋の中、床に置かれたキャビネットに腰かけ、若菜は本のようなものを広げて見ていた。
「これ見てよ。来が子供の時の」
彼女の足元には果物の名前が書かれた段ボールが口を広げておかれている。中に入っていたのは、無数のアルバムだった。
何気なく一冊を手に取って広げてみる。パラパラとめくると、幼い自分が泣いている写真があった。自分の後ろにはこの家も映っている。
ここで自分が暮らしていたのはどうやら本当らしい。
「これ、お母さん?」
若菜に手渡されたアルバムを覗き込むと、そこには髪の長い女性が佇んでいる写真があった。女性の腰に幼い自分がしがみついている。
呼吸を一瞬忘れ、来は懐かしさの波に飲まれそうになった。父以上に消し去っていたその姿。それは紛れもなく、来の母親だった。
くっきりとした目鼻立ちと、長い黒髪。そして――
「大きい……」
来は独り言つ。
そう。母は大きかった。来はしみじみと思い出した。自分が子供であったことを鑑みても、母の身長は異様だ。当時で180㎝以上あったのではないだろうか。
ページをめくると、母の写真は他にもいろいろあった。奇妙な感覚だった。それまで、すっぽり抜け落ちていた懐かしさが今になって少しずつ溢れてくる。
「来、もしかしてマザコンだった?」
写真に見とれていると、若菜が覗き込んで言った。
「え?」
「だって、ほら、どの写真も絶対お母さんに抱き着いてる。これなんて、中学生ぐらいじゃないの?」
彼女の指さした写真。そこには制服姿の来が母に抱っこされ、顔を胸元に埋めていた。
長い、大きな両腕が自分を抱きしめている。
来は瞬間、母に呼ばれたような気がして、ハッと顔を上げた。
つづく
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