第2話
「熊が出てるかもしれないから、それだけは気をつけて」
去り際、女性に言われた言葉が頭を過った。
彼女の書てくれた地図はあまりにも簡素だったが、実際それで充分だった。
来た道を戻り、さび付いた赤い鉄橋を渡って道なりに行くと白い洋風の一軒家が見えてきた。
広い敷地の前には「福光」と書かれた表札が立っている。来の実家だった。
やはり、懐かしさは欠片ほども湧かない。
草が生え放題になった敷地に車を乗り入れた来は、新鮮な気持ちで古びたその洋館を見つめた。
目を覚ました若菜は寝ぼけ眼を擦って車から降り、大きく伸びをする。
「おしゃれなお家だね。これが、来の家か」
「らしい」
「なにそれ、覚えてないの?」
「もう数十年前の事だし。ほら、荷物家の中に運ぶの手伝って」
車から降りた来はトランクを開ける。
「えー、私そんな重いもの持てないよ……」
ため息を吐いてスーツケースを両手に持ち、玄関の前に立つ。
市役所の職員から預かっていた鍵で扉を開けると、埃とすえた臭いが噴き出してきた。
来は思わず顔を背け、若菜はわざとらしく咳き込んだ。
「ハウスダストやばそう……」
来は返答もせず、家の中に足を踏み入れた。
家の中は薄暗かった。白かったはずの壁の至る所に、カビとも汚れともつかない黒ずみが浮き出し、廊下の隅には拳ほどの埃が一塊になってたまっていた。
玄関ホールに垂れ下がったシャンデリア風の照明器具には蜘蛛がべったりと巣を張っている。
リビングに荷物を降ろし、荷解きを若菜に任せ、来はとりあえず家の中を見て回ることにした。
室内の空気は淀んで、滞留していた。
家の中は本や日用雑貨、その他服や食器が何の脈略や体系性もなく乱雑に放置され、晩年の父が片付けや掃除すらもままならない状態であったことを伺わせた。
荒れた部屋を見て回っていた来は、突然異様に整頓された部屋に出くわして、息をのんだ。
部屋の隅の方に黒ずんだ染みのようなものが見える。
ここで、父が死んだのだ。埃とカビの中に混じった卵のような臭い。その正体が分かったかのような気がして、来は家中の窓という窓を開け始めた。
冷たく乾いた外気が流れ込み、来はホッとその場で深呼吸する。
「どう? なんか思い出した?」
深呼吸をしていると、廊下に若菜が立っていた。
来は黙って首を振った。
彼女に言われても、何も覚えていない。部屋の間取りや、どこが自分の子供部屋だったのかさえ、思い出すことが出来ない。
「中学まで、ここに住んでたんでしょ? なのになんで?」
自分でも疑問だった。時間の隔たりが、記憶に靄をかけてしまう事はある。だが、これとは少し違っているような気がした。記憶を紡ぐはずの過去の光景や懐かしいものを目にしても、思い出すことはない。忘れているというよりも、まるでそこだけ切り取ってしまったような感覚だった。
「例えば、さ。ここで、ものすごい怖いことがあったとか?」
「え?」
若菜はニヤッと笑った。
「ほら、よく言うじゃん。トラウマを忘れるために脳が記憶を消す、みたいな……」
「トラウマ……」
来の考え込んだ表情があまりにも真剣だったせいか、若菜は咄嗟に弁解する。
「ちょ、冗談だよ? 冗談」
「いや、大丈夫」
日が傾き始め、来はポーチでしゃがみ込み、ぼんやりと庭先を眺めた。どうして記憶を失っているのか、ここで何があったのか、何も思い出すことが出来ない。
一体何があったのか。過去を失ったことにさほどの喪失感はなかったが、何とも言えない哀しさはあった。
思い立って、来は家の周りを散策してみた。中になければ外に、何か取っ掛かりが見つかるかもしれない。
家の裏手に回ると、大きな納屋が目に入った。最初は農機具をいれるようなあばら家だと思っていたが、案外しっかりした作りだった。別の家だと言われても不思議ではないが、それは敷地の中にあった。
木造の躯体に、漆喰の壁。別棟と言っていいほど、作りもしっかりとしている。
もちろん、こんな建物があったことも記憶にはない。
ぐるり、建物の周りを一周していると、スニーカーが何かを踏んで嫌な音を立てた。
ガラス片だった。細かいガラス片がそこら中に飛び散っている。
見ると、大きな窓が割れ、黒ずんだカーテンが風に靡いていた。
フッとそこに顔を入れ、中を覗いた。室内は真っ暗で、窓から差し込む僅かな光だけがほんの少し中を照らしている。
ひんやりとした空気が中に満ちていた。闇は濃く、天井も見えない。まるで、この闇がどこまでも果てしなく高くそびえたっているような感覚に襲われ、来は鳥肌が立つ。
闇の中から、微かに動物の強い匂いが漂ってくる。
熊か?――
目を凝らすと部屋の中にはいろいろなものが荒らされたように散乱している。
スマホを取り出し、ライトを付けようとしたその時、
「来ぅッ! ちょっと、虫ッ、虫がいるッ!! 助けて!!」
母屋から若菜の叫び声が聞こえた。
来はため息を吐き、建物を離れた。
つづく
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