母の立像

諸星モヨヨ

第1話

 父が1人で腐っていた。


 市役所の職員が福光ふくみつ きたるに伝えたことを端的に纏めればそういう事になる。

 役所からの電話に出ない事を訝しみ、自宅を訪れた職員が玄関をこじ開けた時には既に、かつて父だったそれは黄色と赤黒い汁を滴らせる大きな肉の塊になっていたという。


 孤独死。取り立てて珍しいわけではない。

 大都会の、それも団地のような集合住宅でさえも日々老人たちが誰に気づかれることもなく死んで行っているのだ。人里離れた山奥に1人で暮らす老爺が人知れず死んでいても、何も不思議ではない。


 来自身も、知らせを聞いて「ああそういえば自分にも父親がいたのだ」と気が付いたほどだった。生前、父との交流はまるでなかった。家を出て、東京の大学に進学し、そのまま東京で就職。最初の頃はまだ、手紙や電話をしていたような気もするが、この20年近く、帰省はおろか、電話の一つも入れたことがない。


 家族と仲が悪かったのだろうか? 最早それすら分からない程、来の頭の中からは実家、もとい家族の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 十数年前に結婚した時も、両親を結婚式に呼ぶことはなかったし、妻を実家に招いたこともない。


 家族、その存在が来の中から消えてしまっていた。


 そのせいだ。枯葉の積る山道を車で走りながら、来は思った。

 父の葬儀は市役所で儀礼的に執り行ってもらったが、事後報告の電話をかけてきた職員は釘を刺すように、家を放置しないよう忠告した。

 管理するつもりなど毛頭ないし、今すぐにでも手放したい。しかし、誰かに売ってしまうにせよ、家を整理しておく必要があった。

 実家のある、ゐ尾市蓮見谷はすみだには山の中腹。ネットで軽く住所を調べただけだったが、実家に近づくにつれ、記憶が蘇って来るだろうと来は踏んでいた。


 が、それが間違いの元だった。

 地元だというのに、行けども行けども記憶は何も訴えかけてこない。家族、そして、実家にまつわる全ての記憶が来にはなかった。

 カーブを曲がった来は、行きがけの道の駅で買ったゐ尾市の地図のことを思い出した。

若菜わかな、さっき買った地図、見てもらえないかな? 若菜?」

 助手席に座っている妻の若菜に声を掛け、一瞥する。妻はヘッドシートに首を預け、眠りこけていた。

「若菜、若菜っ、」

 驚いた若菜がビクッと飛び起きて、辺りを見回す。

「な、なに? もう着いた?」

欠伸を交えて呟く若菜。

「いや、地図を見て欲しいんだ。さっきドライブインで買ったやつ」

「えーでも、私地図なんか読めないよ……」

 若菜は眉をしかめて明らかな不快感を示す。

「じゃあ、スマホで見れないか? 住所を入れて検索するぐらいは出来るだろ?」

 若菜は唇を尖らせ、大きい兎のカバーの掛かったスマートフォンを弄った。

「だめ。スマホは圏外」


 大きくため息を吐いて、来は車を路肩に駐車した。車から降りて、ボンネットに寄り掛かり地図を広げてみたが、左程あてにはならなかった。

 錆びついたガードレール越しに山の向こうを眺める。懐かしさは未だに蘇ってこなかった。本当にここで暮らしていたのだろうか?

 もうこのまま、引き返そう。そんな思いが頭を過った時、山の向こうにフッと人影を見た。

 木々の間に揺れる黒い影はゆらゆらと木々の間を歩いている。

 あんなところに人がいるのか、少しの間見つめた後、来はため息を吐いて車へ引き返した。


 森に背を向け、数歩歩いた時、ふと思った。

 これほど離れていても、人の姿はあそこまではっきり見えるものだろうか。

 いわれのない寒気を感じ、振り返って再び森を見た。しかし先程まであった人影はもうどこにもなかった。

 あれは何だったのか。目を凝らして森を見つめるうち、道の先に数軒、家が密集しているのを見つけた。


「ああ。蓮見谷なら、もっと上の方だよ。行きがけに橋があったでしょ? あれを超えてずっと奥に入っていくんだよ」

 道を尋ねるために立ち寄った家から、出て来た中年の女性は、特に嫌がる様子もなく道を教えてくれた。玄関前で軽く話をするだけのつもりだったが、あれよあれよという間に玄関口に招かれ、上がり框にお茶を出してもらった。

「昔は標識が出てんだけどねぇ…… あのあたりももう殆ど人が住んでいないでしょ? 確かおじいさんが一人だけ住んでたと思うんだけど……」

「福光、ですか」

「そう、福光さん、福光さん」

 女性はチラシの裏に簡単な地図を書きながら、仰々しく点頭した。

「もしか、あなた、福光さんの?」

 フッと顔を上げて驚いたように顔を向ける。

「ええ、はい。息子です」

「えっ、来君?」

 自分の名前が出た瞬間、来は奇妙な安堵を覚えた。やはり自分はここで生まれ育ったのだ、その確信がそれまで感じていた微かな疎外感を打ち消してくれた。


「覚えて……ないよねぇ。昔、何回か家にお邪魔したこともあったんだけど」

 来は謝意を伝えて頭を下げた。

「まあ、そうだよね。もう何十年も昔だし。ご両親はお元気?」

「いえ、それが……」

 言いかけた時、ガラガラと玄関の引き戸が開かれる音がした。

 反射的に振り返った来は身を硬直させた。そこには血まみれの男が立っていた。言葉を失っていると、背後で女性が叫んだ。

「何があったの!?」

「熊、熊や! 葛目くずめさんがやられた」

 男は息も絶え絶えに叫ぶ。血は老人から流れ出たものではなく、付着したもののようだった。

 その時になってやっと、来は足元にもう一人、人間が倒れていることに気が付いた。

 ―― 医学的な知識のない来でもすぐに分かった。

 首と背骨があり得ない方向にひん曲がり、首元からは折れた骨が突き出している。カッと見開かれたその目に見つめられないよう、来は途端に視線を避けた。



 つづく




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