ヨリシロガミと神凪の海




 秋風が、涼やかに青い空を泳いでいった。

 真夜中の大潮から明けた朝は、穏やかに晴れ渡っていた。あたりはもう明るいが、船着き場に賑わいはない。壊れた鳥居とひび割れた地面の復旧が入るまでは、安全のため、立ち入りを禁止したからだ。


 だから、早朝のしんと澄んだ静けさが、アタラの周りを満たしていた。たまに耳元をくすぐるのは、銀の髪をからめて吹き去る風の音のみ。その心地よさに目を細めながら、アタラはひとり、鉄門の上に座していた。


 彼の目には深く、蒼く水を湛える海が見える。今日は遠く彼方に、淡見島あわみしま――未草島みくさとうも見える。それはおそらく、かつて神が見た風景。海を奪われる前の世界に近しいのだろう。陽の光煌めく紺碧の水面は美しく揺れ、遠く空と溶け合う彼方に、ぼんやりと浮かぶ島影が幻想的だ。

 もしこれが、本来の海の姿であったというのなら、ヨモツオニが焦がれて奪ったのも納得してしまう。艶やかで滑らかな、瑠璃の敷物のようだ。


 八百年前から、この景色だけは変わらない。けれど、八百年前から変わらないのはそれだけでもあった。ここで生きたのは確かなのに、アタラの記憶と重なるのは、この風景と鏡ヶ湖ぐらいだ。


(八百年も経てば、そりゃ、移ろうか……)

 いまだ思い出のうちに、朧な部分があるためだけではないだろう。物事は移ろうのだ。変わらなかったものが他にあったとすれば、ヨリシロガミとなったアタラ自身と――


「アタラ。そんなところでなにをしてる?」

 低く凛然とした声が下からかかった。アタラはちらりと、海からそちらへ視線を下ろす。


 彼を見上げるは、海と同じ紺碧の瞳。いつかとその色は変わっても、アタラを見つめ続ける変わらぬ双眸――。朝も早いというのにしっかりと着込まれている黒い軍服が、海風に翻っていた。さらりと短い射干玉の髪も、しっかり櫛が通された様だ。ただ、その右腕がいつもと違った。骨をやられたので、白い布で吊られている。


「怪我人は休んでろよ」

「お前もな」


 見た目はすっかり元の有様だが、アタラも穿たれた傷が完全に癒えきっているわけではない。鏡一郎が渋く睨みつけてくるのも致し方ないだろう。

 アタラはその顔に、面倒くさげにそっぽを向いた。が、代わりにするりと長く伸びた銀色の髪が、鏡一郎に絡まって、彼を隣まで引っ張り上げる。


「で、なにしてたんだ?」

「俺が眠ってるはずの島を見てた」

 至極当然とばかりに、そのまま隣へ腰を下ろした鏡一郎へ、そっけなくアタラは返した。鏡一郎の瞳もまた、アタラの方ではなく、島影と海を見つめていた。


 静寂をよぎりゆく風の音が、銀の髪を青い空になびかせる。菫色の奥に、未草島を映しとったまま、やがてぽつりと、アタラが口を開いた。

「……――ねぇ、鏡一郎。君、あとどれぐらい生きられるの?」


 彼がカガミであった時に己にかけたのは、呪いだ。霊力を来世に持ち越せる代わりに、短命に終わる。それは今生の鏡一郎も、変わらぬ効力で縛っている。


「三十を超えたことはないな」

「じゃあ、もう数年もしたら、俺は今度こそ本当にあそこでまた眠るかな。俺が君を喰うより、君がいなくなる方が早そうだ」

 淡々とした答えに、同じくさした感慨もない風でアタラが紡ぐ。


「ちゃんと次も見つけに来いよ。それとも、もう俺に会えたから、呪いを解いて長生きする? そうしたら、俺が喰ってしまうかもしれないけど」

 にやりと、その気もないのに意地悪げに、菫色の視線が流された。彼の呪いを赤く抱いた瞳が、その視線を受け止める。


「前に言っただろう。呪いはいずれ、返上すると」

 思いのほか真摯な音色で、低い声は言った。

「俺はただの神凪じゃない。八百年、お前のためだけに在り続けた神凪だ。呪いに容易く喰われなどするものか。それに――」

 相変わらず随分な自信だとアタラが揶揄する前に、静かな言葉の圧がそれを制した。

「お前の呪いを、他にくれてやる気もない。来世の俺にもだ。また探し出すのも、面倒だろう」


「七代もしつこく探しておいて、いまさら面倒がるなよ。じゃ、どうする気だよ。俺も他のヨリシロガミと同じように、ずっと封印されて眠っておけって?」

 重いのか怠惰なのか分からない言い分に、アタラが苦い顔をした。つまりそれは、鏡一郎のあとは、たとえ彼の生まれ変わりであっても主を持たないということで、期せずして、アタラが最初に眠りについた理由と同じことにはなるのだが――鏡一郎は、それも違うと首をふった。


「眠り続けるのも、苦しいんだろう? そもそもお前、ずっと苦痛を抱えたヨリシロガミで在り続けるつもりか?」

「在り続けるもなにも、そうでしか在れない。壊れて誰かのガワを喰らうまではね。いや……喰らっても、苦しいのも、ヨリシロガミなのも変わらないのかな。そこはちょっと、分からないけど」


「じゃあ、もし、ヨリシロガミでなくなる方法があったら、試してみるか?」

 瞬く菫色の双眸に、静謐な青は、また海の彼方を見つめた。

「八百年前とずいぶん変わっただろう? 海の向こうにはきっと知らないものが、まだたくさんある。それでまた、変わっていく」


 この地の風景も、ここに来るまでにアタラが乗った汽車も、その前に見た皇都の街並みも――みな時とともに移ろい、そして、鳥船とりふねが海の向こうから持ち込んだもので、変わってきた。


「カガミはこの国のうちで術を集め、来世に霊力を託す方法を見つけたが、俺も、似た真似をしてならないわけはないだろう」

 青い瞳はその目にだけ見る海を見つめながら、静かに続けた。

「海の向こう、どこかでお前をヨリシロガミじゃなくする方法も、あるかもしれない。もしそれが見つかったら――お前は、試すか?」


 少し、最後の問いかけには迷いが揺れた。彼が、どんな思いと覚悟でヨリシロガミとなったかは、完全には知らない。分からない。けれどある程度は察せられている。それを、手離してはどうかと問うのだから、仕方もないだろう。


 それにもしかしたらその道は、ヨリシロガミとしての苦痛から、開放されるものかもしれないが、同時にアタラの終わりを示すものになるのかもしれないのだ。

 苦痛とともに、彼の意識も、存在も、消えてなくなる――そういう、死を与えるような方法かもしれない。


 だから、試してみようとは誘えなかった。けれど――海を見つめたままの鏡一郎の耳元に、軽やかな笑い声が響いてきた。くすくすと、小さく梢がそよぐようだったその笑い声は、次第に大きくなり、大口を開けてアタラは笑っていた。


「明確な目算もないのに壮大だな。遠大な未来過ぎて、ヨモツオニも笑うよ。でも、そうだな……また眠って、八百年も君を待つより、いま鏡一郎とその不確かな方法を見つけて試す方が、面白そうだ」


 振り向いた鏡一郎の頬に、アタラは指先を伸ばした。そのまま手の先で、そっと触れる。やはりそれは――あたたかかった。

 眠りながらそれを抱くより、こうして触れた方が心地いい。他のカミがみな厭う、彼の不味い霊力を食べた方が、ほっこりと腹が満ちる。それがわかってしまったいまは、また次の彼ではない彼を待って、八百年眠るのは、少々物足りなく、退屈に思えた。


「海の向こうね。いいんじゃないの? それでもし、俺が消えていなくなることになったとしても、本来、とうにそうなってるはずの死人なわけだし。あるべき様に戻るだけだ。それにもし、そうやって、正しい命の流れに戻れたなら――俺も来世ってのが望めるかもしれないからね。そこで覚えてたら、君を探してやってもいい」

 にやにやと笑いながら、「さすがに《海境うみざかい》までは、行ってやらないけどね」と付け足す。その笑みに、鏡一郎も少し意地悪く口端を引き上げた。


「お前、その時の俺は、この来世へ繰り越す呪いを解いてるわけだからな? お前のことをこれ以上、覚えてやっていると思うなよ。探しだした時に相手にされなくても、泣き言を言うなよ」


「七度生きても俺を忘れずにいておいて、いまさらそんな生意気を言うガキは、はっ倒して思い出させてやるよ。覚悟しとけ」

 触れていた頬を軽くはたくようにして手を離す。挑発を溶かして細められる菫色の瞳は、言葉のわりにずいぶんと楽しそうだった。


「ここの鳥船が出来たら、君と一緒に、この海を渡り飛んでやるよ。――俺は君のアタラ。君は俺の主だからね。鏡一郎」

 海の音のさざめきをのせて、秋風がまた銀色の髪を攫う。いつか蒼い月明かりのうろで聞いたのと同じ言葉。けれどまるで違う響きとともに、菫の瞳が鏡一郎の紺碧の瞳を見つめ上げた。


 いつかヨリシロガミと神凪が目指す海の彼方――。彼らの目にだけ映るその水面の向こうが、淡く蒼く煌めいていた。









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