アタラ



 自分の似姿が鏡一郎に切って捨てられたのを見届けて、ほどけ、空を滑った長い銀糸がふわりとなびく。そのままその髪は、次々と降り注ぐ刃の鞭を弾き、防ぎ止めて、空を縫った。


 その斬撃の合間に、勢いよく薙いだアタラのひと振りを、同じ大太刀が受け止める。切り結び合う剣劇のさなかで、相変わらずの穏やかな声がアタラの耳元をくすぐった。


「よそ見をできるとは、余裕があるな」

「あんたが本当に兄上だったら、こうはいかなかったかもね」

 忌々しいほど似ている微笑みを、菫色の双眸は睨み上げる。


 ふたりが動くたびに波立つ、大地に溢れた海の水。それが、蒼い月光を乱反射して、あたりを照らし出していた。

 背から広がる刃の翼で、異形の姿を隠しもしていないのに、その焦がれた面ざしに胸が痛み疼くのが気に入らない。


(女々しいな)

 舌打ちがこぼれたのは、まるで隙を見せない太刀筋のせいではない。


(捧げきらせてもらっただろう。諦めろよ)

 生も死も、兄の手の内に渡した。それは決して、特別にはならなかったが、受け取られなかったわけではない。それなのに、いつまでも兄の与えた痛みと嘆きを手放しきれず、傷を撫ぜる――己の不甲斐なさに腹が立った。


 焦がれる気持ちは、蘇る記憶とともに、鮮やかな手触りを取り戻してきている。もし、こんな偽物ではなく、真実兄が眼前に現れたなら、かつてと同じようにどうしよもなく――振り仰いでしまうだろう。


(でも、いまは――)

 隣になにがあるか――誰がいるかも、見落とさずにいたいのだ。


 だから、こんな紛いもの相手に胸を痛める繊細さなど、無用でしかない。叩き壊してしかるべきだ。

 大太刀に込める力を強める。相手の刃を撥ねのけて振り抜かれた、真珠色の軌跡。そこから、視界を眩く乱して、閃光が迸った。無数の白刃が流れ落ちるかのように、それはヨモツオニ目がけて空を滑る。


 が、そこに込められた威力をものともせずに、しなる刃が光の刃を砕き破った。と同時に、泳ぐようにあたりに伸び広がっていた刃が、その背にぎゅっと寄せ集められる。赤黒い刃の固まりは、より大きく、いっそう禍々しく、翼のように膨れ上がった。

 その――瞬間だ。


 先までは背と結びつき、鞭のように風を切っていた刃が、瞬時に形を変えた。羽根のように短く飛び散り月夜を裂き、吹き荒れる豪雨となって、鋭くあたりへ降り注ぐ。


 眼前が、赤黒い血煙に霞むようだ。その身を貫こうと飛び交い来た赤い羽根の刃を、アタラは返す刀身で弾き防いで切り落とした。その薄い羽根の一枚一枚が、先の大太刀のひと振りより、はるかに重く、硬い。


 いつしか足首まで飲むほど溢れていた海水を波立たせ、飛沫をあげて、羽根はその海水が覆う地面ごと抉り、罅割れさせる。その衝撃で、水面はおろか、足元までもが揺れ動いた。


 ところかまわず吹き荒れる刃の猛威は、遠く隔てて戦う文太もんた巳代次みよじ、その背後の蔵や町を守ってそびえる結界にすら、一気に亀裂を入れていく。


 憎らしげに舌を打ち鳴らした鏡一郎が、印を切って補強を試みる。格段の力を込めて強固に編み上げたというのに、羽根のたったひとひらで規格外の破壊力だ。

 結界をより強靭に作り直してなお、そこに際限なく、刃の驟雨しゅううは降り注ぐ。


 いま展開されている鏡一郎の結界は、ほぼ船着き場すべてを覆い尽くす広大なものだ。それを、強度を引き上げたままいつまでも保ち続けるのは、彼の溜め込んだ霊力を持ってしても、なかなかに苦しい。急激な霊力の大量消費は、身体にかける負荷が大きいのだ。


 苦痛の色に、鏡一郎の顔がしかめられた。ちりりと熱された意識に、一瞬目の前が眩み、堪らず追った膝が、波打つ潮水に冷たく濡れる。


 そこへ、アタラの手元、真珠の大太刀が一閃、ひるがえった。長い着物の袂が潮風にはためく。


 赤黒い羽根に覆われた空間を切り裂く、真白の太刀筋。そこから雷のごとくあたり一帯に駆け抜けた光が、羽根の刃を断ち切り、貫き、焦がし落とした。

 一瞬で洗われた空間に、蒼い月明かりに照らされた銀糸の髪が躍る。


 かすか乱れた呼吸とともに、菫の瞳が、兄の似姿を睨み据えた。その視線の先で――ヨモツオニの唇が、月下に薄暗く微笑んだ。

 とたんに。


 アタラの足元の海面がざわめき、そこから槍の穂先のような赤い刃が、唸りをあげてせり上がってきた。

 鏡一郎の結界がなければ、あたりを破壊しつくしていたであろう羽根の刃ですら、囮。無数に絡み合いながら、木の枝のように伸びあがってきた切っ先は、大太刀を飛ばし消し、アタラの肩を、腹を、穿ち抜き、突き刺した。


「周りに気を遣い過ぎたな、スイレン」

 見上げる紺碧の瞳を、流れる血潮にぼやける視界で見下ろす。刃先がこめかみをかすめたせいだ。出血がひどい。だが、頭を貫かれるのはぎりぎり免れたのだから、上出来だろう。


 あの羽根の嵐を一息におさめるのに、瞬間的にナレノハテの力を使い過ぎた。ナレノハテの性質も、大方は神凪の霊力と同じだ。使い込みをし過ぎれば、身体の方に不具合が生じる。


 ゆえに、かすかだが、あの羽根のせいで息を乱した。その隙を突かれたのだ。それにしては、頭も、首も、心の臓も、なんとか避けきるよう身をよじれた。他はずたずたのうえ、串刺しのまま宙ぶらりんと、情けないことこの上ないが。


「致命傷を上手く避けたのは、さすがだな。しかし、苦しいは、苦しいだろう?」

 柔らかな笑みが首を傾げた、瞬間。アタラの身体中を貫いた枝状の刃が、ぐるりとその内を抉るように蠢いた。思わず苦悶の叫びが喉を突く。こぼれた鮮血が、どくどくと刃を伝って、赤く水面のうちに流れ落ちた。


「お前が苦しむのは、私も辛い」

 兄が紡ぎそうな言葉を、兄ならば与えない状況で、ぬけぬけと口にする。いい様に声をあげたことが腹立たしくて、アタラは忌々しげに舌打ちをして唇を引き結んだ。


 鏡一郎は、あの猛攻をしのぐ結界を守りきった直後だ。霊力消費の反動で、すぐさま動けないだろう。援護がただちに及ばないのも見越したうえかと思うと、手のひらで踊らされたようで気に入らない。


「スイレン」

 それなのに――ここまで違うと思い知っているのに、その声に、その面ざしに、なおぎゅっと胸を掴まれる己が、なにより苛立たしかった。


「スイレン。いつかと同じように、私の傍らにあればいい」

 呼びかける、懐かしい穏やかな声音に、菫色の瞳が瞠られる。

「お前は私の弟。兄と弟――ともに並び立ってこそ、だっただろう?」

 遠い日と同じ声音は、同じ紺碧を宿す眼差しは、そう、アタラを見つめ上げた。


「――……分かったよ」

 ぽつりと、アタラは囁いた。血に濡れた口端が、薄く、引き上がる。

「俺がどれだけいくじなしの甘ったれだったかってのが、よく、分かった」

 言い放ち、笑う。


 なんという甘言だろう。都合がいいにもほどがある。

 ヨモツオニは、死人を騙る。それが、もう届かないダレカに乞い願った、叶わぬ想いを盗みとった姿なのだとしたら、こんな特別を差し出そうとしてくれる兄を象られるなど、諦めが悪いにもほどがある。


「兄上、あなたは――そうではなかっただろう?」

 そうではないからこそ、きっと焦がれた。だからこそ、焦がれて、尽くして、費やして――ヨリシロガミとして八百年を眠り続けた。けれど、兄ではない声に――あの夜のぬくもりに、応えて起きた時点で、一区切りつけるべき妄念なのだ。

 もう彼は、スイレンではない道を、選んだのだから。


「アタラ!」

 叫ぶ声が、凛と鼓膜を震わせる。染みとおる、その低い声音、その名前。――あの蒼月の夜、彼がアタラへと与えた名。


「分かっているよ、鏡一郎!」

 彼が呼べば、自分は応えると、誓ったから。

 兄への妄執の影とは、どうしたって、ここでけりをつけなければならない。


 心地よくあたたかな霊力が、急速に注がれる。それが腹を満たして舌先をくすぐるのに合わせて、アタラの身が青白い光を帯びた。長くそよぎ伸びた銀糸の髪が、彼を貫き縛めていた刃の枝を鋭く切り裂く。


 ばしゃりと勢いよく水飛沫をあげ、地に足を着いたそばから、アタラは立ち上がり、駆けだした。穿たれた傷痕は、青く揺らめく霊力に、早くも塞がりかけている。

 手の内に再び姿を結んだ大太刀を振りかぶり、アタラはヨモツオニへと斬りかかった。音高く、刀身同士が爆ぜるような光を散らしてぶつかりあう。


 思いもかけなかったとでもいうように、眉をしかめる兄のような顔へ、アタラは笑って言ってやった。

「俺は兄上と違って凡夫だから――贔屓をしたく、なるんだよ」

 特別に、応えたくなる。八百年を支えてくれた、あのぬくもりに、報いたくなる。


「他の主を選ぶのか、スイレン」

「まだその名で呼ぶとは、しつこいな」

 剣劇の合間、そう問う声は不快げだ。兄からはついぞ聞いたこともない音色に、アタラはおかしそうに口元へ笑みをひいた。

「その名を使うのなら、そう名付けられた理由も、もちろん知ってるんだろうね?」


 振り抜いた勢いそのままに、大太刀ごとヨモツオニの身体を弾き飛ばす。

 宙へと吹き飛ばされたヨモツオニが、苦々しげに体勢を整え直し、着地したその瞬間。


 アタラは手にした、真白の光帯びた大太刀を、深々と水面のうちへと突き立てた。真珠色の切っ先から輝きが落とされたかのように、白い光が突き立てた水の内に灯る。


「開け、水面みなもの花」

 整った唇から、涼やかな声音がこぼれ、ささやいた。

 とたんに――


 蒼い月明かりにさざ波だつ海の水が、底からわきたつ淡く白い光に包まれた。その光にいざなわれるように、海の上に咲かないはずの花が、次々と花開いていく。艶やかな白い花べんを幾重も重ねた、清廉な美しい花――。


 眩くも穏やかな輝きに満ちた光景。ヨモツオニが驚きあたりを見渡す暇もなく、そこに、静かにアタラの声が響きわたった。

「――水底に、眠れ」


 そよりと清らかな花べんが、風もなく揺れ、いっせいに舞い飛んであたりに散る。

 本来ならば散るを見せぬその花びらは、白く可憐に、泳ぐように空を飛び交い、ヨモツオニへと注ぎ落ちた。


 たおやかに見えた、そのひとひら、ひとひらすべてが、鋭い白刃となって、ヨモツオニを切り裂いていく。防ごうと背から蠢き伸びたしなる鞭の刃も切り落とし、叩き落そうする大太刀にすら弾かれず、花の吹雪はその身を砕いた。


 首が飛ばされ、千切れ飛んだ腕が、人の見た目を保ちきれず赤く膨れた肉塊へと戻ってゆく。その胴が、足が、同じく赤黒い肉片としてばらばらになるも、吹き上がるはずの体液すら飲み込んで、白い花は、切り刻み散った残骸を包み込んだ。


 そのまま、まるでつぼみのように膨らんで、あたりに満ちる水面へと、役目を終えたとばかりに落ちていく。

 淡く白い輝きを残して。最後まで、清廉な美しさを灯したままに――。


「スイ、レン」

 呻くような呼びかけが、弱々しくかかる。白い花べんのうちに、包まれ、飲まれそうになりながら、紺碧の瞳がぎょろりと動いた。

 もう似ても似つかぬ姿でなお、ヨモツオニはいつかの名を縋るように繰り返した。


「スイレ、私の、伴神……」

「悪いね」

 肩をすくめる。すげない拒絶。しかしそれを見届ける間もなく、花べんは鮮やかにつぼみとなって、ヨモツオニを閉じ込め、水底へ滑るように落ちていった。


 だから、この先は、もうあの幻影に聞こえはしない。そうと分かりながらも、手向けるようにアタラは微笑み、続きを告げた。

「いまの俺の主は鏡一郎。俺の名は――アタラだ」





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