鏡一郎



 月明かりに、軍刀を抜き放つ。ピタリと目の前の、己が伴神ばんしんとよく似た男にきっさきを合わせ、鏡一郎は背にいるアタラへ呼びかけた。

「アタラ、お前は本体を叩け。俺は腕で手いっぱいだ」

「せいぜい、そのいい男に誑かされないようにしろよ」

「どの口が言う」

 強気な語勢に、鏡一郎の口端は薄く笑みをひいた。


 アタラと対峙するヨモツオニの両腕は、早くも傷の痕すらなく蘇り、涼しげに大太刀を手にしている。鏡一郎の目の前の彼もそうだ。とても斬り飛ばされた腕から産み落とされたとは思えない、懐かしい姿で微笑んでいた。


 死者を、もう会えぬダレカの姿だとするのなら――確かに、相対する彼はそうなのだろう。ヨリシロガミとなった時、二の君としての肉体は消え果てた。もう、その姿の彼は、どこにもいない。

 可惜夜アタラヨに、彼の背をたたいた手のひらはもうないのだ。けれど――


 背後の気配に、鏡一郎は地を蹴った。時同じくして、その気配も、己が相手へと刃を振りかぶっていったのに薄く微笑む。

 巡り会ったのだ。己は、彼に。七度のうちで唯一、探し出した。カガミの悲嘆は、もういらない。


「『立派になった』か」

 響きわたる剣戟の音。己と太刀を合わせる記憶の中でしか知らない姿に、独りごつようにささやく。

前世の俺カガミは、二の君おまえに、そう言って欲しかったのだろうな」


 ヨモツオニが騙る死者の姿が、遠く彼岸に残した未練を映しとったモノならば、鏡一郎の前世の切望は、ずいぶんとしぶといものだ。七度生まれ変わっても、己が人生を縛めるだけはある。


 戻ってきてほしかった。もう一度、会いたかった。

 ――届かぬ場所へ、置いて逝かないでほしかった。


 遠く、遠く、七度を繰り返すに至った幼い願いが、あの日のままの姿を前に、胸の奥底で悲鳴を上げているようだ。軍刀を握る掌が痺れるのは、大太刀の重たい斬撃を受け止めているからか、己が内側から突き上げる、積み重ね凝らせた憧憬のせいなのか、判別がつかない。


(どちらにせよ、情けないことだな)

 歯を食いしばり、軽々と振り下ろされる真珠の刃を、鏡一郎は撥ね上げた。


 人型のヨモツオニとはいえ、目の前にいるのはその破片。たかが両腕の肉片から産み出された分裂体だというのに、一太刀、一太刀の衝撃に、受ける全身の骨が砕けそうだ。これで神凪寮かんなぎりょう内で、ヨモツオニと渡り合えると評されていとは笑わせる。


 それにもし、この身の痛みが、過去、断ち切りきれなかった哀惜からきているのなら。再会を願い縋る、幼心がもたらすものなのだとしたら――


(愚かしいことこの上ないな、カガミ。お前の求める相手は、もう、見つけただろうが)

 カガミがもう一度と、夜を惜しんだ、あの時のままの彼ではない。けれど間違いなく、こんな目の前の紛いものを、アタラより慕わしく思うなど、どうかしている。


 蒼い月明かりに濡れる、長い黒髪も鮮やかに、悠々とした微笑みが白刃を閃かせた。切れ長な青い瞳は楽しげな色を宿し、鏡一郎を映しとる。だがどこか、張り付けたように空虚だ。この男は、こういう風にお前には見えたのだろうと――見透かすようなあざとさが、隠せていない。


 あの夜、彼の生涯を――その先の人生すらも、捕えて呪った、息飲む美しさには遠く及ばない。


 身体の芯まで揺さぶる、ひときわ重い一撃を、鏡一郎はかろうじて受け止めた。腕に、先までと違う痛みが雷撃のように走る。利き腕の骨を、やられた。

 痛みが腕から脳を貫くように迸り、柄を握る手から力が抜けかける。そこにさらに圧し掛かってきた太刀の持ち主は、苦痛を飲んで堪える鏡一郎へ、慈しむような目を向けた。まるで幼子に注ぐように、優しく、柔らかに――。

 それを鏡一郎は鼻で笑い飛ばした。


「分裂体だけあって、お粗末だな。お前が姿を借りた男は、子ども嫌いだ。俺がカガミのままであったとしても、そんな目は知らないな。それに、戦ってる最中に、あいつがそんな穏やかな顔つきのままでいると思ってるのか?」

 鏡一郎の知る彼の伴神は、刃を振るう微笑みに、尖らせた凶悪さをのせていた。


 骨の痛みはおそらく罅だ。折れてはいない。ならばまだいくらでも動けると言わんばかりに、鏡一郎は瞬時に腕へ膜状の結界を形成した。罅割れた骨を固定するように、固く纏わりついている。それで補強されるままに、鏡一郎は軍刀を持つ手に力を込め直した。


 青白い光を帯びた刃が、大太刀を撥ね返す。だが、長い得物と不釣り合いの俊敏さで、すぐさま刃は舞うように軌道を変えて、風を切ってきた。

 避けるに近すぎ、刀で受けるに体勢が悪い。


 音高く、結界形成の音色が響きわたった。胴を薙ぐ太刀筋を、盾となって防ぎ止める。それでもなお、結界ごと力まかせに叩き斬ろうとする大太刀に、光の粒子が弾け飛んだ。

 力で、押し切られる――その刹那。構えを直した鏡一郎の一刀が鋭く翻り、ヨモツオニはひらりと身をかわした。


 距離を測り、睨み据える鏡一郎へ、何事もなかったかのようにたおやかに微笑む。 

「腕を上げたね、カガミ」

「その称賛は受け取りかねるな」

 弾け消した水晶の結界とともに、駆ける。軍刀が月下に青く閃いた。

「欲しい言葉はもう――本物からもらってる」


 カガミが会いたかったのは二の君なのかもしれない。彼岸の彼方の姿なのかもしれない。けれど――

(今生は、俺のものだ)


 生まれ変わり続けた願いは今なお、この胸に息吹いている。だから彼は、《海境うみざかい》を駆けたのだ。けれど、それは、過去だけを恋い慕うものではない。


 振り降りる軍刀へ、大太刀が舞う。だがその真珠の刃は、軍刀と合わさる前に、結界に弾かれた。がら空きの右半身。青く霊力を帯びた刃が、それを叩き斬ろうとした瞬間。


 腕がどろりと崩れて、赤い肉片へともどり、しなる刃と変わって、刀を撥ねのけた。本体と違い、人型を保ったまま操れはしないらしい。右肩から先は、一瞬ですっかり無数の刃の鞭へと変じ、唸りをあげながら、鏡一郎目がけて斬りかかってきた。

 それを結界で防ぎ、斬り伏せて捌くも、鏡一郎の青い瞳の端。月明かりに迫る大太刀が映り込む。


 左腕だけで軽々と。薙ぎ払われる刃と鏡一郎の身には、間合いがない。

 防げない、まずい――そう、普通なら思うのだろう。が、鏡一郎は口端に笑みをひいた。


「鏡一郎!」

 蒼い月光を縫って、飛天ひてんの衣のように、長い銀糸の髪が舞った。それが、大太刀を持つ腕と身体を縛める。

 軍刀は及ばない。結界も間に合わない。けれど、もう、鏡一郎には伴神がいるのだ。


「悪いが俺は、カガミではないのでな」

 長い黒髪、淡く黒の混じった青の瞳。八百年の昔に、カガミが出逢った姿に、言い放つ。


 あの日、鏡一郎が《海境》を駆けたのは、七度前の生で果たせなかった願いがゆえ。それは、間違いない。間違いない、が――

(俺が出逢ったのは、その時のお前じゃない)


 彼が蒼月の夜に巡り逢ったのは、鏡ヶ湖に現れた、黒髪の神凪ではない。《海境》で眠っていた、銀髪のヨリシロガミだ。

 過去ぜんせには導いてもらったが、囚われるものでは、ないだろう。


 もう一度、彼と出逢いたかった。弱さを理由に置き去りにされるでなく、ともに在れる者でありたかった。

 けれど、時を戻してやりなおしたいわけではないのだ。――アタラはいま、ここに、いるのだから。


「騙る姿を間違えたな。目の前に本物がいては、どれほど似せようと、霞むだけだ」

 もう彼は、二の君ひとではない。ヨリシロガミだ。カガミを置いて、人の身を捨てた。


(だが、だからこそ――)

 鏡一郎が出逢えた。


 カガミの気持ちは手に取るように、今生の鏡一郎にもわかる。どこかで、願ってしまい続けたのだ。あの日、あの時、あの可惜夜に――二の君のまま、朝が訪れても、カガミのそばにいてくれれば、と。そうではないから彼であったのだと、分かっていながらも――。


(何度あの夜を繰り返しても、お前はカガミおれを置いていくんだろう?)

 口惜しくとも、そんな彼を追いかけた。だからいま、鏡一郎は、かつてヨリシロガミとなるを選んだアタラの道筋を拒んでまで、昔だけに縋ろうとは、思わない。


 もし鏡一郎の片隅にかすか宿る、二の君の姿に逢いたいという、頑是ない前世の我が儘。それを、このヨモツオニが象ったというのなら――斬って捨てるのに、これほど躊躇いがないこともない。


 アタラの髪に縛められて、動けぬヨモツオニへと刃を振り抜く。

 袈裟斬りに肩から腰へと両断され、潮の臭い混じりの赤黒い体液が吹き上がった。


「カガ……ミ、」

「鏡一郎だ」

 なおもうわ言ように、唇を動かし、情を揺さぶろうとした紛いものの顔面を叩き斬る。

俺の伴神ほんものが、そう呼んだのを聞き損ねたか?」


 皮肉交じりの微笑が小首を傾ぐも、当然、崩れ落ちた肉塊に、それが届くことはなかっただろう。

 あたりを満たす海の水。その水面のうちへ、騙る姿を失ったヨモツオニは、溶けるように消えていった。




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