ダレカの影


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 月明かりの海を鳥居へ駆ける。

 その足元を攫うように流れ込む海水のうちから、赤くしなる刃が泳ぐように伸びてきた。飛沫をあげて現れ出で、視界を覆って斬りかかる。それをわき目にも見ず駆け抜ける鏡一郎のそば、真珠の大太刀が閃いて、瞬く間に道を切り開いた。


 軽々とその太刀を肩に、隣に並んで駆ける長い銀色の髪。それに、かすか満足げに鏡一郎が口端を引き上げた時だ。

 ひときわ高く打ち寄せる波のように、勢いよく鉄門の向こうより濁流が溢れ出た。高くそびえる大鳥居を飲み込み、轟く海鳴りの音が鼓膜を叩く。鼻つく腐った海の臭いに、鏡一郎は顔をしかめた。その首元へ――一瞬で迫った赤くしなる刃が、風を切る。


 滑り込むように光った白刃が、その刃を叩き伏せた。

 先の刃の一群より硬い手応え、素早い動き。明らかに段違いとなった強度と精度に、舌打ち交じりにアタラが鳥居を振り仰ぐのと、鏡一郎がその先を追いかけたのは同時だった。


 大鳥居の上に、人影。蒼い月光のさざ波の中、結びもしない長い黒髪を泳がせている。携えるは、アタラとよく似た大太刀だ。紺碧の瞳が、不気味なほど穏やかに、微笑んでふたりを見下ろしていた。


「……数多の死者のうちから、ヨモツオニどもはどうやって、姿を騙る相手を選ぶんだろうね」

 ため息まじりに吐き捨てて、アタラはそっと大太刀を構え直す。

「なんにせよ……悪趣味だよ」

 憂いを帯びた吐息が、囁いた。だがその次には――。


 アタラは地を蹴りつけ、宙へと躍り出ていた。青い光を帯びて、勢いよく振り抜かれた刃を、同じく大太刀が受け止める。

 身の丈を超える刀同士とは思えぬほど、太刀筋は互いに軽々と閃いて、次々と火花を散らした。それはまるで剣舞のように、鳥居の上で鮮やかに切り結ばれる。


(ああ、やっぱり、最高に悪趣味だ)

 刃を交わすたびに、遠く置き忘れた記憶が、身体のうちで爆ぜる。似ているではない。同じなのだ。その太刀筋も、その動きも――

(その、瞳も――……)

 微笑みを携えたまま、悠々と、紺碧の瞳はアタラと柔らかく戯れるように大太刀を振るう。


 こうして手合わせをした。こうやって、見つめ合ったような心地になった。そうして――

(……あなたの弟として、生も、死も、費やした)

 それでもなお、届かなかったその隣。振り向かなかったその瞳。遠く高みに佇み、遥か彼方を見つめた人――。


 けれど、目の前のその人が纏う香りは、爛れた海の臭いだ。背からは翼のごとく異形の刃が伸びている。

 刃は鞭のようにしなって風を切り、大太刀とはまた別に、四方からアタラへと襲いかかった。


 その刃の嵐から彼を守って次々と、澄んだ音を響かせて、水晶の結界が刃と競り合うように結ばれていく。その絶え間なく空気を震わす高音は、惑わされるなとアタラを警告をするようだった。


(分かってるよ)

 そう笑みを刻んで、柄を握る手に力を込める。

 言われずとも、この海の腐臭を纏い、異形の刃を背に宿す存在が、兄であるはずがないことなど分かっている。

 それでも、どこかで刃先が惑わぬように。意図せず太刀筋が乱れぬように。折り重なる結界の音を、アタラは鼓膜を叩くに任せて受け入れてやっていた。だから――


「スイレン」

 懐かしい声が一瞬、彼からそれ以外の音を奪っても、振り抜く大太刀の威力は、弱まりはしなかった。そのはずだった。なのにそれすらも――ささやかな抵抗だと慈しむように、記憶と違わぬ優美な笑みは、軽々と受け止めきった。


「スイレン」

 鍔迫り合いに軋む太刀とともに寄せられた唇は、またそう、必死で睨み上げる弟へ呼びかけた。


「邪魔なく、ふたりきりで話をしよう」

 瞬間、その背から怒涛の如く注ぎ落ちたしなる刃が、大鳥居を叩き崩した。

 足場が消え去り、砂煙と轟音とともに、アタラは枯葉のように翻弄されて落下する。


 舌打ち交じりにかろうじて身を翻し、砕けた大きめの残骸を蹴りつける。なんとか体勢を持ち直したアタラは、大太刀を肩に、両の脚で着地した。ばしゃりと足元で、あたりに満ちた海水が飛沫をあげる。

 その瞬間。目に飛び込んだ光景に、彼は背筋を凍らせた。


 いまだ降り注ぐ鳥居の瓦礫の雨の向こう。いつの間に距離を詰めたのか、兄を真似たヨモツオニが、アタラではなく、鏡一郎へ、その刃を振り下ろそうとしていた。

 首筋へ、淡く青を帯びた刃が――。


 よぎる、首なしの血濡れた死に装束。いつか見た、己の最期。とたん、手のひらにさした、遠い夜に抱いたぬくもりの記憶。

 息を詰め、思うよりも先に、アタラの身体は動いていた。

 飛ぶがごとく地を蹴って、一瞬で距離を縮める。蒼月を弾く銀糸の髪が、閃光のように、鏡一郎の前へと滑り込んでいた。


 真珠色の太刀が、躊躇いなく振り抜かれる。その白刃は、ヨモツオニの両腕をその大太刀ごと、空高く撥ねあげた。

 吹き上がる濁った赤黒い体液と、澱んだ潮の臭い。意外だとばかりに驚きをたたえた穏やかな紺碧の瞳は、得物をなくして、いったん、アタラと鏡一郎から距離をとった。


 しかし、その口元には変わらず余裕の色。

 忌々しげにそれを睨みつけたアタラの背後、鏡一郎が叫んだ。

「アタラ、避けろ!」

 声に押されるように、振り向くより先にアタラは飛びすさった。


 そこへ、風を切ってなにかが叩き落される。舞い上がり降り注ぐ水飛沫の中、ゆるゆると起き上がりゆくのは、人影だ。長い髪、ほっそりとした体つき、その身の丈を超すほどの大きな太刀。


 見覚えのある輪郭に、アタラがその菫の双眸を見開けば、鏡一郎が小さく口角をあげ、皮肉交じりに吐き捨てた。

「――なるほど。確かに悪趣味だ」


 斬り飛ばされた、ヨモツオニの両の腕。そこから新たに象られた姿が、ふわりと笑んで、鏡一郎の方を振り返る。おさまりゆく水滴の壁のうちから見えたのは、長く艶やかな射干玉の黒髪。淡く黒の交じる、青い切れ長の瞳。


「カ……カガ、ミ」

 形のいい薄紅の唇が、拙く音を結ぶ。けれどすぐにそれはなめらかに、秋風のそよぎで鏡一郎の耳朶をくすぐった。

「カガミ、立派に、なったね」

 微笑むのは、あの夜の彼。月下にほころぶ花のかんばせ。


 ――ヨモツオニは死人を騙る。もう届かない、ダレカの影を着る。

 さざ波たつ胸裏を制するように、低く忌々しげに、鏡一郎は囁いた。


「……ヨモツオニおまえらにとっては、ヨリシロガミも死人のうちか」

 彼の目を奪い攫った――二の君。願い求めたあの日そのまま彼が、鏡一郎を見つめていた。






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