襲来


 ◇



 満ちた蒼い月が、昇っていた。

 東の端には、闇にまれた白の月。けれどようやく昇りはじめたその真白の光を飲むほどに、蒼が、あたりを沈めこんでいた。


 蒼い満月の夜、陸地は水のうちへ引きずり込まれたようになる。あふれた蒼い月明かりは淡く、冷たく、けれど燦燦と降り注ぎ、世界を失われた海の色に染め上げた。


 ヨモツオニは特に、満ち潮の夜に多い。だから人々は、満ち潮の日の夜はほとんど出歩かない。ゆえに、人もなく、静まり返った町中は、よりいっそう、海に飲まれた人なき水底みなそこのようであった。


 運河に停まる船や、立ち並ぶ蔵の数々。遠く薄っすら影となって見える、海を隔てる鉄門と大鳥居、その傍らの造船中の鳥船とりふねまで、すべてが蒼い月明かりに浸っている。ただ柳をそよがせる夜風があることだけが、ここが地上だとささやかに告げるようだった。


「う~……潮の臭い、とんでもなくきつくなってるじゃないですか~……。もう帰っていいですかぁ~」

 すでにへにょへにょの声で泣き言をもらしながら踵を返しかけたた巳代次みよじの襟首を、無言でツバキが引っ掴む。すっかり、元の彼女に復調したようだ。


 鏡一郎が鏡ヶ湖で行った、後検分あとけんぶん。彼が見込んだ潮の流れは、満潮の時、この船着き場に海が寄せると示していた。それが正しかったと証し立てるように、海辺だからというだけでない、強い潮の臭いが鼻をついてくる。


「今回の潮の流れは、おそらく本流があって、広がる型だ。初手でここで抑えられれば、被害は少なく済む。先までさんざん芸妓にちやほやされていた時に叩いていた大口はどこにやった? 『ひとりで軽いもん』だろう?」

 冷ややかな微笑が、巳代次を一瞥する。


 士気をあげるためと、無理やり鏡一郎たちを船宿近くの妓楼に連れ込み、戦勝の前祝だと、大騒ぎしていた男がいたのである。調子よく、鼻の下を伸ばしながら。


「お前……気づいてはいたけど、わりと最低の部類だよね?」

 重ねてアタラから突き刺さる蔑視に、巳代次は身を抱いて大袈裟に嘆いた。

「やだ! お二人とも、お堅い上に冷たい! 気持ちを持ち上げるのには可愛い女の子の応援が一番じゃないですか! ね! そうだよね! 文太もんた!」

「あ? まあ、応援の声は励みになるもんなぁ」

「わぁん! 雑だけどまだ優しさがある分沁みる~」


 慣れきった様子の、明かに身のない生返事に、それでも巳代次は慕わしげにその大きな背へ縋りついた。

 ヨモツオニを恐れ怖じているのか、なんだかんだで余裕があるのか。どちらにせよ大袈裟な悲嘆ぶりに、鏡一郎は肩をすくめた。


 その時だ。

 寄せる波の音が、彼らの耳朶を打った。

 一瞬で痺れた緊張に、とたん大きくなった水音がかぶさる。蒼い月明かりに飛沫をあげて、逆巻く海が、彼らの眼前――中空に溢れ出た。


 足元を攫うように潮水がどっと流れ込み、瞬く間に陸地へと広がり走る。が、それを、玲瓏な結界形成の音が空気を震わせ、阻んだ。勢いよく結界へ打ち寄せた波は、船着き場の蔵にも届けず、打ち返す。


 その渦巻きの中から、ずるりと影が這い寄り出でた。赤く膨れた巨大な身体。陸に生きない、異形の姿。澱んだ潮の臭いを振りまいて、太い脚が地を揺すり、牙剥く吠え声が空気を震わす。


 大型の獣のヨモツオニが、月明かりを遮って次々と現れ出る。先の鏡ヶ湖の数が可愛らしくすら思えるその数に、巳代次が絶望の悲鳴をあげかけた、その瞬間。

 真珠色の大太刀が、月明かりを弾いて地を蹴った。


「霊力寄越せ、鏡一郎!」

 言い切るを待たずに、蒼く清廉に光を帯びた一太刀が、濁った海の獣たちを斬り放ち、閃いた。凛と空気を凍てつかせるように、走り抜けた真白の閃光が、並み居るヨモツオニたちを刹那の間に両断する。その斬り飛ばされた箇所から、刃の煌めきが迸り、稲光のように一挙に広がった。ヨモツオニの身体に亀裂を走らせ、回復の余地もなく千々に裂く。


 伴神たちが器たるその身に溜めたナレノハテ――それが残す、神の力。神凪の霊力を受けてこそ、それは真価を発揮する。


「ア……アタラさん、好き~! 最高! そばにいてー! 俺を守って! 祝言あげて~!」

「あげるか!」

 一瞬にして斬り伏せられたヨモツオニの群れに上がった、黄色く汚濁した歓声を、苛立ちたっぷりにアタラは蹴りつけた。


「くだらないこといってないで、自分の伴神と安全守ってろよ。あらかた消したけど、斬れただけの残りもあるからね」

「アタラ、鳥居の方だ」

 鏡一郎は、早々に、巳代次の相手を放棄したらしい。一言言い置くが早いか、さっさとアタラを待たずに大鳥居へと駆けていく。


「しっかりここ、押さえとけよ」

 文太とツバキにそう告げて、アタラもぱしゃりと足元の水を弾くと、主のあとを追いかけた。月明かりに翻る長い銀糸と着物の裾が、蒼く揺らめく。


 その瞬間、彼らが目指した鳥居の方角と、巳代次や文太が残る船着き場入り口付近を隔てて、厚く幾重にも水晶の結界がそそりたった。「手厚いなぁ」と、もう夜の向こうに霞む同輩の背に手を振り、文太は笑いながら巳代次を振り返る。


「やりやすくしてもらったんだ。俺らもちっとは働こうぜ」

「あ~、やっぱりそうなるぅ?」

 アタラの一刀による消失を逃れ得たヨモツオニの残骸が、蠢きだしている。切り裂かれた赤く膨れた肉塊が、再び元の形に繋がろうとずるずると這いだしていた。足元の海水も引いていない。次が来る。


「大物はあっちにお任せしてさ。俺らはここで、街への結界、仲良く守ろうぜ」

「俺たちにとっては、こっちだってしっかり大物だよ~」

 肩抱く文太に、変わらず巳代次は泣き言をこぼした。


 その視界の端で、太い脚が爪を光らせ空を切る。まだすべてが戻りきっておらず、胴はもっていない。すっぱりと斬り放たれた断面から赤黒い筋肉のすじのようなものが、遠く肉塊に結びついているだけだ。

 その脚を、幾重も走った白い閃光が叩ききる。


「うっわぁ、この状態でも動けんのかよ……」

 主を守るように肩に、腕に乗った小鬼たちの頭を指の腹で撫でてやりながら、文太は眉をひそめた。

 足元に散らばった肉片は、腐臭まじりの潮の香を振りまきながら、まだかすか動いている。


 腰に下げた小さな鞄から、追加で針を取り出して、文太はぐるりとあたりを見渡した。

 歪につながった影が蠢き、さざめく潮の水面から、新手の吠え声が、低く地を揺らし出している。


「残念だが、楽はできなさそうだぜ」

「いやー! 帰りたい~!」

 巳代次が泣き叫ぶと同時に、それでも白い糸が傍らから翻った。走り出すツバキが纏うのは、青白い霊力の光。彼女を助ける巳代次の力だ。

 蒼い月の海を針が滑って小鬼となり、白い刃と変わって空を縫う。


 水なき海から打ち寄せる波音は、ますます雷鳴のごとく轟いて、いまだやむことを知らなった。




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