カガミ


 ◇



 前世を前世と認識したのはいつだったか、鏡一郎にはあまり確かではない。ただ、物心ついた頃から記憶にあった、己が体験したと思っていたこと。それが、どうも様子がおかしいと気づき始めたのは、七つを数える頃だったはずだ。


 とても綺麗な青年に、蒼い月明かりの中、見下ろされ、名を問われる。それをずっとずっと覚えていたのに、思えばその記憶の中の己の姿は、ちょうど七を迎えた自分と同じぐらいの大きさだった。


 それからだ。覚えている、浮かび上がる、自分ではない誰かの記憶。でもまぎれもなく、自分のものだと確信できる思い出。

 それが前世の己の記憶だと理解し、受け入れることができるようになったのは、辿られる昔の記憶が、だいぶ整理がついてきた頃だった。


 七度より前があったのかは、知らない。鏡一郎の記憶にある最初の生は、八百年前。アタラと――二の君である彼と、出会った時だ。


 鏡一郎は、アタラの国とは別の地にある、小さな村で生まれた。霊力の高い者を多く輩出する家があり、その一族がおさとして村を治めていた。その末端の分家の子が、鏡一郎だった。


 かすかな霊力をもって生まれついたが、いっそ持たずにいた方が良かったかもしれない。なにも力がないのなら、無力に本家の庇護に縋りつけた。

 当時はいまの神凪寮かんなぎりょうのように、全国を統括する神凪の組織は当然なく、土地や国ごとに、その在り方が違った。鏡一郎の村は、おさの一家が代々ヨモツオニから村人を守っていたが、それゆえに次第に、本家の人間たちは、神凪の力を笠に着るようになっていっていた。高慢で傍若無人な統治が続いていたが、それでも村人が不満の声をあげずにいたのは、長の家の他に、優れた神凪がいなかったからだ。


 だが、ちょうと鏡一郎が生まれた頃、長の家の子に、霊力を持つ者がいなかった。本家、分家の子の中で、鏡一郎だけが唯一、かすかだが神凪としての才覚を宿していたのだ。

 それが、本家の当代の癇に障ったらしい。当代は我が子たちにこそ、自分と同じ、美味しい汁を吸わせたかったからだ。


 子どもたちには霊力がないとはいえ、当代は、青みの強い黒の瞳。鏡一郎よりずっと強い霊力を持つ神凪であった。だから当然、まだ幼子の弱い神凪より、人々は当代に頼る。鏡一郎の親も、もちろん、そうしたかったであろう。けれど当代は、鏡一郎たち一家を突き放していったのだ。『お前らの神凪に守ってもらえ』と。


 微弱な霊力で、なんの学びもないままに、小さな子どもが神凪としてヨモツオニと戦えるわけがない。当代も当然分かっていたはずだ。けれど、自分の子よりかすかでも霊力を宿していることが気に食わなかった。だから、手ひどい嫌がらせを行ったのだ。


 困り果てた親は、邪魔な鏡一郎を売り払った。鏡一郎の他にも子どもがいる。老いた祖父母もいる。もし、真っ青な瞳を持つ子であったならまだしも、かすか青が混じる程度の黒。行く末もたかが知れた霊力しかない。そんな展望のない子を抱えることで、一家がみなヨモツオニに苦しむぐらいなら――子のひとりぐらい、手離した方がいい。

 おそらく、そう結論付けられ、鏡一郎は、流れの神凪の一座に売り払われた。


 そこでの扱いも、お世辞にもいいものとは言えなかった。鍛えようのない脆弱な神凪の子ども。そう侮られ、神凪としての手解きをうけることはほとんどなく、雑事にこき使われた。


 座は、留まる場所や仕える主を持たず、旅をしながら現れるヨモツオニをその場で倒し、報酬を受け取る集団だ。ほとんどを旅に費やすその生活は、幼子にはつらく厳しいものだったが、気遣ってくれる大人も、その座にはいなかった。二束三文で子を買った集団だ。仕方もなかろうが、あまりにも運がないと、鏡一郎は、我がことながらひどく憐れみたくなったものだ。

 だから彼は、今生こんじょうでは決して、自分と同じ思いを、あの時の己と同じ立場の者にさせたくないと決めている。


 そうして、生まれた村からだいぶ流れ、アタラの国に近づいたあたりで、鏡一郎のいた座は、ヨモツオニに襲われた。

 蒼い満月の夜だった。

 複数の大型の獣のヨモツオニ。とても太刀打ちできないと逃げ出す者も現れて、座は散り散りとなった。


 鏡一郎を顧みるものがいるわけもなく、幼い彼はただひたすらに、逃げに逃げて山道を走ったのだ。そして、辿り着いたのは、鏡のような水面の湖。蒼い月を映し出して、静寂の光をたたえていた。


 鏡一郎は、息を飲んだ。いつも俯いて、大人の顔色をうかがい、暗く澱んだ影ばかり見ていた。同じような闇に沈む世界のうちでも、こんな淡く光纏う、美しい光景があるとは知らなかった。


 ヨモツオニを呼ぶため、蒼い月は厭われる。だが、この満ちる蒼の世界を前に、心囚われない者などいるのだろうか。

 引き寄せられるように、彼は湖へと歩み寄った。そこへ――


 静けさを破って、彼を追ってきたのか、ヨモツオニが吠え、迫ってきたのだ。たいした大きさはない。力の弱い、下級のヨモツオニだ。

 けれどもう、走る体力も、逃げる気力も、幼い彼には残ってはいなかった。


 ただ最後に、この綺麗な風景が見れて良かったと。なにひとつ、なにひとつ満ち足りて得るもののなかった生涯で、それだけを抱いて、死のうと思った。その時だ。


 真珠色の刃が一閃。月明かりに閃いた。ヨモツオニが叫びを残し、塵となって消えていく。

 その影がなくなった向こうに、大太刀を手に佇む青年がいた。蒼い月明かりを淡く纏って、微笑む。


 星抱く夜空を攫ったかのような艶やかな黒髪。蒼の月明かりに揺らめく、限りなく海に近い青の瞳。透きとおり澄んだ面ざしに、月下にほころぶ花のような白い肌。


 抱きしめて死のうと思った、生涯でもっとも美しかったはずの湖の光景。それよりも、もっともっと美しいものが――救われた鏡一郎の視界に、あまりにも眩く飛び込んできた。


『なんだ、子どもか。名前は?』

 耳をくすぐる、笑う声。そんな柔らかな響きを、向けられたことなどなかった気がする。

『口が利けるなら、名を告げてよ。君は、誰?』


 痺れるように、すべてを奪われた。何とか己に向く、その瞳を逸らしたくなくて、必死に答えを紡ごうとした気がする。

 けれど、答えられなかったのだ。声が出なかったのではない。ただ――


『名は……ありません』

 最初は、親が付けてくれた名があったように思う。けれど、売られるずいぶん前から、疎まれだして呼ばれなくなった。一座でも、固有の名づけは与えられなかった。『ガキ』『そこの』『お前』『グズ』そう、人ではないように呼びつけられた。


『ふぅん……なら、俺が名をあげようか』

 美しい人からの思いもかけない申し出に驚くその頬へ、青年の指先が伸びる。少し冷たい体温がくすぐったかった。息が通うほど近く、鏡一郎の顔を覗き込み、薄く整った唇はふっと笑みを咲かせた。


『カガミ。君はカガミって名にしよう』

 蒼い月の人は、そう楽しげに彼に名を与えた。


『見れば多少霊力があるみたいだし。たいしたことはなさそうだけど、すこしは使いものになるよう、鍛えてやるよ』

 そう初めて、名とともに手を引かれた。


 それが、ずっとずっと昔の――鏡一郎とアタラの出逢いだった。







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