懐かしの唄



 眩しさに、目をすがめる。朱色の西日が、障子戸の隙間からこぼれていた。

 郡所ぐんしょであてがわれていた、アタラたちの部屋。そこに彼は、丁重に横たえられていた。身体中がまだ怠く、動かさずとも傷が痛む。しかし、己がガワにそれ以上揺らぎや変化は感じない。十全に、鏡一郎の霊力は彼の身に行き届き、傷の回復を行ってくれているようだった。


「……ざまあないな……」

 目覚めとともにどっと襲いかかってきた己が失態の記憶に、アタラは腕を目元へと覆いかぶせた。

 自分はあの場で唯一、人型と渡り合える存在だった。それが、まるで役目を果たせなかった。情けないにもほどがある。

(けれど――……)

 次に戦えるのか、分からない。


 あれが兄そのものではないことは理解している。あれはヨモツオニ。兄を騙る異形。ただ偽りの唇でも、兄の姿で紡がれた言葉が、まるで楔のように胸を穿つものだったから――


(私以外の伴神ばんしんになっているとは、思わなかった……か)

 あれが本当に兄だったら、そう口にしてくれただろうか。あの兄を騙ったヨモツオニの言葉が、もし、己が願望を汲みとったものなのだとしたら――


(なんて、浅ましい)

 八百年前、兄の他に主を持たぬと言い放った我が儘を、特別な誓いだと、兄が受け止めてくれていたわけはあるまい。恨めしく思われることもなければ、罪悪感を抱く必要も、きっとなかったはずだ。兄は、言祝ぐだろうから――。


(それに、鏡一郎とだって……)

 別に、八百年も経って、とうに彼岸の人となった兄へのあてつけで、新たな主と契約を結んだわけでないのだ。


 そっと持ち上げた、己が掌を見つめる。この手が今、実体として存在しているのは、鏡一郎と縁を結んだからだ。

 たとえ過去を忘れていたのだとしても、彼の霊力を辿り、目を覚まし、契約の問いかけをしたのはアタラなのだ。

 起こしたのは彼だが――応えたのは自分だ。


(似てたん、だよな……)

 いつかの子どものぬくもりに。繋がり、注がれた彼の霊力は、よく似ていた。冷えて空っぽの身体に、あたたかく、心地よかった。


 鏡一郎の姿は部屋にはない。前に倒れた時はすぐそばにいたが、いまはひとり、横にさせられている。

(まあ、さすがに呆れただろうし……)

 そこまでぼんやり思って、どことなく不満な自分に驚いた。この有様でいまさら、鏡一郎にそばで見守っていろとでも、望む気だったのだろうか。


(子守り唄が必要なわけでもないだろうに……)

 前に倒れた時の目覚め際、口ずさまれていた子守り唄を思い出す。

 懐かしい歌だった。アタラの時代からある昔ながらの子守り唄だ。

(そうだ、あの夜あいつに歌ってやったのも――)

 ――この子守り唄だった。


 ほころんだアタラの唇は、気づけば小さく、あの日の子守り唄を奏でていた。素朴な旋律。柔らかな歌詞。甘く優しい、ぬくもりの歌。

 そこへ――


「あれ? アタラさん、起きたんすか?」

 ひょいっと顔をのぞかせた巳代次みよじに、アタラは慌てて口をつぐんだ。


「いやぁ、良かったです! ほんと、満ち潮までには、絶対、元気になってもらわないとって思ってて!」

 にこにこと巳代次の声は踊るが、アタラの顔は渋い。このやかましい男の接近に、微塵も気づけなかった己への憤懣がやるかたないのだ。

 だが大失態を演じたわりに、アタラへ寄せる期待が変わらないのは、どう受け止めていいものか。アタラは小さな心地悪さに頭を悩ませた。


 その間にも巳代次は、聞いてもいないのに、どうやって人型ヨモツオニをしりぞけたのか、意気揚々と文太もんたたちの活躍を語って聞かせた。それによると、文太はまだ療養の身だが、使い過ぎた霊力はだいぶ回復し、三食元気に食べながら、暇を持て余しているらしい。


「ツバキちゃんも、助けてもらえたおかげで無事にすみましたよ。ありがとうございました! いまはまだ治療途中なんで、面倒見てる俺への甘えたも出るんですけど、だいぶ俺の扱いへの雑さが目立ってきたんで……もう二、三日もすれば、いつも通りの冷たくつれない、可愛い俺のツバキちゃんに戻ると思いまっす! 甘えたもいいんですけどね。やっぱり、完全回復に越したことはありませんから!」


「君の伴神が無事であったのは何よりだけど、君との関係性に関する言説は、一切望んでいない。今後そのことで俺の前で口を開くな」

「わぁい、ツバキちゃんでもここまで絶対零度じゃない」

 惚気るなら余所でやれ、とばかりに冷淡なアタラへ、へこたれる様なく巳代次は返した。


 とはいえ、軽薄に口を動かしながらも、手の方も抜かりない男で、起きた時にと備えられていた水差しを変え、新しい包帯の準備をし出している。

 ガワがある以上、ツクモガミもヨリシロガミも肉が裂かれれば血が溢れる。治癒は神凪の霊力で進むが、一息に治るわけでもない。その間の傷には、人と同じような手当てを施すのだ。アタラの包帯も、寝ている間に何度も取り換えられたのだろう。


「そういえば、アタラさんが歌ってた歌、綺麗な歌でしたねぇ。いま、中央で流行ってる歌なんですか?」

「え?」


「え? いやだから、さっきの歌ですよ」愕然としたアタラに気づかずに、手元に視線を落としたまま巳代次は続けた。「俺、絹留きぬどめに来る前も、地方の郡所詰ぐんしょづめで。そこそこ地方勤め長いんすよ。そのせいで、中央の情報に疎くなっちゃって~。流行りのかっこいい男でいたいのに。だから、その歌、流行ってんなら教えてほし、」

「鏡一郎は、どこ」

 さえぎり、身を起こして詰め寄ってきたアタラの射抜くような視線に、巳代次は目を白黒させた。


「え? いや、丹内にない少尉しょういは、ちょうど鏡ヶ湖へ後検分あとけんぶんへ」

 聞くが早いか、アタラは夜着よぎをはねのけると、そのまま外へと飛び出した。傷の疼きなど構っていられない。


 あの子守り唄は、アタラの生きていた時代。当たり前に歌われていた唄だった。他国を渡り歩く行商の一座も口ずさんでいた。知らないはずがない。もし、いまも、歌い継がれている唄だったのなら――。


(でも、違った)

 なのに、鏡一郎は知っていた。

(八百年。八百年前を知っているんだ)


 なぜそれを知っているのか。この前の夜は、答えを得る前に、ヨモツオニの出現に邪魔をされた。

 途切れたあの会話の先。うやむやになった鏡一郎の言葉の続きを、あの夜よりもずっと切望して、アタラは駆けた。


(鏡一郎、君は――……)

 風を切り裂きなびくアタラの長い銀糸の上で、西日が弾かれ踊って、煌めいた。


 東の空にはもう、月の影。白い月を待たずに昇りめた、満ちかけの蒼の月が、淡く海の輝きを放ちだしていた。





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