二の君(2)



 アタラの思惑は誰も知る由もなく、彼をヨリシロガミと成す儀式は粛々と整えられた。


 清浄を保たれた祭儀場へ、死に装束で歩み入った彼を待っていたのは、兄と、刀を手にした祭官さいかんだった。

 少し、愚かしい期待があったことを思い知らされた。兄が――兄が儀礼を執り行うのではないかと、無意識にどこか望んでいたのだ。王が贄の血に濡れるのを、よしとされるはずがなかったのに。弟ならば、此度の依り代になるならば、もしや通例を破って――と、有り得もしない夢を見た。


 ただ、兄の手は痛ましげに彼の髪を撫でてくれた。その感覚は、いまはもう、覚束ない。けれど、アタラを映した憂いた瞳は、彼だから悲しみに揺れたのではなく、きっと、贄となる者への哀悼でしかなかったのだろう。蘇る記憶の中だからこそ、そう認識できる。


(あの時は、あまり分からなかったか……そうは思いたく、なかったか……)

 どちらだったのかまでは、思い出せない。


 青白く光を帯びた術式のうちに膝を折り、腕を背に回せば、その務めを担う者が、そっと絹の紐できつく縛めた。寸前のところで、心乱れて暴れ出さぬように。

 首を差し出しこうべを垂れれば、冷たい誰かの指先が、静かに艶やかな黒髪をかきやって、その白いうなじを顕わにした。そこに位置を確かめるように、薄皮の上へ刃が触れる。ぴりりと痺れる心地がした。そう思った、次の瞬間――


 彼の見開かれた瞳は、離れた己が胴を見た。血濡れの首なしの死に装。死してなお、すべての感覚が生きていた。


 同時に注ぎこまれ出したナレノハテに、身体を崩しゆかれ、激痛が、離れた肉体すら通じて迸る。全身を焼き裂かれる痛みが、脳を揺さぶった。失われた喉が、それでもなお叫ばずにはいられなかった。


 ヨリシロガミのガワは、依り代の霊力で編まれる。だから肉体は、その過程で焼き壊されるのだ。生きながら溶けてゆく感覚は、さすがに一瞬、己が決断を呪いたくなった。


 そうして彼は人の身を失くし、カミとなって、兄の伴神ばんしんとなったのだ。

 だが、相性はよくはなかった。兄の霊力は、アタラには甘すぎて、吐き気がじわじわと込み上げてきた。けれど、主は兄しかいない。兄でなければだめだった。


『スイレン』

 そう、初めて、名をつけられた。二の君ではない名を兄に呼ばれた。兄からのたったひとつを与えられたようで、嬉しかった。

 共に戦えると思った。唯一になれると思った。

 けれど結局、生前となにも変わらなかった。


 かろうじてツナミを乗り越えてから、兄はアタラに言ったのだ。

『スイレン、その実、私との相性はそれほどよくはないのだろう? ツナミの時は、それでも私が一番大きな霊力を持っているから、お前に伴神でいてもらったが……ずいぶん、無理をさせたと思う。だがもう、ツナミは過ぎた。お前も楽になっていい。他にもっと、相性のいい主を探そうか?』


 穏やかな声。優しい提案。確かに、兄と共に戦うのは、身体のうちに吐き気を転がしながら動く不快さを伴った。けれど、それでも――


『……俺は、兄上の伴神だよ』

 ようやく、それだけを紡ぐのが、精一杯だった。微笑めていたのか、声は涙で震えていなかったか、いま思い起こしても分からない。

 ヨリシロガミと成された時より、ずっと、喉の奥がちりちりと、熱と痛みに焼け焦げるようだった。


(分かっては、いたんだ……。兄上は誰より、国と民のことを考えている。そのことだけを……考えてる)

 その視界は広くを見るためにあるのであって、その中にある小さな小さな弟のことなど、見えはしないのだ。


 いや、聡明な兄のことだ。分かってはいたのかもしれない。けれど、彼の意図を分かってなお、特別にそれを汲んではくれなかったのだ。特別に扱うことで招く不幸の方を、重く見たから。


 相性が良くないということは、ガワを主の霊力で保ちにくいということだ。早晩にもガワを保てなくなり、ヨリシロガミとして意識を飲まれたアタラは、神凪かんなぎを――兄を、呪うだろう。そうしてそれでも足りない餓えを満たそうと、次は国のしんを、民を、喰い殺していくだろう。

 ならば、相性の良い神凪に託し、しばし飼い、折を見て封じるのが、国のためだ。


『他の誰かに仕える気はない。だから兄上――俺は、誰も来ないところで、眠ることにするよ』

 そうして彼は、自らを《海境うみざかい》に封じたのだ。


 《海境》は海と陸の裂け目。海岸沿いで足を滑らせたり、押し寄せる海水に飲まれた時、まれに落ちてしまうことがある、人の世とヨモツオニの世との境目だ。潮の臭いが満ち、海水がひたひたと地面を濡らす、長いうろのようなところである。


 境界と呼ばれる禁域に足を踏み入れれば、そちらに渡ることも出来た。霊力があれば戻っても来られる。だが、好んで足を運ぶ者など皆無であった。《海境》には、ヨモツオニがたむろしている。餓えた獣の巣穴に飛び込むようなものだからだ。


 ゆえにアタラは、己を封印する地として《海境》を選んだのだ。二度と誰にも、仕えることがないように。


 ずっとずっとそうして眠っていた。ずっとずっと、孤独に、悪夢と痛みを伴に、眠り続けていくはずだったのだ。それなのに――

(ああ……どうして俺は、起きたんだろう――……)


 あの日、流れ込んできた霊力。それが、冷えて空っぽの腹のうちに心地よくあたたかかった。それで、起きてしまったのだ。

(そうだ……。ちょっと似てたんだ)


 すべてを忘れ、失った、そんな眠りの中でも繰り返された、神々の苦痛の記憶。呪いの念。それらにさいなまされながら眠る中、いつもずっと、抱きしめていたぬくもりに。


(あれは……あれは誰だったっけ‥‥…――)

 思い出されてきた過去をたぐる。

 そう、子どもだ。子どもを拾ったのだ。鏡ヶ湖かがみがこで薄汚れた子供を拾った。黒に青がひかれた程度の瞳を持つ、脆弱な霊力の神凪の子だった。


 蒼い満月の晩だった。現れ出たヨモツオニを斬り払った背後。怯え震える子どもがいたのだ。

 見るからに、父母や庇護する大人を持たない、行き場のない子と分かった。拾ってやる義理はなかったが、霊力があるというのが少し気にかかった。


 神凪は貴重な存在だ。それでいながら捨てられているということは、使いようのない雑魚なのかもしれないと思ったが、鍛えればましにもなろうかと、気まぐれもあって拾って帰った。もしかしたら、兄に子が生まれたから、そんな気が起きたのかもしれなかった。


(ああ、あのぬくもりは――)

 その子だ。あまりしゃべらない、愛想のない子だったが、妙になつかれたらしく、適当な従者に世話を任せていたのに、アタラが顔を覗かせれば、静かにまとわりついてきた。

 それに悪い気はしなくて、時たま相手をしてやった。文字を教え、学を積ませ、神凪としても鍛えてやった。

 そうして、二年ふたとせばかり、共に過ごした子どもがいたのだ。


 その子が、彼が依り代として贄になる前日。最後の夜に、どこかでその話を聞きつけたらしく、突然部屋までやってきた。

 なにを言っても無言を貫き、帰りもしない。仕方ないから、一緒に夜着よぎを被せて寝てやった。ガラにもなく、子守り唄なんて歌ってやりながら。


 その時、その子どもの体温がとてもあたたかくて、悪いもんじゃないと思ったのだ。

(たぶん、本来、ヨリシロガミと成るのは、こうしたぬくもりを守るためなんだろうと――)

 妙にしみじみと、感じ入ったりしてしまった。


 その晩の、そんな些細なひと時が、小さく胸の片端に、灯っていたのだろう。

 兄のために依り代となり、カミとなったのは、間違いない。自分のために死ぬ。なんて高慢で我が儘な理由であったろう。けれども、そんな自分勝手でも、このぬくもりを守ることに繋がる。

(それはなかなか、いいではないかと――)

 そう思えた片端が 兄に別の主を勧められた時も、《海境》で眠っていた時も、彼を守ってくれていた。


 身勝手に依り代になり、愚かにも死に手を伸ばし、なにひとつ得られなかった。その選択に、後悔はなかった。己で望み、己で辿りついてしまった結末だ。

 ただ、悔いはなくとも、虚しくはなかったかというと、嘘になる。望むままに振る舞ったのに、どこか空虚で、空腹に凍えているようだった。


 それを紛らわせてくれたのが、あの夜、共に寝たぬくもりだったのだ。死してなお、誰かのなにかになれなかった己が、唯一為せたかもしれないこと。それが、あの抱いたぬくもりを、守ることだったから。


(守れたのかな……)

 ツナミの大厄災。アタラはスイレンとして、兄と共に獅子奮迅の活躍を示したが、犠牲者が出なかったわけでない。神凪として弱く未熟だったあの子どもは、当然、戦力とはならず、守られる大多数のひとりに紛れていた。


 アタラのやしきにいたはずだが、ツナミのあと、アタラは自邸に帰ることなく、眠りについた。だからツナミのあとのあの子のことは、分からない。正直、いまのいままで、思い至りもせずにいた。

 けれど、都合のいいことかもしれないが、あの抱いたぬくもりを守りたいと思ったのもまた、本当だったのだ――。


(あいつ、あのあとどうなったんだろう)

 鋭い涼しげな目元が、子どもにしては生意気な印象を与えたが、よくよく思い出せば、まあまあ可愛い奴だったように思う。


(そこそこ使える神凪になったならいいけど)

 彼の霊力と、記憶にある限りの技術では望み薄だろうが。


 そう微笑むアタラの意識は、ゆっくりと、沈んでいた重たいまどろみのうちから、浮かび上がっていった。




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