二の君(1)
◇
ヨモツオニは
だから、あれが兄ではないとは分かっていた。兄は、とうのとうに黄泉路を下った。八百年も、前のことだ。
(頭では、分かっていたのに――)
思い出した。思い出さされてしまった。
アタラがこの地で、まだ人として生きていた時の片端を。
アタラの兄は、昔この地を治めた国の王だった。まだこの島の内すべてが、ひとつの国に統べられるなど、考えもつかない頃。ヨモツオニとも、人とも争いがあった頃のことだ。
(ああ、でも、そんな時代がくるのなら、兄上こそ、相応しかったろうな……)
兄は聡明にして、公平。忠に厚く報いながら、けして情だけには流されぬ冷静な
また、彼の兄は優れた
優しく、穏やかで、声を荒げるのを聞いたことがない。誰もが慕わしく、誇りに思う、理想の王だった。
アタラは、そんな兄の代替品として育てられた。彼の国では、
そして何事もなければ、いずれ最後には死を与えられる。
王統は長子が継ぐ。だから、いずれ王に子が生まれ、その子が王位につけるまで育ちゆけば、切り捨てられるのだ。
ゆえに過去には、己が立場を嘆いて自ら命を絶つ者や、叛意を抱き誅されたり、政争の種となって暗殺された者もいたという。
(でも俺はそれで――よかったんだ……)
王の予備。人であって、人でない者。
予備であるから、代替品の王弟には、名づけをしないのが通例だった。だからアタラに、生前の名はない。
人として扱われぬ、哀れな代替品。周囲もそう認識しているからこそ、深く
けれど、王たる兄だけは違っていたのだ。
『二の君』
そう呼ぶ声はいつも優しく、注がれる視線が宿すのは、臣下や民へ向けるものと寸分たがわぬ慈しみだった。
自分の死後の予備など、快く思わない者は多くいる。実際、過去の王にも、もちろんいた。けれど兄は違ったのだ。
だからそれが、アタラの救いであり、兄に必要な者として生きている自負となった。
しかし、兄があまりに慕われ、優れた王であったためか、兄に近しい
王の予備としても、神凪としても、だ。
アタラも生前、それなりの霊力を持つ神凪だった。でも、兄には及ばなかった。兄の瞳は、一点の交じりもない、澄んだ青。それに対しアタラは、黒交じりの青だった。
おまけに、アタラは己が名前がないので、
伴神もいない半端もの。霊力も兄に遠く及ばない。
兄に酔心する者たちから見れば、代替品を名乗るのも許しがたい、王としても神凪としても不出来な器だったろう。
それでも兄は、彼を己に及ばぬ代替品とは一度も扱わなかった。
いやきっと、そう扱われても、アタラは兄に焦がれただろう。できた兄だった。みなに仰がれ、自然と必要とされてしまう、優れた人だった。
(――とても、眩しかった)
だから、彼の代わりとして、飼い殺しのように生きることに不満はなかった。いずれ、役目を終えて死を賜ろうと、受け入れられた。
(ただ――……)
同じ、だったのだ。
兄はアタラを、人として生きるを許されない代替品と憐れんだり、己が予備と蔑んだりは、決してしなかった。
その代わり、みなと同じだったのだ。
兄は聡明で、そして、公正であったから。特別を作らなかった。
横並び。忠臣のひとり。あまりにひとりひとりに慈悲深くあるから、気づく者は多くなかったろう。だが、彼のために死んだ者に、兄は哀悼を捧げ、真実胸を痛めてはくれるが、特別な涙は流してはくれない。
みな等しく、兄の前では変わらないのだ。みな同じ。みな同じで、特別な色などない。
亡き者の席に別の者が座ったら、そのまま昔そこに座っていた者と同じままに、兄は慈しむだろう。
確かに微笑み見つめられているのに、その瞳に映してはもらえていないような――。
だから、兄の特別になりたかった。
兄のために生きる予備なのだ。兄のために死ぬ代替品なのだ。
特別ぐらい望んでも良かっただろう。
お前が二の君でよかったと。その席に着くべきは、他でもないお前しかいなかったと、思ってほしかった。
(だから――……)
ヨリシロガミになったのだ。
ヨリシロガミの力を、兄が必要としたから。
ツナミがくると
それと似たように、海水が陸を飲むばかりに溢れ出て、大量のヨモツオニが現れ出でる現象があった。人々はそれをツナミと呼び、恐れたのだ。
稀有な現象ではあったが、ひとたび起これば、一国がヨモツオニに飲まれて消える大厄災となることもあった。それが、アタラの兄が治める国で起こるという。
いま国が統括する神凪と、その伴神のツクモガミだけでは心もとない。もっと確実に、強い武器が必要だと、誰もが思った。
ナレノハテを意図的に溜め込ませ、力を持たせた人造のカミ。ヨリシロガミを生み出そうと皆の意思が帰結するのに、時間はかからなかった。
それにアタラは、自ら手を挙げたのだ。
ヨリシロガミは、神凪しかなれない。
ツクモガミは、物それ自体がナレノハテを溜め込む器となり、ガワの機能を果たすが、生き物はそうはいかない。ナレノハテは、元は命あった神の残滓。それを入れ込まれると、生き物の場合、肉体が壊れてしまい、器となれないのだ。
そこをヨリシロガミは、神凪の持っている霊力でガワを編み出し、ナレノハテの器とする。霊力が強ければ強いほど、それで編み出すガワは強くなり、より多くのナレノハテを溜められる。
だからヨリシロガミになれるのは、霊力を持つ神凪に限られるのだ。ヨリシロガミの瞳が紫となるのも、そのためだ。神凪としての青の瞳。それに、カミとしての赤が入り混じり、紫となる。
アタラは兄には及ばないが、限りなく青に近い瞳を持つ、優れた霊力を宿した神凪だった。一方で伴神はなく、霊力のわりに戦力にはならない。おまけに、兄には一昨年、子が生まれた。男児だった。もはや、アタラの王の予備としての役割も、半ばなくなってきたに等しい。
生贄となるには、最適だった。反対の声が、あがるはずもなかった。
(どうせ死ぬ、二の君だったからな――……)
甥が七つを迎えれば、アタラの首は飛ばされる。そうやって、いままでの二の君たちと同じような死のひとつとして片づけられるよりは、ずっと有意義な死に思えた。
だからこそ、兄の瞳にも、映してもらえるような気がしてしまった。
(あの澄んだ紺碧に――……あの、失われた海と同じ色に――……)
どうして焦がれなどしてしまったのだろう。
ただ、見て欲しかったのだ。誰でもいい二の君ではなく、お前だから二の君なのだと。
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