スイレン
獣型のヨモツオニたちには見向きもせず、その攻撃を縫って走り抜けた先。アタラは刹那の迷いもなく、人型の上へ刃を振り下ろした。
が、重い手ごたえとともに激しい痺れ。ヨモツオニの背から伸びた鞭のような刃が、大太刀を軽々と弾き返してきた。
次を叩き込む猶予も与えず、次々と背から生えたしなる刃がアタラへと襲いかかる。弾き、防ぎ、避けながら、身を翻して、アタラは一度ヨモツオニと距離をとった。
舌打ち交じりに睨みつけるその先で、這っていた身体はすでにずるずると起き上がり、二本の足で立っていた。膨れ腐れた肉の塊に覆われていた頭部も、どろどろと溶け崩れながら、人らしい形を取り出している。
(まずいな)
早く斬り捨てなければ、より手に負えなくなる。アタラは構えを直すと、地を蹴り、再び一気に間合いを詰めた。
降り注いできたうねる刃の群れ。それに、瞬時に長く伸びた銀色の髪が絡みつき、動きを止める。
「大人しく、海へ還りな!」
引き上げられた口端とともに、大太刀がヨモツオニの首筋目がけて薙ぎ払われた。
瞬間。
首筋へ刃が届く寸前で、ヨモツオニの手に現れた大太刀が、アタラの大太刀を受け止め防いだ。
赤黒い膿が落ちて現れたのは、真白の刀身。アタラの太刀とよく似た
くつくつと、ヨモツオニの肩が笑い声に揺れた。
目を瞠るアタラへゆるりと首を巡らせる。その顔が――溶け落ちていく膿み爛れた肉片のうちから顕わになって、アタラは息をのんだ。
涼やかな真っ青な瞳。長くすべらかな黒髪に、アタラにどこか似た――けれど彼より穏やかな
「兄……上……」
思い出すより早く、うわ言のように唇からこぼれていた。
「久しいな、スイレン」
刃を交えているとは思えない微笑みは、低く優しい声で紡いだ。
「よもやお前が、私以外の
アタラの表情が凍りついた。その一瞬で――。緩んだ彼の手の大太刀は、そのまま空高く撥ねあげられた。
遠く、彼の名を呼ぶ主の声が聞こえた気がした。が、耳に、届かない。
力なくほどけた髪から抜け出した、刃の鞭が風を切る。
アタラは――スイレンは、兄を見つめ、動けなかった。
潮の臭い渦巻く夜空に、真っ赤な鮮血が花と散った。銀色の髪を血に染めて、仕立てたばかりの着物も無残に、アタラの身体が倒れてゆく。
その霞みかけた菫色の視界に、なおも注ぎ落ちる刃の雨が映った。千々に、裂かれ、消える――そう、血の
水晶の壁が音高く、彼と刃の間に紡がれた。斬撃に砕け消えても次々と、後か後からとめどなく、壁は月明かりを受け築き上げられる。
と、ともに、アタラの隣へと滑り込んできた黒い軍衣は、彼の傷だらけの腕を引っ掴むと、そのまま投げ飛ばすように、後方へ放り投げた。
地に叩きつけられる前に結界に受け止められた身体が、そのままぬかるんだ泥に転がる。深手というのに、乱雑な扱いこの上ない。役立たずの伴神にはお似合いだ。
(ああ、でも、もしくは、それより――結構大事に……守られた、か……)
強固にそそりたち彼を囲む壁に、そう思考が漂い、苦笑する。
都合のいい世迷い事と、切り捨ててもらいたかった。もし守られたなら、惨めが過ぎる。
だが、水晶の結界の向こう。今の主の背は、そんな下らぬ問いかけに答える余裕など、まるでないのは一目瞭然だった。
しなる刃のたたみかける嵐を辛うじて結界で弾き防ぎ、鏡一郎の軍刀は、ヨモツオニの大太刀と切り結んでいた。青く霊力の光を帯びた軍刀は、本来ならば折れかねないヨモツオニの一撃にも、なんとか食らいついていっている。
しかし、それにも限度がある。そもそも神凪の霊力は攻守でいえば、守りの力。攻めるには足りない。現に鏡一郎の刃も、ヨモツオニの太刀筋をいなし、受け止めるので精一杯だ。たとえ隙を狙えても、その首を飛ばすには威力が足りない。
「
歯を食いしばり吠える鏡一郎へ、一手に他の獣型のヨモツオニを引き受けて立ち回っていた
「大役過ぎんだろ! さすがに役者が足りねぇよ!」
人型のヨモツオニを倒すなど、並みの神凪と伴神では不可能に近い。
けれど、この場でそれが出来るのは己しかいないということも、文太はしっかり理解していた。だから言葉とは裏腹に、獣型のヨモツオニを包み込み、縛めるように結界が生み出された瞬間。合わせるように文太の伴神は、鏡一郎と対峙する人型へと空を駆けていた。
鏡一郎の才と力をもってしても、獣型を膜状の結界で拘束することが出来るのは、一瞬。その刹那に、人型とのけりをつけなければならない。
真白の刀身を半ば力技で撥ねのけて出来た、一筋の隙。そこを逃さず、鏡一郎はヨモツオニの首筋へ、軍刀を叩き落した。刃を交わしていた時よりなお堅い手応え。斬り飛ばすには遠く及ばず、わずか刀が表皮に食い込む。
だが、そのかすかな斬り筋へ、眩く
主の霊力を全身で受けて、目も眩む火花を散らす伴神たちの攻勢は、そのまま圧し斬る鏡一郎の刃とともに、ヨモツオニの首を刎ね飛ばした。
儚い白の月明かりに舞い飛んだ首が、ほのか驚嘆の表情を浮かべた。そのままどろりと溶けて、塵となる。残された身体も同じように、ぐずぐずと崩れて海水に混じり、跡形もなくなっていった。
それと同時に、鏡一郎たちの足元からゆるゆると水が引いていく。その水に攫われるように、他のヨモツオニ達も次々と唸り声をあげて消えていった。
「……あいつが〈呼び水〉だったか……」
肩で荒く息をしながら、鏡一郎は膝を折った。
運が良かった。あの人型が海水を呼ぶ核であったおかげで、奴が消えるとともに水が力を失った。そうでなければ、まだ獣型のヨモツオニは残り、溢れる潮水からは、新手が現れ続けたであろう。さすがにそれを、鏡一郎ひとりでは相手取れない。
鏡一郎は、膝元できらりと銀色に光を放ったものを拾い上げた。針だ。主の元に戻る前に力尽きたそれを手に振り返れば、文太は力なくへたり込んでいた。
「ちょっと、もう、無理だぞ……俺は。霊力、使い過ぎて、意識が――……」
そこでもう、身体は疲弊に根をあげてしまったらしい。そのままずるりと、文太は半ば地面に倒れ込むようにして寝息を立て始めた。その息遣いが穏やかなことだけが幸いだ。
針を手に立ち上がりながら、鏡一郎はあたりを見渡した。獣型のヨモツオニから落ちた真珠が転がっているが、どう見ても、あの人型のものと思しき大きさの真珠は見当たらなかった。
「――……本体ではなかったか……」
いまは引き潮。本来ならば、人型のような力持つヨモツオニが陸へ現れ出られるほど、海の水は満ちていない。あれは、海の奥にいる本物の指先みたいなものだったのだろう。おかげで神凪である鏡一郎でも、辛うじて互角に戦え、倒せたわけだ。
しかし、おそらくその次――満ち潮ともなれば、そうはいくまい。
(――兄、か……)
痺れを訴える指先へ、鏡一郎は視線を落とした。さすがに、霊力を短時間で使い込み過ぎたらしい。
鏡一郎は、唯一、まだ動ける後輩を振り返った。
「
「分かってますよ。すぐに応援呼んできます!」
倒れる文太たちを運ぶには、人手が足りない。ツバキの容体は、巳代次の霊力もあって落ち着いたようで、そんな彼女を「頼みます」と言い置いて、巳代次は駆け出していった。
鏡一郎も、己が伴神の隣に歩み寄り、座り込む。意識を失ったアタラの身体が、淡く青い光を帯びた。抉られた見るも無残な傷口を中心に、深い青は静かに輝き、人魂のように揺れる。
傷は全身に及び、どれも重たいが、これで多少回復も早まるだろう。とはいえ、明日、明後日ともいくまい。秋の夜は長いというが、彼の傷を癒すには短すぎる。
更けゆく夜風が、横たわる銀糸を戯れに撫でて、吹き過ぎていく。鏡一郎はもう一度、月を見上げた。
(次に潮が満ちた時……)
彼はスイレンではなく、アタラでいてくれるだろうか――。
彼の呪いが赤く刻まれた左目。そこが鈍く痛んだ気がして、鏡一郎は静かに目を閉じた。
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