鏡ヶ湖
きつい潮の香が満ちていた。
(やっぱり、俺はここを知っている)
樹々の枝を踏み越えて、迷いなく分け入った山裾の森の内。水面が隆起すほど波立ち、溢れた水が逆巻くその湖が、本来は鏡のように澄んだ水面をたたえていることをアタラは知っていた。
間違いなく、アタラは遠い昔、ここにいた。いまは
(人で、あった時だ……。たぶん、間違いない)
アタラは頭を抱えた。忘れていたはずのことが、覚えてもいなかった目覚めるより前ことが、ふつふつと取り留めなく、泡のように浮かんで弾けていく。
(俺が、仕えていたのは……あの時、俺は――……)
ひゅっと風切る音が耳を叩いたのはその時だった。
溢れ出た海水のうちから現れ出た、ヨモツオニ。その大きな尾が、アタラ目がけて横薙ぎに空を切っていた。
それを、鏡一郎の軍刀が弾き返す。はっとしたアタラを、青い瞳が口端を引き上げ振り向いた。
「余裕だな」
辺りには、大型の獣のヨモツオニが、次々と姿を見せている。確かにのんびり物思いにふける状況とは言えないが、皮肉交じりの一言に、アタラはむっと顔をしかめた。
「――雑魚ばかりだからね」
大太刀を手に、地を蹴りつけ、腕を振り上げた一頭を両断し、その身をさらに切り刻む。いまだヨモツオニを斬る手ごたえは重く、鉛に刃を立てるようだが、先に同じ大型を相手どった時より、動きやすい。鏡一郎の霊力も馴染み、邪魔者もいないからだ。
(とはいえ、数が、いやに多いな)
斬って消えたそばから、また別のヨモツオニの赤く膨れた脚や尾が、水のうちから滑り出てきている。
まだ引き潮なのに、異様な数だ。それも、並みの神凪の手に余る大型ばかり。
(いやな、感じだ……)
太刀を振るい、ヨモツオニを切り裂きながら、あたりを見渡す。
引き潮の時期とは思えない海水が、あとからあとから、湖を媒介に、湧き出るように溢れてきている。
基本、呼び込まれる海水を止める手立ては、神凪にはない。
呼び水となる起点の一匹を運よく引き当て倒すか、海水が引くまで、現れるヨモツオニを倒し続けるしかない。〈呼び水〉にあたるかは賭けであるし、耐久戦に、この大型ばかりは少々分が悪い。
そこに、情けない叫び声とともに、
アタラは知らず、吹きだした。その崩れた顔のまま、振り返る。
「鏡一郎、君のそのお仲間、俺は守ってやらないからね」
「安心しろ、こいつらは一応、戦力に数えられる」
「いやですー! こんな馬鹿でかいのばっかり、しかもいっぱい! 聞いてない~! 守って! 守ってほしい! 俺と! ツバキちゃんを!」
体面なく泣きわめく巳代次の上に、黒い影がさした。「へ?」と振り仰いだその頭部に向けて、太い尾が叩き落される。
それを、銀色にしなった無数の細い糸が絡めとった。糸の先にあるは、ツバキの猫のように伸びた爪だ。糸はそこから生まれている。
が、彼女の糸はとどめるには足りても、切り放つには及ばぬらしい。ぎりぎりと震える糸を引き、力をこめる操り手へ、尾を封じられた獣は、その赤く膨れた前脚を振りかぶった。
そこへ、折り重なって白銀の閃光が走る。次の瞬間には、太い前脚が赤黒い体液を迸らせ、宙を舞っていた。
巳代次が目を輝かせる。
「文太ぁ~! かぁっこいい~! 最っ高!」
「当たり前のこと言ってくれんな、照れるだろ」
黄色には程遠い声援でも、快く広い背で受け、文太が指の間に滑らせた針を、空へと投げ放つ。
瞬く間にそれは、銀色の髪、赤い瞳、額に一角を持つ、掌ほどの大きさの小人に変じた。文太の伴神。それが、閃光の正体だった。一体、一体の威力は弱いが、素早さと精密性の高さでそれを補う。寸分たがわぬ箇所への、高速の斬撃の積み重ね。それで、この堅いヨモツオニの腕さえ飛ばせるのだ。
吠え声をあげた首のひとつを追撃で刎ね飛ばし、次へと飛び交う伴神を追いながら、文太は巳代次を振り返った。
「お前もひんひん泣いてないで、霊力回して、きっちりツバキちゃん援護しろよ!」
「分かってるぅ! もう逃げられないの知ってる! ツバキちゃん、ありがと! 一緒に頑張ろうね!」
破れかぶれに声を張り上げた巳代次が、印を切った。と、同時に、ツバキの身がほのかな光を纏い、銀色の糸が煌めいた。それを合図に、ツバキが力いっぱい糸を張り、引き寄せる。とたんに、尾の力をとどめるだけで精一杯だったその糸は、千々にそれを引き裂いた。
神凪が、伴神とともに、ヨモツオニの前に立つ必要が、そこにある。
伴神に、この世に携わり、ヨモツオニと戦える力と
だが、際限なく与え続ければいいというものではない。霊力が枯渇し、神凪が倒れては元も子もないので、戦局を読み、力の使いどころを調整する必要があった。そのためにも、同じ場所で戦わなければならないのだ。
「へぇ……思ったよりは使えるね」
瞬く閃光と、しなやかに踊る銀の糸に、負けじとアタラも真珠の太刀を軽やかにふるって、新手のヨモツオニを切り裂いた。
伴神への援護に傾き、どうしても疎かになってしまう文太や巳代次の守護は、鏡一郎の結界が、的確に行っている。これならば、神凪を叩かれ、伴神が力を失うこともないだろう。
澄んだ音とともに次々と展開され、牙や爪を防ぐ水晶の盾。それでいながら鏡一郎の顔つきは、変わらず涼しい。
思いのほか苦戦はしなさそうだな、とアタラは見上げる小山ほどの獣の首を断ち、尾を刎ね飛ばして、胴を切り刻んだ。
その時。噴き出すヨモツオニたちの体液よりも、なお濃く強い、潮の香りが鼻をついた。
すっと背筋を滑り落ちた冷たい感覚に、アタラが臭いの方を振り向く。それより早く。うねり伸びる赤い鞭のような刃が、無数に蠢き飛び出してきた。
一瞬視界に入った、澱み渦巻く海水の固まり。そこから突如現れ出たそれは、一番近くにいた巳代次とツバキの上へ注ぎ落ちた。
「ツバキちゃん!」
己をかばって前へと立ちはだかったツバキへ、巳代次が結界を紡ごうとするも、形になる前に叩き壊される。切れ切れになった銀の糸が濁った風に散り、轟音が響きわたった。
だが、それでも、舞い飛ぶ砂塵の中、真珠色の太刀筋が走った。耳揺する破壊音に、甲高く結界形成の音が乱れ混じる。
「……形は、あるね」
ぽつりと滑り落ちた声に、巳代次が水晶の壁の向こうから見上げれば、大太刀を構えた美しい青年が、倒れたツバキを守って立っていた。
巳代次は、幾重にも織り上げられた結界によって、無傷で済んだ。組みあげるそばから、しなる刃に砕かれる音が重なっていたが、なお鏡一郎の結界の方が、数と強度で競り勝ったのだ。
けれどそれゆえ、ツバキへの守りはどうしても手薄となった。駆けつけてくれた真珠の太刀がしなる刃を叩き伏せるより前に、その身に負った傷が、深すぎた。胸から肩が抉られ、足が半分斬り飛ばされかけている。ツクモガミ特有の桜色の血が、着物を染め、だくだくと流れ落ちていた。
「霊力注いで、ガワを保て。いまなら十分間に合うよ」
血相を変えた巳代次がツバキに縋りつく。と、同時に、ふたりを包んで、水晶の結界が強固に紡ぎ上がった。
「鏡一郎、あれ」
隣に並んだその結界の作り手に、アタラは遠く前方。湖の上を睨む視線で示した。
「引き潮だっていうのに、どうかしてる……。――あれは、人型だ」
ゆらゆらと、水面の上を這うように近寄って来る赤く膨れた肉塊は、確かに、人の腕のようなものを伸ばしていた。動くたびにぼとぼとと、腐った破片が落ち、胴が現れ、足が姿を見せてきている。
人型は、ヨモツオニの最上位だ。獣のように力に任せて牙や尾を振るうだけでなく、道具を携え、術に似た特殊な力を扱いもする。
「ただ、海水が足りないおかげか、まだ陸で完全に形を造れていないのは幸いかな。叩くなら――いまだ」
刀を肩に、身を低く構えたかと思ったら、アタラは次には駆けだしていた。
「アタラ! 逸るな!」
「時間を与えた方が不利になる! 鏡一郎は、そっちを守ってろ!」
鋭く吠える鏡一郎にも、走り抜ける銀糸は振り返らない。だが、追おうとして、鏡一郎は苦々しげに足を止めた。その
アタラの言い分はもっともだ。早くに人型を叩き、鏡一郎は再び刃の鞭が猛威を振るわぬよう、この場で押しとどめる。真っ当な判断だろう。
しかしそれでも――妙な焦燥が、鏡一郎を焦がしてやまなかった。
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