君の違和感



 どさりと、アタラは戻った部屋に置かれていた夜着よぎの上に倒れ込んだ。冷えてきた北辺の夜にはかかせない、綿入りの着物型の寝具だ。部屋を照らすのは行灯と、白い月明かり。そのかすかな灯りに照らされた、もこもこの夜着に顔をうずめる背中は、悲哀に満ちている。

 それを見下ろしながら、すすり泣きに、仕方なしに鏡一郎は首を傾げてやった。


「夕飯は、美味かったか?」

「悔しい……! 美味しかった。でも、それよりもっと美味しいものを知ってると思う己が悔しい……!」


 残念ながら、鏡一郎の霊力は、美味いものの首位の座から、微塵も揺らいでくれなかったのである。

 魚の煮つけも、根菜のうま煮も、きのこ汁も、炊き立て白米も――ぜんぶぜんぶ美味しかった。だというのに、鏡一郎の霊力の味わいに比べれば、惜敗ですらなかったのだ。完敗、完敗だ。圧倒的に、彼の霊力の方がおいしいと、アタラの意思を無視して味覚は訴えてきた。


「……次は朝食に賭ける」

「諦めが悪いな、お前」

 決意とともにぎゅっと握られた拳に、すげなく言い捨て、鏡一郎は部屋の奥へと歩み入った。


「あ~……でも、次からは運んでもらった方がいいかもな」

 その何の気なしにこぼれた一言に、湯浴みにでもいくかと着替えをあさっていた鏡一郎の手が止まる。

「――意外だな、周囲を慮る気があるとは思わなかった」

「飯がまずくなるのを避けるためだよ。周りの奴らのためじゃない」

 勘違いするなとばかりに、アタラは鬱陶しげに答えた。


 夕食時。アタラが姿を見せると、食事に賑わっていた広間の空気は、張り詰めた緊張感に静まり返った。土地柄もあるのだろう。郡所につとめる下位の神凪、文官には、この地域の出身の者も多い。忌避の情が勝ってしまっても、無理はない。


 そもそも神凪こそ、本来ヨリシロガミを快く思わなくて当然なのだ。中央の神凪寮にだって、同じ気持ちでアタラを見る者はいただろう。たまたま出会う暇もないうちに、絹留きぬどめに来てしまったというだけで。


 天女目なばため柏崎かしわざき巳代次みよじ文太もんたらの方が、めずらしい手合いなのだ。肝が据わっている――もしくは、変わり者といってもいい。

 それが、よく分かる時間だった。


「ヨリシロガミと知ったら、あっちの方が正しい反応だよ。むしろ……さ。君の方がおかしいんだ、鏡一郎」

 緩慢に起き上がったすらりと細い身体。肩から流れ落ちる銀糸の髪の合間から、アタラは赤い紋様浮かぶ、紺碧の瞳を見定めた。

「どうして躊躇わずに、俺と契約できたの?」


「いまさらだな。あの状況で、他に道はなかった。分かるだろう? あのままでは、俺はヨモツオニの群れに殺されてた」

「あんなの数だけ多い、雑魚の群れだった」

「お前にとってはな」

「君にとってもそうだったよ、鏡一郎」

 菫色の瞳は、逸らすを許さず、まっすぐに鏡一郎を映しとっていた。


「君でなければ納得していた。間抜けにも《海境うみざかい》に落ちた神凪が、その場しのぎの救いを求めてヨリシロガミと契約したって。でも……君は違っただろう?」

 沈黙を守ったままの鏡一郎に、アタラは静かに畳みかけた。


「君はあの程度の奴らなら、群れだろうとひとりでヨモツオニを退けられた。君の力は数度見ただけだけど、俺は君の霊力と繋がってる。侮らないでほしい。君は、なかなか稀有な強い力を持った神凪だ。類まれなる才と弛みない修練。そのどちらも持っている」


「……お褒めにあずかるとは、光栄だな」

 微笑を刻んだ涼しげな口元に、アタラはあからさまに機嫌を損ねて顔をしかめた。身を乗り出し、その読めぬ無表情に手を伸ばす。


「だから、分からないんだよ」

 頬を捕らえる、人ではない冷たい体温。覗き込む息が触れ合うほどの距離に、鏡一郎は覚えがあった。あの時は、その澄んだかんばせに射しかかる月明かりは、白ではなく、満ちた蒼だったが。


「どうしてあえて、俺と契約したのか、分からない」

 赤く呪いが刻まれた青い瞳のうちに、菫色の双眸が悩ましげに揺れる。


 あの日。鏡一郎がアタラの眠る大太刀を抜き放った日。一分の躊躇いも迷いもなく、彼がアタラの主となる覚悟を決めたのは、勇気ゆえでも、愚かさゆえでもなかったろう。


 いずれ己が身を亡ぼす呪いをよしとして、アタラを伴神としたのは、相性がよかったからというだけでもあるまい。たとえ伴神探しにどれほど難儀していようと、彼はひとりでもある程度、ヨモツオニと渡り合える神凪だ。危険を冒してまで相手を急ぐ必要などないはずなのである。


(それに――……)

 アタラは、彼と出会ってからの短い記憶を辿った。そこにある、どうしても消せない、小さな引っかかり。それがいま、どうしようもなく胸を騒がせた。


「――八百年」

 こぼれた一言に、鏡一郎の目がかすか瞠られる。

「君はどうも、俺が八百年前の人間だと、確信してるようだった。俺ですら、俺がいつの時代を生きた者なのか、分からないのに」


 秋風が、開け放ったままの障子戸から吹き抜ける。月に薄絹をかけていた雲が途切れたのか、ひと際明かるくなった白い月光が、風にゆれた銀糸の上で白露のように転がった。


「ねぇ……鏡一郎。君は、なにを知っているの?」

「――……俺は、」

 冴え冴えとした月明かりに濡れるアタラを見上げ、鏡一郎が重たい唇を解いた、その時。

 慌ただしく廊下を駆け抜ける足音と、巳代次の絶叫が響いてきた。


「大変です! 少尉、大変ですー! なんかヤバめのヨモツオニが出ちゃったみたいです! まだ引き潮なのに~!」

 涙目で巳代次が飛び込んでくるより前に、すでに鏡一郎は軍刀を手にしていた。

「場所は?」

「ここから南西の鏡ヶ湖かがみがこです~! やっぱ俺も行かないと駄目ですかね?」


 当たり前だろうと鏡一郎が呆れるより先に、ぬっと巳代次の後ろから現れた大柄な人影が彼の額を弾いた。

「分かりきったこと聞くんじゃねぇの。ったく。俺の伴神、移動に向かないから、お前のツバキちゃんに連れてってもらえる?」

「文太ぁ~、代わりに俺のこともかっこよく守って~!」

「はいはい。じゃ、行くぞ。丹内にない、アタラ、道は俺たちが先導するからついて、」

「いらない。たぶん俺、分かるから」


 みなまで聞かず、アタラは鏡一郎を肩に担ぎ上げると、ふたりを置きざりに飛び出した。

 どういうことだよ、という文太の困惑の声をあっという間に振り切り、夜を駆け抜ける。

 ヨモツオニの出現を告げる半鐘の音が甲高く空気を震わせ、町全体が早くもざわめきに震えていた。


 だから、アタラは聞き逃してしまった。かすか物思わしげに落ちた、鏡一郎の小さな呟き。

「鏡ヶ湖か……」

 そう囁いた彼の声を拾ったのは、遠く澄んだ欠けめの白の月。もしくは、西の端のか細い蒼月そうげつだけだった。







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