君の違和感
どさりと、アタラは戻った部屋に置かれていた
それを見下ろしながら、すすり泣きに、仕方なしに鏡一郎は首を傾げてやった。
「夕飯は、美味かったか?」
「悔しい……! 美味しかった。でも、それよりもっと美味しいものを知ってると思う己が悔しい……!」
残念ながら、鏡一郎の霊力は、美味いものの首位の座から、微塵も揺らいでくれなかったのである。
魚の煮つけも、根菜のうま煮も、きのこ汁も、炊き立て白米も――ぜんぶぜんぶ美味しかった。だというのに、鏡一郎の霊力の味わいに比べれば、惜敗ですらなかったのだ。完敗、完敗だ。圧倒的に、彼の霊力の方がおいしいと、アタラの意思を無視して味覚は訴えてきた。
「……次は朝食に賭ける」
「諦めが悪いな、お前」
決意とともにぎゅっと握られた拳に、すげなく言い捨て、鏡一郎は部屋の奥へと歩み入った。
「あ~……でも、次からは運んでもらった方がいいかもな」
その何の気なしにこぼれた一言に、湯浴みにでもいくかと着替えをあさっていた鏡一郎の手が止まる。
「――意外だな、周囲を慮る気があるとは思わなかった」
「飯がまずくなるのを避けるためだよ。周りの奴らのためじゃない」
勘違いするなとばかりに、アタラは鬱陶しげに答えた。
夕食時。アタラが姿を見せると、食事に賑わっていた広間の空気は、張り詰めた緊張感に静まり返った。土地柄もあるのだろう。郡所につとめる下位の神凪、文官には、この地域の出身の者も多い。忌避の情が勝ってしまっても、無理はない。
そもそも神凪こそ、本来ヨリシロガミを快く思わなくて当然なのだ。中央の神凪寮にだって、同じ気持ちでアタラを見る者はいただろう。たまたま出会う暇もないうちに、
それが、よく分かる時間だった。
「ヨリシロガミと知ったら、あっちの方が正しい反応だよ。むしろ……さ。君の方がおかしいんだ、鏡一郎」
緩慢に起き上がったすらりと細い身体。肩から流れ落ちる銀糸の髪の合間から、アタラは赤い紋様浮かぶ、紺碧の瞳を見定めた。
「どうして躊躇わずに、俺と契約できたの?」
「いまさらだな。あの状況で、他に道はなかった。分かるだろう? あのままでは、俺はヨモツオニの群れに殺されてた」
「あんなの数だけ多い、雑魚の群れだった」
「お前にとってはな」
「君にとってもそうだったよ、鏡一郎」
菫色の瞳は、逸らすを許さず、まっすぐに鏡一郎を映しとっていた。
「君でなければ納得していた。間抜けにも《
沈黙を守ったままの鏡一郎に、アタラは静かに畳みかけた。
「君はあの程度の奴らなら、群れだろうとひとりでヨモツオニを退けられた。君の力は数度見ただけだけど、俺は君の霊力と繋がってる。侮らないでほしい。君は、なかなか稀有な強い力を持った神凪だ。類まれなる才と弛みない修練。そのどちらも持っている」
「……お褒めにあずかるとは、光栄だな」
微笑を刻んだ涼しげな口元に、アタラはあからさまに機嫌を損ねて顔をしかめた。身を乗り出し、その読めぬ無表情に手を伸ばす。
「だから、分からないんだよ」
頬を捕らえる、人ではない冷たい体温。覗き込む息が触れ合うほどの距離に、鏡一郎は覚えがあった。あの時は、その澄んだかんばせに射しかかる月明かりは、白ではなく、満ちた蒼だったが。
「どうしてあえて、俺と契約したのか、分からない」
赤く呪いが刻まれた青い瞳のうちに、菫色の双眸が悩ましげに揺れる。
あの日。鏡一郎がアタラの眠る大太刀を抜き放った日。一分の躊躇いも迷いもなく、彼がアタラの主となる覚悟を決めたのは、勇気ゆえでも、愚かさゆえでもなかったろう。
いずれ己が身を亡ぼす呪いをよしとして、アタラを伴神としたのは、相性がよかったからというだけでもあるまい。たとえ伴神探しにどれほど難儀していようと、彼はひとりでもある程度、ヨモツオニと渡り合える神凪だ。危険を冒してまで相手を急ぐ必要などないはずなのである。
(それに――……)
アタラは、彼と出会ってからの短い記憶を辿った。そこにある、どうしても消せない、小さな引っかかり。それがいま、どうしようもなく胸を騒がせた。
「――八百年」
こぼれた一言に、鏡一郎の目がかすか瞠られる。
「君はどうも、俺が八百年前の人間だと、確信してるようだった。俺ですら、俺がいつの時代を生きた者なのか、分からないのに」
秋風が、開け放ったままの障子戸から吹き抜ける。月に薄絹をかけていた雲が途切れたのか、ひと際明かるくなった白い月光が、風にゆれた銀糸の上で白露のように転がった。
「ねぇ……鏡一郎。君は、なにを知っているの?」
「――……俺は、」
冴え冴えとした月明かりに濡れるアタラを見上げ、鏡一郎が重たい唇を解いた、その時。
慌ただしく廊下を駆け抜ける足音と、巳代次の絶叫が響いてきた。
「大変です! 少尉、大変ですー! なんかヤバめのヨモツオニが出ちゃったみたいです! まだ引き潮なのに~!」
涙目で巳代次が飛び込んでくるより前に、すでに鏡一郎は軍刀を手にしていた。
「場所は?」
「ここから南西の
当たり前だろうと鏡一郎が呆れるより先に、ぬっと巳代次の後ろから現れた大柄な人影が彼の額を弾いた。
「分かりきったこと聞くんじゃねぇの。ったく。俺の伴神、移動に向かないから、お前のツバキちゃんに連れてってもらえる?」
「文太ぁ~、代わりに俺のこともかっこよく守って~!」
「はいはい。じゃ、行くぞ。
「いらない。たぶん俺、分かるから」
みなまで聞かず、アタラは鏡一郎を肩に担ぎ上げると、ふたりを置きざりに飛び出した。
どういうことだよ、という文太の困惑の声をあっという間に振り切り、夜を駆け抜ける。
ヨモツオニの出現を告げる半鐘の音が甲高く空気を震わせ、町全体が早くもざわめきに震えていた。
だから、アタラは聞き逃してしまった。かすか物思わしげに落ちた、鏡一郎の小さな呟き。
「鏡ヶ湖か……」
そう囁いた彼の声を拾ったのは、遠く澄んだ欠け
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます