不穏のさざ波


 菫色の瞳に飛び込んできたのは、まだ馴染みのない、シャンデリアと呼ばれている照明器具だ。夜は蝋燭の火が大量に揺れているが、いまは窓からの光で十分明るいからだろう。火は灯っていない。


 寝台に横たわったまま視線を滑らせれば、黒い軍服姿が椅子に腰かけていた。その紺碧の瞳は本の上に落とされているが、他に人影はなし。子守り唄の主は、声音を思い出す手間もなく、自然と知れた。


「……あの歌、いまもまだ残ってたんだね。懐かしい」

「覚えていたのか」

「まあ……どっちかっていうと、思い出したって方が、近いかな」

 起き上がる。右腕を見れば、すっかり元に戻っていた。再生が早かったのか、それとも――


「……結構寝てた?」

「さしたことはない。二日だ。休みとしては物足りない」

 淡々と告げながら、いまだ本から上がらない視線には、慰めではない含みがあって、アタラは悔しげに頭を抱えた。


「本来なら、もっと治りは早いはずなんだよ。寝込むなんてあり得ない。たぶんちょっと、まだ、目覚め立てで身体が上手く動いてないだけ」

「それなら、俺の霊力が馴染むまで、そう動け。連携も取ろうとせず、突っ込んでいくから痛い目を見る」

 ぱたんと閉じられた本から、青い視線がアタラを振り向いた。


「それと、例の父親。一命はとりとめた。だが、神凪かんなぎはもう続けられない。下半身が動かなくなってしまってな。まあ、傷痍武官しょういぶかん恩給おんきゅうによって、生活には不自由はないだろうが」

「それでいい、それでいい。恩給で食って、子どもとのんびり余生過ごしとけばいいんだよ。たいした神凪でもなかったんだ。俺たちには、いてもいなくても変わらないよ」


 意地の悪い言葉はけなして笑う。だが端々に、平穏を言祝ぐ情が隠しきれていなかった。あの子どもにとっては、失ってはならない、唯一の父だった。子どもを守って奮い立った。たいした父親だと、その音色は知っている。

 鏡一郎は肩を竦めた。


「お前が子ども好きとは、意外だった」

「いや別に、好きじゃないし。むしろ、子どもは苦手だよ。厄介で面倒で。ただ――」

 ぽつりと、アタラは言葉を区切った。


「子どもってのは、あったかいんだよ。それを俺は……覚えてるんだ」

 もはやいつのものかも分からない、人であった時のわずかな記憶。でもそれを、自分が抱きしめ続けていることだけは、確かなのだ。


「――そいつは守らないとって。そう、思うだけだよ」

「……――そうか」

 透徹な青い瞳は、真摯な横顔に、ただ短く囁いた。


「ところで、お前が横になっている間にも、寮内から寄付が集まってな」

 そう鏡一郎が横着して座ったまま引き寄せた小机の上。そこには、見覚えのある薄桃色の小箱が乗っていた。開ければ、小粒ながら、溢れんほどに真珠が詰まっている。


「みな、自分のツクモガミのガワを強めるより、お前のガワを守る方を優先してくれたらしい。まあ、お前のガワはまだ、それを形づくる俺の霊力と完全になじみ切ってもいないし、壊れたら、術者の俺の次には周りが喰われるからな。大怪我を負って帰ってくれば――不安がるのも分からないではない」

「むしろ、君が落ち着き過ぎでは?」


 失った腕や、負傷した足。それらを癒やすために、アタラの元来の力だけでなく、ずいぶんと彼の霊力も使い込んだはずだ。霊力は体力と同じで、時間をおけば自然と回復してくるが、体力よりもずっと時間がかかる。回復する前に使い切ってしまい、おまけに足りないとなれば、アタラのガワは保てず、崩れていく可能性がある。そうなると、呪いの餌食になるのは、まず鏡一郎のはずなのだが、彼の無表情は涼しいものだ。


「俺は自分の霊力の質の高さを知っている。お前の腕を二、三本治す程度で、潰えるようなものじゃない」

「わぁ……くそまず霊力とは思えない自負の高さ」

「お前は別に、不味く感じないんだろ?」

 ちらりと鏡一郎が見やれば、アタラは言葉を詰まらせた。


「ちりとてちんとも呻けない、鼠も避けて通る味、蛆も湧く気力が失せる……などなど、数々の汚名を被ってきた俺の霊力だが、お前にはどう感じられてるんだ?」

「やめてよ! 自分でそこまで言ってへこまないの? 俺はなんか、それを美味く感じてる己に、尊厳を削られるんだけど!」

 悲痛な非難の声もどこ吹く風。鏡一郎にはまったく気にする素振りもない。


「神凪の霊力からカミが感じる味覚は、相性だ。俺はよっぽど、他のカミとは相性が良くなかっただけだろ」

「それにしても、比喩表現がえげつなさすぎる。いっそ、そっちの味を感じてみたかったよ」

 ぶつくさと不満げに垂れながら、アタラは小箱の真珠をつまんだ。数個まとめて、それを口に放り込む。


「ちなみに、それは美味いのか?」

「別に。無味だね、無味。歯ごたえもありすぎるし、好んで食べるものじゃないよ」

 それなのに、せっせと咀嚼してくれているのか、と、思いはしたが口には出さず、鏡一郎はまだ大量にある、小箱の中の真珠を見た。


「揚げて塩でも振ってみるか」

「正気?」

 思わず真顔でアタラは返した。


 どう考えても、調理してどうこうなる代物ではない。そもそも、食材の基準で調理の俎上にのせていいものかどうかも疑わしい。見た目は美しい宝石だが、これは、ヨモツオニの膿み膨れた身体のうちから出てきているものなのだ。


 いい提案だと思ったが、とでもいいたげな顔に、アタラはまったく賛同いたしかねた。よもやこの男、とんでもないゲテモノ喰いなのでは、と疑念が過ぎっていく。


 そこへ、ノックの音が響いた。応じる鏡一郎の声とともに、扉が開く。

 背を屈めて扉をくぐる巨漢と、兎のぬいぐるみを抱く小柄な女性が姿を見せた。


「あら、目が覚めたのね。具合はどう?」

「問題なさそうです」

 微笑む天女目なばためへ、真珠をほおばるアタラの代わりに、起立して鏡一郎が答える。


「それは良かったわ。実は、あなたたちに赴いてほしいところが出来たの」

潮見式しおみしきをしたところ、不穏な流れがある地域があったそうでな。いまは月は欠けだしたが、次の満月あたりに、でかいのが現れるかもしれん」


 潮見式とは、海の水の流れを読む神凪の術のことだ。その術を得手とする神凪が、海辺近くの潮見台しおみだいに詰め、日々行って報告を上げてきている。神凪だけに見える海の水。その潮の動きから、次に大量に海水が吹き出そうな地域を探るのだ。


「場所は北端部の絹留きぬどめ付近だ。蒼の月は二週で満ちる。休養がいらんようなら、出立の支度に取りかかってもらいたいところなんだが……」

 ちらりと柏崎かしわざきの黒みがかった青の瞳は、アタラの様子をうかがった。完治前に送り出し、取り返しのつかない大怪我になってほしくないのだろう。


「三日、待ってもらえますか?」

「ええ、構わないわ。それぐらいならば、差し障らないから」

 考え込んでの鏡一郎の申し出を、柔らかい笑みで天女目なばためは快諾した。その間に、寮として行う手続きは済ませておくと告げ、そっと柏崎に目配せする。

 それに、柏崎は厳つい手のひらを鏡一郎の前に広げた。そこには、赤いひもを結んだ、薄桃色の紙包みがちょこんと乗っかっている。


「追加の真珠、アタラくんに」

「え? まだあんの?」

 驚いた声が、鏡一郎からではなく、アタラから上がった。小さな真珠とはいえ、それはヨモツオニを倒さないと手に入らない、そこそこ貴重な品だ。人にあげるよりも、自分のツクモガミを強めるのに使った方が、本来ならいいのである。すでに小箱いっぱいあるというのに、集まり過ぎではないだろうか。


「よっぽど俺が怖いのか……それとも、鏡一郎が強請ゆすりたかりを働いたか……」

「あら? 違うわ、アタラくん。鏡一郎くんは人望が厚いの。言動はだいぶ淡白だけど、どんな一兵卒でも、疎かにしないから」

「へぇ……」


 この冷淡な無表情で、と、アタラは胡乱な目で、微笑む天女目なばための賛辞を右から左へ聞き流した。とはいえ確かに、先の恩賜公園で下級兵へとかけられた鏡一郎の声音は、淡々としながらも深いいたわりと心配に満ちていた――かもしれない。


「あの心遣い、少しは私にも向けてほしいものですな……」

 聞かせるとも言えない柏崎のぼやき声が落ちたが、それは天女目なばための退出の挨拶と、返す鏡一郎の礼に黙殺された。

 いっそうの憂いを帯びた巨漢の姿を、アタラは視界からそっと外す。

 そのままふたりの上官は部屋を後にした。


 しかし、中身を振り返れば、上官ふたりがかりで赴く必要はまるでない、伝令向きの用件だ。それに、なかなかの心配をさせていたのだと知らされる。


「……次の任務では、名誉挽回といきたいところだな」

「だから今回は、起き抜けの不調ってやつだよ。そもそも足手纏いがなけりゃ、負傷なんてしなかったし」

 ため息交じりの鏡一郎に、柳眉をつりあげアタラは噛みつく。


「だいたいもう治ってるし。三日も猶予はいらないよ。すぐにでも動ける」

「ああ……別に三日の猶予は、お前の療養のためじゃない」


 意気込む語調を制して、鏡一郎は寝台の隣にあった文机の引き出しを開けると、便せんを一枚取り出した。そこにさらさらと、短くなにかを書きつけていく。

 訝しげに、アタラは整った顔をしかめた。


「じゃあ、三日もなにしてようっていうの?」

「着物の仕立てを急がせる」

 数枚の紙幣を差し挟み、ふっと吐息を吹きかけられた便せんは、白い小鳥と成り変わって、窓辺から呉服店へと羽ばたいていった。








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