恩賜公園のオニ



 皇都北東の緑地公園は、現帝の太皇太后宮おおいきさいのみやが民のためにと、私地を国へと下賜したものだ。庭園と呼ぶべき広大さで、緑豊かな散策地として、憩いの場となっている。池のそばには茶屋なども立ち並び、子ども連れも多い。


 市街の建物の群れを通り過ぎ、木々の中を突っ切って、アタラが走り抜けた先。そこには先の街中に現れたのと同じ、獣に似た形のヨモツオニの姿があった。首は三つ、四つ脚で這いまわり、牙と爪を持ち、いくつもの太い尾を振り回す。その赤く爛れた身体はぼこぼこと不規則に内側から隆起し、時に膨らんだ瘤が弾け潰れて、どろどろ濁った海水のようなものを噴き出していた。


 しかし厄介なのはなにより、見上げるほど大きな個体であることだ。獣の姿のヨモツオニは、大きければ大きいほど、強く、硬く、並みの神凪かんなぎ伴神ばんしんでは倒しづらい。


 現に、まさにアタラがヨモツオニの暴れまわる池のほとりへ飛び出た瞬間。その太い前脚に蹴り払われた神凪の身が、宙を舞って吹っ飛ばされてきた。

 血にまみれ、受け身すら取れそうにないその力ない身体を、アタラの肩から飛び降りた鏡一郎が、地面に叩きつけられる前に抱きとめ、追い討ちを仕掛けてきた尾の一撃を、真珠の大太刀が切り払う。


「自力で退けるか?」

 鏡一郎の腕の中、弱々しく頷く青年の苦しげな瞳は、淡く青引く黒。徽章もさかんですらない一兵卒だ。駆けつけた先、あのヨモツオニがいたとあっては、震えが走ったに違いない。命が惜しいのなら、応援を待つのが得策だ。

 無謀が過ぎる相手だと、分かっていただろうに、なお挑まざるを得なかったのは――


「結界も、まだ……壊されて、張り直せず……人が……」

 尾を斬り飛ばされたヨモツオニの怒りの唸り声に、切れ切れの吐息交じりの言葉は聞き取りづらい。だが、彼がここで踏みとどまった理由を知るには十分だ。


 大地を踏み鳴らす太い脚と鋭い爪に、あたりには一面、深いひび割れが走っている。まるで、獲物を捕らえる地割れの檻だ。その深く裂かれた大地に阻まれて、逃げそびれた人々が、震えながらあちこちに、散り散りに蹲っている。これでは、守りに徹することすら難しかっただろう。


 しなりながら大地を打つ尾のそば。すでに動かなくなっている軍服姿には、潰れて頭部がない。その向こう、池のほとりには腰から先がない下半身が水を赤く染めていた。池のうちの巨石の上に飛ばされた黒い軍衣も、ぴくりとも動かない。砕けた鏡と、折れた剣の残骸――ツクモガミも、もうすでに、力を失ってしまっているようだった。

 鏡一郎は奥歯を噛みしめた。


 その時だ。ヨモツオニの吠え声と、怯える人々の悲鳴の喧噪の中、ひと際鋭く悲痛な叫び声がした。

「お父さん!」


 引き留める母の腕を振り切って、六、七歳ほどの男児が、池の方へと駆けていく。あの巨石に飛ばされた神凪。それが、彼の父なのだろう。鏡一郎と同じく非番の日、家族と公園の散策を楽しんでいたのかもしれない。それが、よりにもよって、最悪の遭遇を果たしてしまった。


 池の水を踏み越え、辿りつけるはずもないのに、子どもは駆ける。

 それに、ぐるりとヨモツオニの首のひとつが廻った。


 振動が大地を揺らす。太い四つ脚が子どもは目がけて跳躍したのだ。距離がある。間もない。駆け出すのも、結界の展開も、いま一歩届けない。


「アタ、」

 命じる前に、ヨモツオニの首がひとつ、宙に飛んでいた。それと同時に、青い秋空に鮮やかに散る鮮血。ヨモツオニから噴き出る、海水交じりの濁った赤い体液ではない。

 人と同じ色。けれど、人ではない――


「アタラ!」

 鏡一郎の目の前を、太刀を握りしめたままの片腕が、隆線を描いて舞う。物のように大地に落ちた血まみれの腕から、花散るごとく太刀が消えた。


 鏡一郎の視界のはるか遠く。池に突き出た巨石の上に、アタラの姿はあった。倒れ伏した男の傍ら、子どもを残った左腕に抱えて、忌々しげにヨモツオニを睨みつけている。

 子どもの命とヨモツオニの首ひとつ。それと引き換えに、彼は右腕を鋭い爪に刎ね飛ばされたらしい。


 だが、首と獲物をとられたヨモツオニもまた、アタラに向け、怒りに牙を震わせていた。

 地を鳴らす、ひと蹴り。それだけで赤黒い巨躯は、池のうちのアタラの頭上に迫っていた。


 太い両前脚が禍々しい爪とともに振り下ろされる。巨岩が砂城のごとく容易く砕け、池の水飛沫とともに破片が飛び散る。


 その獰猛な一撃に吹き飛ばされて、銀糸が翻弄されるままに宙に放り出された。その片腕は子ども抱え、黒い軍服姿を引っ掴んでいる。

 だから、上手く避け損ねたのだろう。着地をしくじった細い身体は、叩きつけられるように地を跳ね、転がった。おまけにその足は、爪に抉られたらしい。深い裂傷に、黒い服がなお明らかに、赤く血に染まっていた。

 そこへ間髪置かずに、長く太いしなる尾が、風を切って叩きつけられる。


 耳をつんざく破壊音と、甲高く澄んだ結界展開の音色。

 自身を守って組みあげられた水晶のような光の壁を、菫の瞳が見上げた時には、隣に術者が駆け付けていた。


「子どもは?」

「無傷。あと、親も息があった」

 主の問いに短く答えて、足を引きずり、伴神は立ち上がる。二の腕の中ほどから先は、いまだ、だくだくと血がしたたり落ちていた。


「ったく、子どもはこれだから面倒だ。もう突っ走らないように、しっかり見とけよ、主様。さっさとこいつを倒して治療しないと、そいつの親はもたない」

 冷たく言い捨てるわりに、声もなく泣き、怯える子どもと、その子が縋りつく親を押し付ける腕は優しかった。


「あいつは俺が仕留める。結界、きっちり張っておけよ。このヨモツオニ、地のひと揺すりで結界にひびを入れてくる。もう、戦うほかに気を配る優しさは、使い切ったからね」

「お前、その傷でどう、」

「かすり傷」

 鏡一郎が言い終わるを待たずに笑って、アタラは再びヨモツオニへと向かって駆け出した。


 怒り交じりに足が地を踏み鳴らし、尾が所かまわず大地を叩くが、散り散りになった人々を個々に守って象られた、鏡一郎の結界はびくともしない。

 ここまで強固に、かつ、緻密に各所へ複数も結界を張れるのは、なかなかの技量だ。相棒の腕前に満足しながら、アタラは、己へ向けて流れた尾のひと振りを飛びのき避けた。


 斬り払われた首の部分で、ぐつぐつと、なにかを煮詰めたのように体液が沸いている。じきに次の首が生えて出てくるだろう。

(大型はこれだから厄介なんだよな……)

 先に市街地で相手どったような雑魚ならば、一太刀、二太刀浴びせれば、再生する余力もなく、霧散する。だが、強い個体は、生命力――この生物というべきか分からないモノに、その言葉が適切なのかは知らないが――それも強力なのだ。多少の傷では、倒れることなく再生する。


 だから、もっとずたずたに。その強靭な生命力が及ばないほど、切り刻まなければ倒せない。

 だが、強ければ強いほど、その身も堅い。先に尾や首を斬った手ごたえは、ひどく重たかった。


(まぁ……)

 アタラは唇を引き上げた。

(なんとかなるか)

 足は負傷で素早く動くには差し障る。片腕も、ヨリシロガミとはいえ、さすがにすぐには戻らない。だから――


 横薙ぎに首を狙ってきた鋭い爪の一撃を、アタラは残った左手で押さえ込んだ。淡く白い光を纏った細い腕が、大木のような前脚を防ぎ止める。

 だがその頭上に猛る吠え声。牙を剥いた赤黒く腫れ爛れた大口が迫るのに、ふと、菫色の双眸は意地悪く微笑んだ。瞬間。


 白刃が閃いた。

 身の丈をはるかに越して、長く伸びてうねる白銀の髪。そこに絡めとられた真珠の色した大太刀が、巨大なヨモツオニを千々に切り刻んでいた。

 ばらばらにされた膿んだ身体が、苦悶の吠え声とともに散り、溶け、消えていく。


「……人じゃないってのは、便利なこともあるもんだね」

 常の腰ほどの長さに戻った髪を左手に絡めながら、アタラは小さくこぼした。その足元へ転がり落ちた真珠を拾い上げる。


「結構な大物でも、この程度かぁ……」

 それは小鳥の卵ような、掌のくぼみに、ちょうど納まるほどの大きさだった。いままでの指で摘まめるものに比べれば大きいが、負った傷に比べると割に合わない。


「足手纏いがなけりゃ、もっと楽にやれたのになぁ」

 不満をこぼしながら、微笑む唇で振り返る。

 駆け寄ってくる鏡一郎の向こう、父に抱きつく子どもの姿が見える。まだその顔は悲しげな泣き顔だ。無事が保障されてないのだから、当然だろう。


(鏡一郎も、俺のことよりさっさとその父親を手当てしろよ……)

 やれやれと、優先順位を間違えている主に肩を竦めた。その視界が、霞む。

(あれ……?)

 見誤ったのはどちらの方だったのか――。

 倒れ込んだアタラの身体は、滑り込んだ鏡一郎の腕に支えられた。





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