皇都散策



「俺の頃とはずいぶん様変わりしたものだねぇ」

 吹き抜ける秋風が、銀色の髪を撫でていく。その心地よい涼しさに、ぐっとアタラは伸びをした。身に纏うのは、鏡一郎と同じ、黒い軍服だ。


 ツクモガミはみな、銀色の髪、赤い瞳を持つ。アタラはヨリシロガミゆえ、瞳の色は紫だが、そこは一般の者たちには分からぬ違いだ。

 銀の髪、菫の瞳の彼がうろついていても、伴神ばんしんになれた皇都こうとの人々は何とも思わないだろう。神凪寮かんなぎりょうがあるこの国の首都の住民にとって、銀色の髪は見慣れた存在だ。しかし、纏うのが死に装束とあっては話は別である。


「建物も道も石でできてるし、なんか鉄のぼんぼりが立ち並んでるし」

「あれはガス灯だ。俺の生まれる少し前に、海渡うみわたりが出来る鳥船とりふねが出来てな。操り手の神凪のほか、数名が乗れるだけで、大した距離も進めないが、それでも……一番近い島国に渡ることに成功した。そこから取り入れた文化だ」


「へぇ……すごいな。俺が人だったころは、海を渡るなんて考えられもしなかった」

 感嘆とともに、その薄く綺麗な唇が笑みに色づいた。それに、何とも形容しがたい気持ちを抱いて、鏡一郎は様変わりしたという、皇都の街並みを見やる。

「……八百年も経てば、色々変わる」


 ヨリシロガミは、未来のために殺された人間だ。より良き明日を守るため、多くの行く末を救うため、死んでカミになれと迫られ、ナレノハテの器とされた生贄――。

 そうして、ヨモツオニと戦うための武器として使役され、その後、忌避されるようになってからは、永劫ともいえる時間を封じられて過ごした。

 望んだ者ばかりが、ヨリシロガミになったわけではない。だからこそ、余計、ヨリシロガミは、神凪を、人々を、呪う存在となり得るのだろう。


「……アタラ、お前は、人であった時のことを覚えているのか?」

「さっき言った程度のことは覚えてるよ。どんな時代を生きてたのかってのを、少し。でも……自分のこととなると、ほとんど忘れてしまっていてねぇ。俺は、俺が人であった時、誰であったかをもう知らない。名前も、生まれも、どうして依り代となったのかも、ね」

 遠く、淡い紫色は、秋の空を見上げた。その涼やかな風にのる声に、悲嘆はない。もう人ではないと、受け入れきっている声だった。


「だから、俺の人であった部分に、妙な期待を寄せても無駄だよ。いまは君を喰らうほどガワが壊れて餓えちゃいないが、いずれきっと、俺は君を喰らう。そして君が今度は、ヨリシロガミのガワになるんだ。そいつはそういう、呪いだからね」

 くすくすと笑う指先が、鏡一郎の左目すれすれを掠めていった。

 思わず瞬き身を引いて、鏡一郎は渋く顔をしかめる。


「別にそんなことを期待して聞いたわけじゃない。それに悪いが、呪いはいずれ返上させてもらう。俺をただの神凪と見くびらないことだ」

「わぁ、強気。楽しみだな~」

 挑むように睨み下ろす鏡一郎へ、まったく心のこもらぬ調子でアタラは嘯いた。


 その時だ。靴先で、ぱしゃりと水の跳ねる音がした。

 はっと二人が足元を見れば、薄く水溜まりのようなものが、じわじわと石畳に広がってきている。

 いまはまだ空は太陽の時間。麗らかな秋の日差しが降り注いでいるが、いずれ昇る月は満月の時期だ。つまり――


「満ち潮だ……。退避しろ!」

 低く鋭く鏡一郎が周囲を行き交う人々に叫んだ。

 瞬間、見る間に広がった水がとぐろを巻き、赤く膨れ爛れた肉塊が次々と這い出てきた。四つ脚の獣に似た形状。

 石畳みを蹴りつけ、抉り、駆け抜けた獣が、逃げ惑う人々へ飛びかかる。


 そこへ一閃。真白のきらめきが迸った。真珠色の刀身を鮮やかに薙いで、アタラが獣を斬り伏せていた。

「邪魔だよ、逃げて」

「は、はい……!」

 腰を抜かした恰幅のいい男性が、菫の瞳に鋭く睨み下ろされて、這う這うの体で逃げていく。

 と、同時に、ヨモツオニの群れと、逃げる人々の間を隔てて、水晶の壁のようなものが並びたち現れた。鏡一郎の結界だ。


「おお、神凪様がおられた!」「伴神もいる!」「こんな近くに。運がいい。助かった!」

 そう口々に有難がる声を、遠く結界の外に聞き流しながら、鏡一郎は腰の軍刀を抜いた。背中合わせに並び立つアタラに、振り向かずに告げる。


「衆目を集めるのは趣味じゃない。早々に片付けるぞ」

「はいはい、お手を煩わせるまでもなく。すぐに片付けますよ、主様」

 凛と背筋伸ばして軍刀を構える鏡一郎の背で、アタラは刀を肩に、低く、獣のように身構える。

 水晶の壁の向こうに行けず、苛立たしげにヨモツオニたちが唸りながら、ふたりを囲んだ。

 それは――一瞬のこと。


 ふたりの背が、合図もなく、時同じくして地を蹴り離れた。黒い軍衣の裾がたなびき、銀色の髪が鮮やかに流れる。

 振り被る太い脚の爪をさばき、青みを帯びた軍刀が次々とヨモツオニの首を刎ね、空を舞うように滑る真珠色の太刀が、胴を切り離す。


 鏡一郎が刀を収め、身を起こしたアタラの軍靴ぐんかが赤く汚れた水溜まりをぱしゃりと弾いた時には、もうヨモツオニの断末魔の叫びさえ終わっていた。

 ただ、降り落ちた白い真珠がころころと、彼らの足元を転がっていく。


「雑魚だね、雑魚」

 水晶の結界がほどける、高く澄んだ音色が響く中、そう言い捨ててアタラは足元の小さな真珠を一粒拾い上げた。

「真珠もこんなちっさいの。ガワの足しにもなりやしない」


「おい、拾い食いするな。せめて洗え」

 ぽいっと宙に放られ、鋭い八重歯のぞく口の中に落ちていった真珠に、鏡一郎は渋い顔をした。が、アタラは聞く耳持たずに、己が話を続ける。

「でもいまので改めて分かったんだけどさ。どうもこの軍服ってのは、俺には動きづらい。靴も窮屈だ。身体に馴染まない。着物の姿に戻っていい?」

「それがあの死に装束に戻るという意味ならやめろ。着物がいいなら仕立ててやる」


 あの左前の白い着物姿は、彼がヨリシロガミとして贄となった時のものだ。ヨリシロガミの一部として、その力で織り上げられており、消したり着込んだりは可能なのだが、他の衣服に変えることはできないのだ。


「そいつは気前がいいね、主様。ひとつ正絹しょうけんの絢爛豪華なのを頼もうか」

「どうせ汚れる着物に大枚をはたけるか。こちらは薄給だ。普段使いなら木綿で充分だろ」

「もめん?」

 なにそれ、と不可解げに、柳の芽のような美しく白い眉が寄る。


「ああ、そうか……。お前の時代には、まだなかったな」

 アタラが生きた時は、鏡一郎の生きる今とは違う。理解していても、どうもその感覚は薄くなりがちだった。出会った時から、当たり前のように会話をこなせているせいだろう。

(……いや、そもそも――)

 思考の深みに落ちかけた鏡一郎の脳裏に、明るい月夜の情景が過ぎった。だが――


「鏡一郎」

 凛と鋭く、彼の名を呼ぶ声に、意識を引き戻される。

「まだ、潮の臭いが消えていない」

「なんだと?」

 ヨモツオニを呼び出す水は、海の水だ。だから、潮の臭いを伴う。それが消えていないということは、まだどこかに、海と繋がる場所が残っているということだ。


「俺は……感じないが」

「近くじゃない。かすか、遠くからする。いま風向きが変わったから……北東の方には、なにがある?」

「――広大な池を抱えた恩賜おんし公園だ」


 皇都の地図を瞬時に頭に描きだし、忌々しげに、鏡一郎は頭を抱えた。

 満ち潮の時は、殊、所かまわず海水は陸地に染み出し、吹き出し、押し寄せる。市街地だろうと、山奥だろうと、おかまいなしだ。しかしそれでも、まったく水の気配がないところよりは、水場の近くの方が、よりヨモツオニの海水と繋がる可能性が高く、その量も多かった。


「急ぐぞ、アタラ。ここまで潮の臭いが届くとは……大事だ」

「この履物、走りにくいんだけどなぁ」

 口を尖らせるアタラの言葉を最後まで待たず、鏡一郎は走り出した。

 それに、銀の髪持つ伴神は肩をすくめる。と、一瞬で主の隣へと追いつき、そのまま肩に担ぎ上げた。


「これの運び方でよろしいかな? 主様」

「問題ない」

 尋ねながらも元より否を聞く気はないようで、止まる素振りもない肩の上、鏡一郎は笑った。

 見上げていた石造りの建物の上を、軽々と舞い飛んで、なびく銀糸は、秋空を駆けた。






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