神凪《かんなぎ》(1)
盛大な溜息が、
「
もう一度、腹の底から溜息を落として、精悍な髭面は頭を抱えた。
彼は
鏡一郎は、そんな上官の前に折り目正しく起立しているが、その顔に申し訳なさや心配といった、柏崎の心情を組む表情は浮かんでいない。無だ。無。すっきりと整っているだけに、よけいその我関せずの涼しさが悪目立ちしていた。
「もぉ! みんなお前のこと心配してるんだから、もうちょっと、こう! あるでしょうが! 殊勝さ!」
「いまさら俺が殊勝になりましても、変なモンにとり憑かれたと、心配させるかと」
「変なモンにとり憑かれてるのはもう心配してるの!」
大きな掌をそえ、柏崎はさめざめと嘆く。
彼らは、
彼らの住まう
だが多くの者は、海を見ることはできない。ただ
海に満ちる水が見えるのは、青い瞳を持つ者たちだけだ。霊力を持つ、神凪。彼らだけが、海の水を見、触れることができた。
神凪が人々に畏敬をもたれるのは、彼らが人々を、ひいては国を、海から守る存在だからだ。
人々にとって、海は――恐ろしい場所だった。
誤ってそこに踏み込めば、溺れ死ぬ。見えもしない潮水に、呼吸を奪われ、谷の底に引きずり込まれて、戻ってこられない。しかもそれだけでなく、海は、人を襲う異界のモノ――ヨモツオニを呼び寄せるのだ。
海は、遠い神代の昔は、蒼く、豊かに水を湛え広がっていたという。しかしある時、ヨモツオニに奪われた。そのためいまの海には水がなく、代わりに、蒼い月が空に浮かんでいる。
この世に昇る、ふたつの月。片方は本来の白い月だが、もうひとつの蒼い月は、海の成れの果て。ヨモツオニが奪った、海の水の変わり果てた姿だ。
蒼い月が満ちるとともに、海には見えぬ水が溢れ、陸地のいたるところに滲み出、吹き上がる。そしてその海水を出入口に、ヨモツオニが現れるのだ。
ヨモツオニは人を襲い、殺め、海の向こうに引きずり込む。姿かたちは様々だが、赤く膨れ爛れた肉体を持つことが共通した、異形のモノだ。
人はそれに、抵抗する力を持たなかった。ただ神凪たちだけが、人でありながら、ヨモツオニと戦えた。
神凪はいにしえから、己が霊力でもって、人々を守る結界を造り、戦う力と変えて、ヨモツオニを迎え撃った。とはいえ、それは守りは固いが、攻めるには微々たる力しか持たないものだった。どうも、神凪の持つ霊力というのは、守るに向き、攻めるに向かぬ性質らしい。
だから、神凪だけでは、戦闘力が足りない。それを、どう補うか。その答えが――
「
柏崎はいくどめかの嘆きの吐息とともに、いかつい肩を大きく下げた。
「伴神は、我々神凪にとって、伴に戦う剣、守りとなる盾だ。だからこそ、神凪にとって、命を預け得る、安全な相手を選ぶべきだというのに……」
神凪は、伴神と呼ばれる契約相手――もとい、配下を得ることで、戦闘力を補った。
伴神となるのは、かつて神であったモノのナレノハテだ。
昔、まだ海に水が満ちていた頃、神々と人はともにこの地に住んでいた。
だがヨモツオニが、海の向こうから攻めてきて、神々と人の国を脅かした時。神々はその力でもってヨモツオニを迎え撃って戦い、そして――敗れてしまったのだ。
海はヨモツオニに奪われ蒼い月となり、神々は滅び、消え果てた。
神々は、人も国も守れなかったのだ。
ただ神々の力の残滓だけが、かすかこの世にとどまった。とうてい、人を守るには及ばぬ力。それどころか、神々のように意思も人格もない。ただの力の残りかす。人々から失意を込めて、ナレノハテとそれは呼ばれた。
だが、ナレノハテは少しずつ、少しずつ、この世の物体のうちに溜まることで、わずかながら、往年、神であった時の力の名残りを取り戻した。ナレノハテが溜まり、神の力を帯びた剣、宝石、人形、鏡――そうしたものはツクモガミと呼ばれた。
ツクモガミは、単体では、この世に力を及ぼせない。所詮はナレノハテの集合体。それが、物体に宿り得ただけだからだ。
そのツクモガミに、この世に携われる力と
ナレノハテの集合体であるツクモガミは、滅びた神々の無念を抱いているからか、ヨモツオニを倒すことを本能で望んでいた。そして神凪も、ヨモツオニを倒す戦力を求めていた。
だから、ツクモガミが神凪の霊力を得て、その伴神として戦うことは、互いに利のある関係となったのだ。
ゆえに、神凪は、己が霊力と相性のいいツクモガミを探し出し、伴神として使役するようになった。この相性というのが肝要で、これが良ければ良いほど、ツクモガミは強靭なガワと、強い力を引き出せた。逆に悪いと、そもそも、ツクモガミはガワを得られない。ナレノハテが溜まった、物体のままだ。
「お前は霊力は強いが、相性のいいツクモガミがまったくいなかったからな。確かに、『頑張って自分で探せ』、とは言った。言いはしたが……なんでよりにもよって、ヨリシロガミにしちゃったのよぉ!」
「ですから、ご報告した通り、うっかりヨモツオニ側の領域付近、《
「状況も経緯も何度も聞いた! それでも惜しくてなんらんの! お前の霊力は、次代を担えるものなのに、呪いを受けたんだぞ! ヨリシロガミは最後に神凪を喰うって知ってるだろうに、どうして……まったく……」
涙目で吠えていたかと思えば、意気消沈する柏崎。そんな己を心配する上官を、忙しそうだな、と鏡一郎は他人事で見つめる。その青い左目には、はっきりと、赤い呪いの紋様が刻まれていた。
ヨリシロガミは、ツクモガミと少し異なる。ナレノハテが溜まり、往年の神の力の一部を取り戻した存在――という点は変わらないが、ガワとなったものが違うのだ。
ツクモガミは、剣、鏡、宝石――いわゆる物体をガワとしたもの。一方、ヨリシロガミは、人を、ガワとする。
要は、ヨリシロガミは、元は生贄とされた人間なのだ。
ツクモガミは、ナレノハテが自然に溜まり、留まった物体だ。ゆえに、神の力の名残りを持つとはいえ、それはかつていた神に遠く及ばない。
そのため、昔、強く強大なヨモツオニに対抗するため、ある方法が編み出された。いまは禁忌とされている、神凪の呪法。それにより、ナレノハテを強制的に、人間の中に大量に溜め込み、より強い神の力を持つ依り代としたのだ。
だが結局、ナレノハテは、昔の神々の力の残滓と恨みの念だ。人の身ごときに溜め込むには強すぎた。依り代たちは、死してヨリシロガミとなり、神凪と契約して力を揮ったが、力を使うごとに、溜め込んだナレノハテに蝕まれ、ガワを保てなくなっていった。
ガワを保てなくなったヨリシロガミたちは、自我を失い、保てなくなったガワを補おうとでもするように、己が主の神凪を襲い、殺し、肉体を奪った。そうしてどんどん、神凪の手の及ばない、新たな怪物となっていってしまったのだ。
「――もともと、人の命を犠牲にして、武器としてのカミを生み出そうという邪法だ。当然辿るべき結末だったんだろう。が、だからこそ、ヨリシロガミはみな、封印されたんだ。それを、なんで、起こしちまうかなぁ……。もう、ヨリシロガミは厄ネタなんだよ、存在が……」
「
「俗語も飛び出すわ! こんな状況!」
だんっと、柏崎は机を叩き鳴らした。しかし、眉ひとつ動かさず、鏡一郎は言う。
「とはいえ、俺の伴神としたヨリシロガミは、ずいぶんと〈人〉であった時の人格や意識を保っているようです。長らく封印されていたおかげでしょうが……なのでしばらくは、使役しても、急に喰われることはないかと」
「お前それ、首絞められながら、まだ息できるから問題ない、って言ってるようなもんだって自覚ある?」
「まあ……ですが、正味な話。俺の霊力と相性のいい、貴重な存在なのは、間違いないですから。ツクモガミより力が強いことは保証されてますし、手離すのには惜しい伴神かと」
「呪い付き高性能を、俺は装備としては推奨しない主義。地道にいってほしい。とはいえ、まあ、お前の霊力に相性がいい相手が、貴重なのは確かだ……」
柏崎は改めて、しみじみと目の前に立つ部下を見上げた。
すらりと高い上背。細身だが、しっかりとした体躯。さらりと艶やかな黒髪は、神凪としては珍しく短く切りそろえられている。すっきりと端正な顔立ちは男の彼から見ても凛々しく、黒い軍装とよく似あった。深く澄んだ、鋭い青の瞳に、赤い呪いがあるのが痛ましい。
が、彼はどこからどう見ても、いい男だった。だから彼と出会った時は思いもよらなかったものだ。その麗しい彼の霊力がよもや――
「お前の霊力、くそ不味いらしいもんな。人もカミも食べてはいけない味、純粋に毒、肥溜めに飛び込んだ方がまし――などなど、様々な最低評価を残して消えたツクモガミたちの断末魔、忘れられん……」
相性の良し悪しは、味覚により識別される。神凪寮では新人たちに、寮で預かりとなっているツクモガミたちをあてがい、相性がよければそのまま伴神としてもらうのだが、鏡一郎はことごとく、ツクモガミたちが白旗をあげていったのだ。強い霊力ですが、とても食えたものではありません――と。
一度実体化しながら、その霊力の不味さに、のたうち苦しみながら姿を消し、元の物体に戻っていくツクモガミたちの憐れな様を、柏崎は忘れられない。惨憺たる光景だった。
そう、彼が遠い目をした時だ。ノックもなく、扉が開いた。
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