ヨリシロガミと神凪の海

かける

ヨリシロガミ

 抜き放てば、呪われると分かっていた。

 けれど、他に選ぶ道があっただろうか。


 軍服の裾を翻し、鏡一郎きょういちろうが走り抜けた、長い長いうろの奥。とつじょ開けた広い巌の空間は、潮の匂いに満ちていた。ただ、外の風も感じられたのは、ぽっかりと崩れ開いた大穴のためだ。天に向かって開いたそこから、蒼い月明かりが射しこぼれている。


 そのさざめく海色の光の中に、それはあった。一振りの、大太刀。朽ち毀れた刃は星霜にさらされてなお輝き、切っ先は深く岩に突き立てられている。岩肌に張り付いた、腐れ落ちかけた荒縄の名残りが、そこが神の居るべき場所だと告げていた。


 切れ切れの息を、整える。あれを抜けば、どうなるか。神凪かんなぎである鏡一郎には分かっていた。

 だが、耳へと迫る背後からの足音。ずるずると這いずるような振動。雷鳴のように地を打ち鳴らす轟音。

 それが、鏡一郎の決意を急かすようだった。

 どのみちあの太刀を抜かなければ、背後から迫る異形の怪物の群れに襲われる。


 整えた息を飲み込み、もう一度、鏡一郎は駆けだした。剣の元へ、蒼い月明かりの海を縫う。視界の端に洞の奥から溢れ出た、赤く膨れ爛れた怪物たちの姿が見えた。だがその時にはもう――。

 彼は、ぼろぼろの太刀の柄に手をかけていた。


 抜き放つ。それは、真綿のうちから針を引き抜くように。岩に深く刺さっているとは思えないほど、力を入れずとも容易く出来た。

 とたんほとばしった真白い光が、月光の蒼を薙ぎ払う。洞の細道から飛び出した怪物たちが、眩さに怯み、奥へと波のように退いていった。


『――やあ、勇気があるのか、愚か者か。君が俺の主様かな?』


 鏡一郎の手から、太刀が滑り溶けるように光の帯となって渦巻いていく。その中に、笑み混じりの澄んだ声が響いた。

 眩さに目をすがめながら見上げれば、ほっそりとした人影が浮かんでいる。長い銀色の髪。凛と切れ長な瞳は菫色。鏡一郎へと向けれたかんばせは、目を奪うほど端麗で、肌は白雪のようだ。纏う衣は、左前の白のひとえ。――死に装束だ。


『さあ、本当に俺の主になることを望むなら、名を与え、名を告げてよ。それとも、ヨリシロガミはお断りかい?』

 試すように首を傾ぐ、人ならざる青年。


 異形たちが退いたのは、一時のこと。入り口に群がり、赤く爛れた身体を揺すり動かして、船虫のごとく迫って来る。

 青い瞳に青年を映しとったまま、鏡一郎は口端に笑みを刻んだ。他に選ぶ道が――あるはずもない。


「お前の名はアタラ。俺の名は丹内にない鏡一郎きょういちろう。俺がお前の――主となる神凪だ」

『心得た』


 ふわりと薄く形のいい唇が引き上がった。それまで茫漠と、遠く鼓膜を震わせるようだった声が、明瞭に響きを変えていく。

 と、同時に、左目にずきりと痛みが走って、鏡一郎は思わず蹲った。その低く下がった視界に、地に降り立つ、履物のない白い素足が滑り込む。


「さて、もの好きな主様。契約は終了だ」

 ふっと頬に添えられた手は冷たい。顔を引き上げられて、その菫色の双眸に、息が通うほど近く覗き込まれる。そこに映った見慣れた己が姿に、ひとつ添えられた変化。

 鏡一郎の左目には、赤く色づく紋様が刻まれていた。ヨリシロガミと縁を結んだものが受ける、呪いの形だ。


「俺の呪いが君を喰らうまで――俺は君のアタラ。君は俺の主だ。鏡一郎」


 鏡一郎の頬からそっと手を離した瞬間、アタラの纏っていた光が消え、彼は一瞬にして、飛ぶように駆けていた。その手のうちには、いつの間に現れたのか、一振りの大太刀。真珠の色した刃が、蒼い月明かりに輝いている。


 アタラは、洞の向こうから押し寄せる異形の一群を、瞬きのうちに薙ぎ払った。

 膨れた身体を真っ二つに斬り離された異形たちが、断末魔とともに赤黒い塵と消える。その名残とばかりに、白く小さな欠片が、煙の消えた跡から、月光を弾いて散り落ちてきた。真珠に、似ている。


「さて……久方ぶりだからなぁ。雑魚相手とはいえ、鈍ってないといいけれど」

 そう太刀を肩に、楽しげに歌った声は、なおも続く怪物たちへ凄絶に微笑んだ。






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