天の光はすべて牛

獅子吼れお🦁Q eND A書籍化

天の光はすべて牛

 僕には三分以内にやらなければならないことがあった。バッファローになり、すべてを破壊しながら突き進み、地球に迫る隕石を砕くことだ。


 7月7日の蒸し暑い夜。いつも通り、誰とも喋らないままバイトを終えた帰り道。何気なく夜空を見上げると、南の空にきれいな星が浮かんでいた。それを見た瞬間、僕の頭の中に突然、その使命は流れ込んできた。


 今、地球に隕石が迫っている。当たれば地球は終わる。僕はバッファローになって、天を駆け隕石に体当たりしなければならない。そんな荒唐無稽なことが、当たり前の事実のように、「あ、そうなんだ」ぐらいのテンションで、脳に刷り込まれた。しかも、決行の時間は三分後だ。

 そっか。じゃあ、死ぬなあ、僕。ぼんやりそう思って、僕は持っていたコンビニの袋からアイスを取り出し、封を切った。いっしょに買ったタルタルのり弁を食べている時間はなさそうだった。

 ガリガリくんの梨味は、夏の熱気で少し溶けかかっていて、少し急いで食べなくちゃいけない僕にとってはちょうどよかった。

 しゃく、と前歯を立てると、神経に冷たさが染みて、同時に梨の味が広がる。


『――でもこれ、本当はりんご味なんだよ』


 彼女の、そんな言葉が思い出される。僕が、唯一付き合った……いや、今も一応、別れてはいないのかもしれない、彼女。梨だかりんごだか定かでない味の氷の粒が舌の上で溶ける感触とともに、彼女との思い出が蘇る。

 『私は外見とか気にしないから』。付き合うに際しそう言った彼女の言葉が嘘だと、流石に僕もわかっていた。結局、手を握ることも、いっしょに歩くことも、それ以上のことも、彼女とはしなかったのだから。


 僕は醜かった。本当に不細工で、本当に損してきた。変な形の顔の骨も、何もしていないのに生えてくる謎の剛毛も、細すぎる目も、荒れきった肌も、全部嫌いだったし、当然他の人から好かれるはずもなかった。いろいろ努力もしようとしたが、化粧も整形もアレルギーのせいでできず、努力をすることすらできなかった。人間の顔を見ると、自分がいかにひどく『そこ』から外れているか思い知るから、できるだけ人と会いたくなかったし、会わなくなると当然人と話せなくなって、どんどんひきこもっていった。

 半ば追い出されるみたいに実家を出て、見つけたバイト先。コンベアの上のパンの向きを揃える仕事は、キツくて薄給だったが誰とも喋らなくていいし、顔もずっとマスクで覆われているのでありがたかった。彼女と出会ったのは、そのバイト先だった。

『絵、描くの?』

 休憩時間に僕のスマホを盗み見て、彼女は声をかけてきたのだ。ちょうどSNSにイラストをアップロードするところだったので、絵を描くことがバレてしまった。

 とっさに何か言おうとしても、うまく口が回らない。

『いいよ、落ち着いて』

 彼女は優しい声でそう言って笑った。たぶん工場に入る時とかに見たことがある人だったが、マスクをつけていない顔を見るのは初めてだった。顔の造形は関係なかった。自分に興味を持って、罵倒したり嘲笑ったりしないで、話しかけてくれるだけで、ものすごくかわいく見えた。

 ゆっくり話すと、彼女も同じひきこもりのような感じだという。

『私さ、Vチューバーやろうと思ってるんだ。でも、イラストとか用意できないしさ。描いてくれない?そしたらさ、付き合ってもいいよ。私、外見とか気にしないし』

 出し抜けにそんなことを言うので、僕は驚いたが、もう彼女のことが好きになってしまっていたので、頷くほかなかった。


 結局、イラストは、というか彼女の求めるような、ヒラヒラ動くようなかわいい女の子のイラストはとても難しくて、作業は難航した。僕はものすごくがんばって、なんとかできあがったものを見せると、彼女は少しだけ見て、『ありがとう』と言った。そしてそのあと、僕にアイスを奢ってくれた。それもたしか、1年前の7月だった気がする。

 工場の売店で買ったガリガリくんの梨味を二人で食べる。

『おいしいよね、ガリ梨。私、一番好きかも。でもこれ、本当はりんご味なんだよ』

 渡したイラストのことは一切ふれないで、彼女はガリガリくんを食べていた。休憩室の青白い蛍光灯が、彼女の白い頬を照らした。

 

 その後すぐ、彼女はバイトをやめた。『遠距離恋愛にしよう』というラインが来た。たしか、愛媛だか徳島だかに引っ越したらしい。それ以降少しだけやりとりをして、最後に送ったメッセージには既読がついていない。彼女がVチューバーになったという話も、僕の渡したイラスト配信に乗っているという話も、全く聞かない。でも、別れようという話もなかったので、まだ付き合っている、と言えなくもないのかもしれない。何も話さないで、既読もつかない状態を、付き合っているというなら。


 思い出に浸っていると、残り時間が二分を切っていた。ガリガリくんは溶けて、ねばつく水になって僕の手を汚していた。

 よく考えると、もうすぐ死ぬのだから、もっと思い出すことがいっぱいあって然るべきだったのかもしれない。何か葛藤のようなものがあるのが普通かもしれない。でも、何もなかった。隕石を砕いてやるぞという使命感も、死にたくないという執着もなかった。ただ、悲しいなあ、という思いはあった気がする。

 もう、体の変化が始まっている。全身が膨らみ、灰色の長い毛が体を覆っていく。頭の骨が歪んで、見えないけどたぶんツノになっていく。体が前にせりだし、立っていられなくなって、ガリガリくんは地面に落ちた。当然のようにハズレだった。

 バッファローって、どんな生き物だったっけ。なんか牛のような感じだったのは覚えているけど、たぶんヌーと頭の中で混ざっている。しかし、本当に意地悪な話だ。どうせ動物に変えるなら、狼とかライオンとか熊とか、かっこよくて強い動物に変えてくれたらいいのに、バッファローだなんて。こんな不可解な力の影響を受けてさえ、僕は美しいものにはなれないらしい。

 そういえば、美しいものに憧れて、イラストを描き始めたような気もする。でも、もう一度人生を振り返ることはできなかった。バッファローの頭では、もう難しいことは考えられなくなってしまったようだ。それに、時間もない。あと二分以内に、隕石にたどり着く必要があった。


 がつん、と硬いひづめがアスファルトを蹴った。そうなるのが当たり前みたいに、僕の大きな体は空気を蹴って、空へと昇っていく。それなりに大きな音がしたのに、誰も気がつくことはなかった。

 太い四本の足がうなりをあげ、空中を蹴立てて駆け上がる。ぐんぐん地上の明かりが小さくなっていく。ガリガリくんを買ったコンビニの照明も、はるか彼方だ。遠くの街の灯りも見える。


 僕は加速していく。たぶん本物のバッファローより、ずっと早く。雲はとっくに抜けて、空気が薄くなって寒くなる。舌を出し、よだれをたらしながら駆ける。鼻先はぎりぎりと冷たく、分厚い毛皮に覆われた体にも冷気が突き刺さる。呼吸は苦しく、ぶおお、ぶおおと自分の不格好な鳴き声が聞こえる。僕はもともと、バッファローだったのかもしれない。バッファローが人間をやっていたのだから、うまくいかなくて当然で、今こうしてあるべき姿で死んでいくのも当然なのかもしれない。


 どんなに駆けても、星は遠かった。美しい星はどこまでも遠く、バッファローの足でどれだけ走っても、少しも近くならなかった。地上の灯りが星と同じぐらい小さくなって、周囲がずっと暗くなって、もうどちらが上でどちらがわからなくなった。

 それでも、僕は走った。

 本能のまま駆けるうちに、たぶんものすごい速度になって、僕は時間の感覚もわからなくなる。遠くに星が張り付いた、まっくらな空間の中で、必死に足だけを動かしているような感じだ。近づいている、ということだけがわかる。感覚だけを頼りに、足が動く。

 

 もう周囲は宇宙で、真空で、自分の嘶きすら聞こえなくなった。ちょっとだけ寂しいな、とバッファローになった頭で、僕は思った。

 今、地球上からは僕が見えているんだろうか。見えていないだろう。この毛皮は灰色で、星みたいに輝いてはいないのだから。彼女が、もし万が一南の空を見上げていたとして、目に入るのはきれいな星と、おっきな月と、さっき跨いできた天の川銀河ぐらいなものだ。

 死ぬのはいい。別にいい。地球を……いや、別に地球は好きじゃない。彼女を……彼女もどうだろう。でも、このツノで守れるから。意味のある死に方ができるなら、バッファローにしては上出来なのだ。

 でも、寂しい。このまま一人で死ぬのは、誰にも見つけてもらえずに死ぬのは、寂しい。僕は鳴いた。おんおんと鳴いたが、空気がないので何も聞こえなかった。おんおん鳴いて、鳴きながら走り続けて……隕石が、ついに見えた。


 ああ、今からあれに当たって死ぬのだ。なんて大きな、燃え盛る星だろう。きっととびきり明るくて、地上からもはっきり見えていて、もし明日があれば、朝のニュースでは「南の空に火球が観測されました」なんて報道されるんだろう。そこに僕の姿はきっと写っていないのだろう。


 誰か、誰か。僕は鳴いた。大声で鳴いた。


 すると、鳴き返す声が聞こえた。聞こえるはずのない宇宙で、鳴き声が。ひづめの音が、雷鳴のような地響きが聞こえた。

 バッファローだ。バッファローの群れだ。全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れが、スペースデブリも天の川も蹴散らしながら、地球の方向からなだれ込んできたのだ!!

 宇宙空間に、バッファローの鳴き声が満ちる。ぶおお、ぶおお、と鳴き交わす。彼らも、彼女らも、バッファローだったのだ。人間に生まれてしまったバッファローたちが、今、群れをなして、隕石に突っ込んでいく。

 僕は、生まれて初めて、あるべき場所にきたような気がした。たくさんのバッファローたちの中で、巨大な一つの塊になって、鳴き交わしながら進む、この光景が、僕のあるべき場所だったのだ。

 

 隕石が迫る。きっと僕らバッファローが消えても、明日から地球はそのまま回っていくだろう。でも、もう寂しくはない。


 できれば、人間のときに、こんな気持ちになりたかったけど。


 燃え盛る流れ星に、僕の、僕たちのツノが突き立てられた。




 

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