猫目の彼女と敏感な俺 -rescue-
判家悠久
-rescue-
俺には三分以内にやらなければならないことがあった。水の入ったバケツに、絵の具の筆の雨垂れが、ポツリ、その波紋が広がる様に、長く短く推移する。
俺達は、三沢聖心中学校の非常階段を駆け上がる。背後では、制服パンツの斎賀美鈴がスマホにがなり立てる。走りながら息を切らさないのは、流石筋肉体質バレリーナだ。
「太喜雄、ダメだよ。警察この辺回ってないよ、麓の交番だって、7分ダッシュが規定ライン」
「美鈴、阿保、こういうのは119だよ、消防署だよ」
「ナイス頭脳、時間ないから、降りるね」
美鈴は中3階の非常階段の踊り場から、身を乗り出し、真っ逆さまに降りて行く。猫目の美鈴は、正しく猫そのもので、しなやかさもそう。この位の高さなら空中一回転して、無事着陸する。俺の加わらない鬼ごっこならば、完全勝利を現在も有する。トン、砂が舞った音が聞こえた気がする。心配もしない俺も俺だ。
感情の色彩が、広がって行く。
──眼鏡は取れないよ。死んだお父さんの形見。
──美人総選挙3位、男は何故そういう目で見るの。
──皆が、私を観に来る。10分休憩、お昼休み、放課後。我慢できない。
──隠れ場所の図書室も見つかった、もう逃げれない。
──廊下側の席は嫌い、もう二学期迄待てない。
「ゼルダです。あと2分です」
スマホの音声案内ゼルダが、タイマーを読み上げる。ギリか、ここはやむ得ない。
──七瀬さ、俺の窓側の席変わるから、我慢しなよ。
──誰、祝延君、何となくいい感じだけど、照れずに頼れば良かったかな。
小山田七瀬は、2年3組の同級生で、共感の追認の通り素質美人。美鈴が最初に見つけ、その視線が、思春期連中に敏感に気着かれ担がれて行く。何てこった。そして今、そのあからさまな視線に耐えきれず、生死の一線を越えようとしている。だからさ。
「ゼルダです。あと1分です」
俺は加速を上げる。屋上のドアをガンと開ける。共感の境界線を踏み込んだ以上、あと1分で七瀬と意識が繋がってしまう。
──七瀬待ってろ、俺はお前と何に語らっていない。
──待つ、待つの、私が。これが最後の海風か。
「そうだよ、七瀬、お前のお父さんが愛した潮風の香りだ!そこにいろ、」
「お父さん、」
俺は勢いのまま、屋上の鉄柵を飛び越え、へりを走りまくる。スカート女子が不器用に引っ掛からず、グランドに落ちなかったのが実についている。
「ゼルダです。あとお時間になりました」
俺は、鉄柵に背中を合わせている七瀬の右側面から抱き込み、へりのコンクリートに押し込めた。俺達は、成り行きで抱き合い、そして急激に視覚に吸い込まれる。これは平屋の家族団欒の居間だ。
「お父さん、おいしいね」
「俺が、取ってきたどんこは格別だからな」
「それは、私の味噌に肝の配分が巧みだからでしょう」
「お父さんも、お母さんも、本当、飽きないよね」
「また獲ってくるさ、七瀬、かね、かね、」
共感の箱は、七瀬の宮古の津波にさらわれた家らしい。14歳の七瀬は、堪らずそのお父さんの背中に縋りつき号泣する。
まさかだった。俺の共感は、霊体に準ずるもので、縋り付ける筈もなかった。いや、そうか七瀬の眼鏡か。お父さんの形見と、共鳴していた。俺は箱の中で、七瀬に歩み寄り、ふっと、七瀬の眼鏡をつまみ上げた。箱は、長すぎると現実と虚構が曖昧になってしまう。このままでは七瀬が壊れる。視界が急激に萎んだ。
「お父さん、お父さん、お父さん、」
「七瀬、俺は祝延太喜雄だって、窓辺のツンデレクラスメイト、知らないの」
七瀬が忽ち赤面になる。アッツアアツ、ばかりで、それは死ぬ気満々だったのに、いざ現実見ると照れるよな。
「太喜雄君、近い、よ」
「うん、」
俺はようやく気づく。俺と七瀬のおでこがぴったり合っている。このまま、どさくさに紛れてキス出来ないかと、胸が込み上げてきた。
ただ、俺も漸く我に返る。サイレンの音がつんざき、三沢消防署ががなりながらグランドの群衆をかき分けているらしい。
そして、美鈴の泣き叫ぶ声が聞こえる。
「七瀬、太喜雄、間に合ったよね!」
七瀬が今度は一転して爆笑する。俺もつられて笑う。何もかも台無しだ、あと10秒遅ければ、七瀬からご褒美を確実に貰えたのに。
「それは、いつか、きっとね」
「ああ、ばれてる」
「コツは掴んだと思う」
「ここはどうか内緒に、なあ」
俺は照れ隠しの為に、立ち上がり、七瀬も引き起こした。そして勢い余って、七瀬の右腕を取りチャンピオンポーズを取る。七瀬も開き直って、俺に付き添う。
この後日の話になるが。七瀬の思春期衝動で、肝試しに柵を越えたら大ごとになって、俺と美鈴が騒ぎを拡大したと。そして1週間、学内地域の向春聖堂の告解部屋で、新約聖書を英文で延々書かされていた。2018年7月夏休み直前、つるむのは全く嫌いではない。
猫目の彼女と敏感な俺 -rescue- 判家悠久 @hanke-yuukyu
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