走れメラス
旗尾 鉄
走れメラス
腕のよい時計職人のメラスには、三分以内にやらなければならないことがあった。
親友から頼まれた、懐中時計の修理である。
一週間前、メラスはこの懐中時計を託された。親友が三十数年前、成人の祝いに父親から贈られたという大切な時計である。一週間後に取りに来ると言われ、メラスは責任をもって引き受けたのだ。
その約束の日が、今日なのである。
ところが、懐中時計はまだ修理しきれていなかった。
時計は珍しい外国製の逸品で、部品の取り寄せに日にちがかかってしまった。おまけに、ある理由から、メラスの予定が狂ってしまったのである。
親友は、午後六時に来ると言った。今、五時五十七分である。几帳面な彼は、きっちりと時間を守って六時ちょうどに到着することだろう。だが修理には、どうしてもあと三十分はかかる。
もちろん、三十分だけ待ってくれと頼めば、親友は
職人としてのプライドもある。そしてなにより、たとえ三十分といえども、親友との約束を
メラスは決意した。
どんな理由があろうと、約束を守るのだ。
メラスは左手に、修理しかけの懐中時計を持った。右脇には、修理道具一式を詰めた鞄を抱えた。そして仕事用のエプロンをつけたまま、店から飛び出したのである。
メラスは、猛然と走りはじめた。
通りを、西へ向かって疾走する。
「メラスじゃないか」
「どうしたんだ、そんなに急いで」
道行く人々は鬼気迫る表情で走るメラスに声をかけたが、返事をする余裕などない。メラスは走った。
この町は、国境の町である。
数百年前、メラスの住む国と隣の国は永遠の平和と友好を誓い、この小さな町をそのシンボルにした。
町の中央を流れる川を国境に定め、東がメラスの住む国、西が隣の国となったのである。
以来、両国は誓いを守り続けている。もちろん、東西の行き来にはなんの制限もない。
メラスはいま、なぜかその国境の方向へと走っているのだ。
残りは二分である。
メラスは走った。
二十数年ぶりの全力疾走に、五十歳を過ぎた運動不足の体は悲鳴を上げた。
呼吸が苦しい。
目がかすむ。
若い頃より二十キロ以上増えた体重が、膝と腰に容赦なくダメージを与える。
心臓が壊れそうだ。
だがそれでも、メラスは走った。
傾きはじめた太陽を正面に見据え、西へ。
友との約束を守るために。
国境の川にかかる橋が見えてきた。
残りはあと一分である。
もうろうとする意識の中、メラスは思う。
まったく、愚かな大統領だ。
なぜ、あんなことを考えたのだ。
なんでもかんでも、新しくすればいいってもんじゃないんだ。
メラスは橋にたどり着く。
橋の両端には、ほとんど形だけの国境検問所が設置されている。両国の警備員が一人ずつ、日がな一日、通行人と談笑したり、本を読んだりして給料を貰っているのだ。
橋の中央には白線が引かれ、国境を示す標識が立っている。
白線を越えれば、もう隣の国だ。
最後の力を振り絞り、メラスは白線へと向かう。
あと三十秒。
ついにメラスは、白線を越えた。
よろめいて倒れこみそうなメラスを見て、両国の警備員が駆けつけた。メラスを助け起こし、隣の国の検問所で休ませる。
メラスは尋ねた。
「警備員さん、いま
腕時計を見て、警備員が答える。
「四時ちょうどだ。どうしたというんだ、メラス」
「や、やった!」
メラスは間に合ったのだ。
友との約束のために走りきったのだ。
この姿を見れば、愚かな決定をした大統領も感動の涙を流すに違いない。
メラスの国では、今年から『夏時間』とかいう制度を導入したのである。
なぜそんなことをするのか、メラスにはよくわからない。だがとにかく、今日が、その初日だったのだ。
今朝、時刻が二時間進められた。
しかしメラスはそのことをすっかり失念していたため、すべてが二時間遅れの生活になってしまった。
あやうく気付いたのが、午後五時五十七分だったのである。
だが、もう大丈夫だ。隣の国には、夏時間などという珍妙な制度はない。今はまだ午後四時なのだ。
検問所の近くに、知り合いの同業者が店を構えている。そこでちょっと場所を借りて、入念に修理を終えてやればいいのだ。約束の時間に、じゅうぶん間に合う。
メラスは安堵した。
腕はよいが、おっちょこちょいな時計職人、メラス。
愛すべきうっかり者、メラス。
約束の時刻に来た親友が工房で待っていることに、メラスはまだ気づいていない。
了
走れメラス 旗尾 鉄 @hatao_iron
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