大洪水の災難
みすたぁ・ゆー
大洪水の災難
俺には三分以内にやらなければならないことがあった。
――それは『トイレにおける黄金水の排出』。
もちろん、時間に余裕があるならゆっくりと出来ることだし、スムーズに済ませられれば三分でもそのミッションをクリアすることは可能だと思う。
ただ、今はそれが楽観できない危機的状況にある。場合によっては人々に
ちなみになぜ三分という制限があるのかというと、もうすぐ停車する
先日のダイヤ改正により自宅の最寄り駅から高校の最寄り駅まで直通する列車が廃止となり、
勉強にも恋にもスマホのキャリアにも一途な俺が、毎日のように『乗り換え』という行為をしなければならないなんて精神的に大きな苦痛。ゆえに最近では、養護の先生にカウンセリングをお願いしようかと考えるくらいに思い悩んでいる。
しかも朝が弱い自分にとって、通学時の所要時間が三分も増えてしまうのは、購買部の焼きそばパンが取扱い終了となってしまうくらいに痛手でもある。
もし俺の利用している列車がトイレ付きなら、ここまで苦労も悩みも締切間際のレポートも抱えることはなかっただろうに……。
だからこそ俺が国土交通大臣や鉄道会社の重役に就任したら、真っ先に長距離列車へのトイレ設置を義務化したいと考えている。もちろん、目的外でのトイレ使用には厳罰を処すという法律制定もセットで!
ただ、そんな五年後の未来の話をしても仕方がない。問題なのは“今”なのだ。
幸いなことに
当然、そのことを知っている俺はトイレの目の前に停車する車両に乗っているわけで、混んでさえいなければパッと行ってササッとしてザッと移動することも不可能ではない。
そうなれば世界は大洪水の災難に見舞われることもなく平和が維持される。
まぁ、こんなことを思っていると『死亡フラグ』が立つような気もするが、神様も仏様もお客様もお疲れ様も、毎度毎度そんなベタで無慈悲なことばかりするはずはないと信じたい。
――そう、信じる者は救われる。決して『
「む? 列車のスピードが落ちてきたか……」
全員に受ける慣性の感覚と見慣れた景色が、もうすぐ
そして程なく列車は駅に到着し、ドアが開くと同時に俺はトイレへ向かう。
だが――っ!
見るとトイレの出入口には長い列が出来ていた。チラリと中を覗いてみると、個室を待つ方だけでなく黄金水を流す方にもたくさんの人が並んでいる。どちらも三分で順番が回ってきそうな気配はない。
「バカなぁああああぁっ! くそっ、くそぉっ! キルゼムオールっ!! キルゼムオォオオオオォールッ!!!」
思わず俺はその場で地団駄を踏んだ。もちろん、その衝撃と勢いで黄金水が漏れてしまわないように、力を加減してのことなのは言うまでもないが。
まさに爆発しそうになる殺意と膀胱。こんなベタな展開にした神様も仏様もお客様もお疲れ様も、何もかも消滅させてやりたくなるような衝動にかられる。
まずは目の前にいる連中をまとめて便器に流してやりたいッ!
…………。
……ま、まぁ、その列の中には頬に傷のあるコワモテのオッサンや大銀杏を結っている力士、迷彩服を着たガンマニア、リザードマン、異星人、地底人なんかもいて怖そうだから実行には移さないけど。
そもそも俺は腕力も技も異能もカネも権力も持たない平凡な高校生。力なき正義ほど虚しいものはない。
こうなったら階段を上った改札階にある別のトイレへ行くしかないか……。
ただ、そちらへ向かえば乗り継ぎ列車に間に合わなくなり、遅刻するのは確実。そもそもそのトイレだって空いている保証はない。また、移動に伴う振動がトリガーを引いてしまう可能性だってある。
……くっ!
こんなことならもう一本早い列車に乗り継げるように、余裕を持って自宅を出発するんだった。時間ギリギリまで射撃とあやとりで遊んでいる場合じゃなかった!
もっとも、今さら後悔しても仕方がない。もはやこのまま黄金水の放出を我慢して列車を乗り継ぎ、学校の最寄り駅までの三十分間を耐えるしかないだろう。ここでトイレに行って遅刻するくらいなら、大洪水を起こしてしまった方がマシだ。
なぜなら説教という名目で、放課後に生活指導の先生(♂)とふたりっきりの地獄の時間を過ごすのだけは絶対に避けたいから。それこそ変なフラグが立ってしまうのは困る。
「よし、覚悟は決まった! ならば万が一に備えて道具を用意しておこう。備えあれば憂いなしだ」
早速、俺はカバンの中からお茶の入ったペットボトルを取り出し、中身を全て飲み干した。これなら尿意が限界を迎えた時、この中に黄金水を放出することによって大洪水による被害を防ぐことが出来る。
もちろん、周りの人たちにその姿を見られてしまうという恥ずかしさや露出癖に目覚めてしまうという可能性はあるが、それは必要悪として受け入れるしかない。
「ふぅ……。……っ!? し、しまったぁあああああぁっ! 余計な水分を補給してしまったぁあああああぁーっ! なんたる不覚、不覚ッ!」
気付いた時には遅かった。これでは高校の最寄り駅まで漏らさずに耐えられるか分からない。汗と呼吸によって体内の水分を発散させようにも三十分という短時間では、飲んだお茶の量以上に消費するのは難しい。
なにより汗をかきながら荒い呼吸をしていたら、周りにいる乗客からあらぬ疑いの目を向けられる可能性がある。これはマズイ!
だが、もはやこれまでかと諦めかけていたその時、ふと俺は乗り継ぐ列車の車両を見て違和感を覚えた。そして即座にその理由に気付く。
「あれ? いつもと車両のタイプが違う……」
隣のホームに停車していたのは、中距離の運用で使用されている車両だった。
俺の記憶が確かならば、その編成は全車両がロングシートではなく、運転台の付いた両端の車両の一部はボックスシートになっているはず。しかもトイレも付いていたような……。
「――そうかっ! ダイヤ改正によって運行区間だけでなく、使用される車両も変わったのか!」
ダイヤ改正後も以前と同様にトイレなしの編成は使われている。ただ、一部にはトイレ付きの編成も割り当てられるようになり、今日はたまたま運用上の理由でそれに当たったということなのだろう。
これは渡りに船――ではなく、渡りにトイレ付き編成! まさに地獄に垂れてきた一本のクモの糸のようだ。
こうなれば俺に怖いものなどない。ホームにある自動販売機でスポーツドリンクを購入し、それをガブガブと飲むという『舐めプ』をしながら乗り継ぎ列車へと乗車する。そして車内のトイレへ向かい、中へ入ろうとする。
だが――
「なっ!? こ、これ……は……!」
なんとトイレのドアには『故障中につき使用禁止』と書かれた紙が貼られていた。ドアの取っ手を握ってみても、施錠されていて動かない。ドアを開ける呪文を唱えてみてもそれは同じ――あ、いや、そもそも俺にそんな能力はなかったか……。
途端に俺の心の中には絶望が広がり、言いようのない寒気が全身を襲った。慌ててカバンから空のペットボトルを出そうにも、全ての感覚がマヒし始めていて全身を思うように動かせない。
「あ……っ……ぁ……」
程なく生温かな感触が下半身に広がり、不快な気分と開放感という相反する想いに包まれていった。
発車メロディが流れる中、発射されてしまった『アレ』……。
周囲にいた人々は即座にこの異変に気付き、そそくさと俺から距離を取る。
満員列車の中、まるで俺の周りに結界でも展開されたかのような謎の空間が生まれ、
――こうして全ては終焉を迎えた。
〈了〉
大洪水の災難 みすたぁ・ゆー @mister_u
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