第2話
「また今度来るよ」
そんなことを言って縁側から去っていく少年の背中を見つめる。それは脳裏に焼き付いているものより随分と大きくなった。その事実に感慨深さもあるが、同時に手にした湯呑みの温かさを忘れるほどの寒気も浮かんできた。目を閉じれば浮かぶ、半身焼け焦げた姿。どう見ても息があるように見えないそれに、膝から崩れ落ちたのが昨日のように思い出される。
光昭は先ほどまで亜斗が見つめていた辺りに目をやり、小さく問いかけた。
「あいつは一体、何になったんだろうなあ」
それは光昭がここ数年考え続けてきた疑問であり、亜斗本人にぶつけられなかった問いであった。
もちろん、光昭に妻からの返事は聞こえない。
「じーちゃん」
そう呼びかけてくる幼い子供は、同じ町内で芸術家を営む男の息子であった。よく言えば人のいい、悪く言えば気の弱い男、亜斗の父親はそんな人物であった。知り合った時点で、町内の『お屋敷』と呼んで差し支えない豪邸に二人で住んでいた。どうも実家と折り合いが悪かったようで、家を出て自分自身で生計を立てていた。その辺りを考慮すると、気が弱いだけではなかったのかもしれない。母親は見たことがなかった。
知り合ったきっかけは、父親が亜斗を連れて光昭の個展にやってきたことであった。亜斗はそのころから、父親よりも熱心に絵を眺めていた。それをひどく満足そうに眺めている父親に多少の違和感を覚えたので話しかけてみたのだ。いざ話してみたら違和感はすっかりなくなり、丁寧な物腰に好感を覚えた。変に思ったのは気のせいだったかと申し訳なさすらあって、お土産にと二人に渡した絵葉書から、交流が始まったのである。
最初は「葉がきありがとう。かざってます」と不器用な文字が書かれ、横に真っ赤な花の絵が添えられたものが届いた。そこから小さな友人との文通が始まり、ついには家に招き招かれしながら、食事などするようになった。亜斗の父親は陶芸を活動のメインにしていたものの、美術全般に造詣が深く、自身の作品について相談をすることもあった。
亜斗は父親の後ろをしっかりした足取りで歩き、ぱっちりした大きな瞳をしきりに動かしては興味が引かれるものを探して回っていた。くるくる変わる表情に、エネルギーが満ち満ちた身体。妻はすぐに亜斗を気に入り、亜斗も「ばーちゃん」と呼んで懐いた。
亜斗だけでなく、父親の方とも交流を深めていった。絵の描き方を教えて欲しいと請われ、快く頷いた。基礎知識は備えていたので、するすると上達していった。これはいつか自分を抜くかもしれない、なんて冗談交じりに言うくらいは達者だった。光昭も教えられて土をいじってみたりしたが、自分には向いていないと早々に白旗を上げた。
「お前さん、亜斗の坊主が絵に興味持つのが、そんなに嬉しいのかい?」
思わずそう問いかけたのは知り合ってから三年ほど経った頃だった。亜斗は小学校高学年になっていて、家に来る頻度は減っていたものの、交流自体は続いていた。亜斗が光昭の作品を見て回る後姿を眺めて、その日も殊更満足そうにしている父親。光昭はその表情がやはりどこか恐ろしく、気が付いたら質問が口から飛び出ていた。
亜斗の父親は目を見張ってから少し考え、光昭さんならいいかなと独り言のように呟いた。
「実はですね」
亜斗の父親は似合いもしない茶目っ気のある笑みを浮かべ、小声で答えた。
「うちの家系には、変わった力を持つ子が生まれることがあるんです」
ふふふと笑う姿に、思っていたよりヤバい奴と関わっていたかもしれないと光昭は身体を固くした。そんな光昭を見て亜斗の父親はため息をついた。
「信じられなくても仕方ありません……一言で言うと芸術、と言いますか……物の形を変えたり、像や絵に命を与えたりできるんです。私と妻はその才能に恵まれませんでした。一族の中では味噌っかすの扱いでしたよ。だから二人で家を出たんです。縁も切りました。もの好きな人に僕の絵が気に入ってもらえたのは幸運でした。おかげで路頭に迷わずに済んだのですから」
亜斗の母親は近縁の者だったらしい。あまり褒められたことでないと思ってしまうのは考え方が古いのだろうか。
「あの子は物心ついたときから芸術全般に興味を持っている。私と妻の子供だから血も濃くなっているはず……期待しているんです」
「……子供に、変な期待をするもんじゃねぇよ」
自分の妻に話しかけられてにこにこ笑っている亜斗に目を移して、それだけ言った。どうやらこの男は今話したことを心底信じているようなので、否定するだけ無駄だと思った。
父親の思想に、今後の亜斗が圧迫されないことを祈るばかりだった。
「とーさん、じーちゃん、おやつだってー!」
おはぎの乗せられたお盆を両手で持って亜斗がこちらにやってくる。大人が暗い顔をしていては困るだろうと、笑みを作って迎えた。
「おう、ありがとな」
「ありがとうございます。いただきます」
亜斗の父親は亜斗の後ろに立っていた光昭の妻に頭を下げておはぎを頬張る。美味しいと言ってそれを飲み込んだ後、思い出したようにこんなことを言った。
「そう言えば、最近お隣に一人越してきた女性がいまして。亜斗がよく懐いてるんです。私も今度お会いしてみようと思ってます」
亜斗の世界が広がるのならよいことだと光昭はそれを喜んだ。
それが、亜斗の日常を壊すきっかけだとも知らずに。
その女性が越してくるまで、亜斗の家の隣は一軒しか埋まっていなかった。元から人が住んでいた方はこじんまりとした二階建ての一軒家で、夫婦と二人の姉妹が暮らしている。姉妹の妹の方が亜斗と同じ年らしく、時々話題に上るのが印象に残っていた。
そして、その家の反対側にやってきたのが日向という若い女性だった。これまた二階建ての一軒家であるが、元からあった隣家よりも一回り大きかった。元々両親が住むために買った家だったらしいが、大学に通う娘が一足早く住み始めたらしい。
そんな事情を亜斗の父親越しに聞いた。その人物の話をする時の微笑みにどこか陰を感じて光昭は度々首を傾げていた。
亜斗自身の口からも頻繁にその女性の話が飛び出すようになった。その頃には亜斗一人で光昭宅を訪ねてくることも増えていた。
「日向さん家で絵を描いた」
「動物園に連れて行ってもらった」
「公園で遊んだ」
「料理を作った。ちょっと焦げちゃった」
ある日は縁側でお茶を飲みながら、ある日は仏間でテレビを見ながら、またある日は光昭の作業場で描いている絵を見つめながらそんな話を聞いた。その度に楽しかったか、よかったなあと応じていた。妻も微笑ましそうにしていた。
「父さんも嬉しそうだし、楽しそうなんだ。最近にこにこしてるよ」
亜斗の父親ともうまくやれている様子だった。うっすらとした狂気を思い出して寒気がしたが、頭を振ってそれをかき消す。父親の方もお隣さんとの交流で毒気を抜かれているかもしれないだろう。
ただその頃から少しずつ、亜斗の父親が訪ねてくる頻度が目に見えて落ちた。
「最近、父さんは元気か」
気になってそう尋ねてみれば、亜斗はうんと毎回頷くのである。ならば問題ないか、としばらくは様子を見ていた。不穏さを感じたのは亜斗が浮かない顔をしてやってきてこう言った時だった。
「お父さん、ずっと作業小屋に籠ってる」
詳しく話を聞いてみれば、学校や食事に支障はないようだった。それでも、幼い子供を一人置いておくのは感心しないと、光昭は様子を見に行くことにした。
「ずっとって、どれくらいだ?」
「一週間くらい、かな?」
同じ町内とはいえ、二人の家にはそこそこの距離がある。徒歩四十五分ほどの距離を負担に感じることに年齢を意識しざるを得なかった。自分の手を引く亜斗の軽い足取りについていくのが精いっぱいだったことを覚えている。
「ただいまー」
『惟町』と表札のある石柱の横を通って庭に入りつつ亜斗が大声を上げる。応えはもちろん返って来ない。二人並んで広い庭を横切る。光昭宅の庭も畑があり、ある程度広さがあるものの、この屋敷には遠く及ばない。そしてその広大な庭の一角に亜斗の父親の作業小屋は立てられていた。横にある窯から煙が立ち上っていた。
亜斗は迷いなく作業小屋に向かうとその扉をノックした。
「父さん、いるー?」
「お邪魔しとるぞ、光昭だ」
後ろから大声で名乗ってみたものの、中からはなんの反応もない。開けてみようとドアノブに手を掛けてみたものの、何かに引っかかって止まる。鍵がかかっているようだ。作業を邪魔されたくない気持ちは分からんでもないが、亜斗と意思疎通する方法くらい残しておけと苛立つ。
「どうかされました?」
背後からの女性の声に振り向くと、入ってきた辺りに薄い黄色のシンプルなワンピースを身に着けた女性がすらりと立っていた。それを目にして亜斗の顔が輝く。
「日向さん!」
「亜斗くん、こんにちは」
彼女は少女と女性の中間に位置している雰囲気で微笑んだ。その微笑みには無邪気さが残っていて、まだ少女だなと思う。どうやらこの人が噂の隣人らしい。無礼にならない程度に観察してみるが、控えめながらも整った顔立ちをした、育ちのよさそうな人だった。長い髪を揺らしながら笑みを浮かべ、こちらの方は?と亜斗に尋ねている。じーちゃん、と妙に誇らしげな亜斗に日向がなるほどと頷く。光昭に向き合った日向の髪が陽を透かしながら揺らめいた。
「はじめまして、こちらの隣に越してきた日向と申します。亜斗くんから、よくお話伺ってます」
「おう、ご丁寧にどうも。光昭だ。こっちも話はよく聞いてるよ」
礼儀正しく柔らかな礼をされれば、警戒するのも失礼だ。片手を軽く上げて挨拶すれば日向はにこりと微笑む。
「こいつの親父が全然出てこないらしくてな。様子を見に来たとこだ」
「え、そうなんですか?すいません、私、大学のゼミで出かけていて……久しぶりに来たんです」
どうやら彼女も知らなかったらしい。一体何をやっているんだろうと呆れたところで作業小屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。
文句でも言ってやろうと振り返って光昭は固まった。確かに亜斗の父親はそこにいたが、とてもまともとは思えない瞳をしていた。気でも狂ったかと思うほどに淀んでいて、何も見えていないのではないかと光昭は一歩後ろに下がる。そうすることで日向が目に入ったのだろうか、亜斗の父親はその明るい色彩ににいっと口を笑みの形に歪めた。
「ああ、日向さん、こんにちは」
光昭どころか、亜斗のことも完全に素通りである。子供を一週間近く放置した挙句、無視とは何事かと頭に血が上り、その胸元を掴んで引き寄せた。そうなって初めて光昭のことに気が付いたように亜斗の父親はきょとんと瞬きをした。
「……ああ、光昭さん、どうも」
「どうも、じゃねえ!子供ほったらかして何してた!」
子供、とそこで初めて亜斗に視線を落とした。父親の異様な様子に亜斗は黙り込んで光昭の上着を掴んていた。
「ああ、亜斗、見てくれ、いい出来なんだ、本当に」
謝罪でもするかと思いきや、亜斗の父親は亜斗の細い腕を掴むと否応なしに作業部屋へと連れ込んだ。それを止め損ねて、後ろからついていく形になる。六畳ほどの作業場に置かれた机には人の頭程度の大きさの人形の手足が揃えて置かれていた。
その艶やかさにめまいがしそうだった。滑らかな陶磁は人の肌と違う質感ながら、柔らかさを醸し出している。真白なそれは無垢さもあり、不可侵の領域にあった。窓から入ってくる光と扉から入ってくる光を反射してぬらりと輝いている。
「……きれい」
父親の横で亜斗もその手足に視線をくぎ付けにされていた。その瞳はきらきらと宝物を映しているように輝いていた。この少年の中で父親が一週間姿を現さなかったことなど、もう忘れ去られているだろう。
光昭は机の上に日向の写真があることに気が付いた。椅子に座った時によく見える位置にあるそれは、まるで祀り上げるように丁寧に置かれていた。
「日向さんのおかげだ!本当にありがとう!」
「お手伝いになったなら、よかったです」
感激を迸らせている男に日向は少しの怯えを見せてはいたものの、柔らかい微笑みを返していた。その二人の姿はどこか、神を崇める清教徒のように映った。光昭は口を挟めずにその光景を見ていた。そうしている間も亜斗はじっと陶器に見入っている。動けずにいると日向が光昭を見て困ったように笑った。
「時々お手伝いさせていただいているんです。私、大学で美術関係の勉強をしていまして」
「……おう、そうなのか」
「彼女の指摘は素晴らしいんですよ!モデルもしてもらっているんです!」
次いで言葉を吐き出した亜斗の父親の勢いに、光昭は一歩、後ろに下がってしまう。
「そんな……恐れ多いです」
恐縮する彼女に、記憶より瘦せこけた男がとんでもない!と笑いかけている。ちらと後ろを見れば異常な光景は目に入っていない少年がいる。
この親子は、おかしい。
そしてこの少女は、それに巻き込まれてしまっているように見える。それとも、この少女が起点なのだろうか。
「ああ、そろそろ次が焼き上がる!失礼します!」
満面の笑みで窯へと向かった男を見送ってから、光昭は日向に小声で話しかけた。
「なあ、あいつ、いつからあんな調子だ?」
「……あんな、と言いますと」
「妙に昂ってねえか?ハイになってる、とか言うのか?」
「初めてお会いした時からですが……特にここ一カ月くらい、ですかね。お知り合いらしい小父様とお話した後からだと思います」
「ここにそんな奴が来たのか?」
彼のパトロンかと思ったが、確かそれは先日事故で亡くなったと聞いた気がする。亜斗の父親は交友が広い性質ではない。一体どこの誰だろうか。
「ご友人、と言うには険悪な雰囲気でしたけど……でも小父様も悪い人ではありませんでしたよ?」
私も少しお話したのですがと首を傾げる少女に、この子、危機意識が低すぎやしないかと心配になってきた。そもそもあんなおかしな情緒していそうな男を訪ねてくるべきではないだろう。いくら亜斗がいるとはいえあれも一人の男なのである。
亜斗の父親の目は色恋というよりは心酔という方が正しかった気がする。一体何がどうしてあんなことになってしまったのだろうか。隣に越してきた人がいると報告してきたときはまともそうだったのに。
何はともあれ、亜斗を一人で放置しているのはいただけない。これは定期的に様子を見に来た方がいいだろう。そう声を掛けようと下を見たが、亜斗はいなかった。どこに行ったかと振り向けば、作業小屋の中でまだ人形の手足を見つめていた。
「亜斗くん」
日向の声に亜斗がぱっと顔を上げた。
「よかったら、夕ご飯ウチで食べる?」
「うん!」
見ていてくれる人がいるなら安心か、と光昭は一つ息を吐き出した。問題は見ている側の少女もどこか危なっかしいところだが。
「今日のところは亜斗くんの面倒、私が見ますね」
「……おう、頼む。俺もたまに見に来るようにするわ」
少女はありがとうございますと頭を下げと、亜斗と手を繋いで門から出ていった。
その日の深夜のことである。
町内に消防車のサイレンが響き渡ったのは。
光昭が駆けつけた時、屋敷は空に火の粉を散らしていた。消火が進められて、火の勢いは弱まっていたものの、熱気は立ち込めていた。消防の規制線の外に集まった野次馬を掻きわけて、一番前までたどり着く。屋敷は一階部分と二階の一部がほとんど炭になっていた。亜斗の部屋があったはずの場所にはもう焼け焦げた枠組みしか残っていなかった。
亜斗は、父親はどうなったのか。
そう思って身を乗り出す。消防員に注意されるが知ったことではない。注意してきた消防隊員に噛みつくように叫んだ。
「子供と父親は!どうなった!」
光昭の剣幕に消防隊員はびくりと肩を跳ねさせたものの、返事はくれなかった。役に立たないと舌打ちをする。
そこで亜斗の父親が姿を現した。肩に毛布を掛けられ、横から消防隊員に支えられている。どうして隣家の方からやってくるのだろうか。よく見てみれば隣家は既に燃え尽きていた。状況が全く分からない。
それでも生きている事実が確認できたことに安心すると同時に、近くに子供の姿がないことに不安を覚える。
「おい!亜斗は!」
亜斗の父親はゆらりと揺れるように顔を光昭に向けた。呆然としているのか、無表情のままだった。父親の後ろでは白い線が残った炎を消そうとのたうっている。
「いたぞ!」
父親の返事よりも先に、消火にあたっていた隊員の声が響いた。数人の隊員たちが微かに残る炎を避けながら慎重に焼け跡に入っていった。そして小さな人影を抱えて出てくる。
すぐ担架に横たえられたそれは、一見、傷一つないように見えるのに、角度が変わった瞬間に黒焦げの身体が目に入って吐き気を催した。亜斗の父親はそれを目の当たりにしても呆然としていて反応を示さなかった。亜斗の身体には布が掛けられる。
一体どういうことなのか。昼間に元気に動き回っていた少年に何があったと言うのだろう。そして隣の家の少女はどうなったのか。何もわからなかったが、光昭は関係者ではないと、野次馬と共に追い払われてしまった。
「……大丈夫か」
三日後、燃えていなかった作業小屋で、光昭は座り込む亜斗の父親と向き合っていた。横には亜斗の遺体が横たえられている。とても直視できなくて、その小さな身体から二人とも目を逸らし続けていた。
「何があったんだ」
「あいつが……あいつが悪いんです……あの男が……」
亜斗の父親は光昭からも目を逸らして虚空を見つめている。精神異常でも患ったようだ。警察では黙り込んでいたらしく、何か話が聞けたら教えて欲しいと頼まれていた。遺体は検死が終わった途端に引き取ると無理を押し通したらしい。光昭自身も状況を知りたくて仕方なかったため、何があったのかと質問を重ねた。
「日向さんを、どこかに隠しやがった……」
「やっぱりあの子も巻き込まれたんだな……放火なのか?」
どうやら男が一人関わっているらしいことしかわからない。『日向が隠された』ということは、少女は生きているのだろうか。隣の家からは誰も見つからなかったらしい。
「あいつが、あれが悪い……あれが全部壊しやがった……あのじじい、余計なことばっかり……そもそも二人を寄越せなんて冗談じゃない!」
いきなり叫ぶものだから跳び上がってしまった。あの気弱な男のどこにこんな激情が隠されていたのだろうか
「彼女も、亜斗も、俺のものだ!あんな奴のものじゃない!ふざけるな!」
「落ち着け!二人は、お前のものなんかじゃないだろう?」
俺のものだったのに、俺のものだったのにと繰り返す男に何度も落ち着けと繰り返す。辛抱強く呼びかけるが、男が落ち着く気配は一向になかった。
「好き勝手に都合のいいことばっかり言いやがって……なんでお前の言いなりにならなきゃならないんだ……」
亜斗の父親は目の前の光昭ではなく過去に諍いのあったらしい老齢の男を見ているようだった。虚ろな瞳で口から呪詛を垂れ流している。
「彼女は選ばれた人だ……あの子は選ばれた子だ……」
そう呟いた瞬間、瞳が一気に光を取り戻した。勢いよく身体を起こすと横たえてあった亜斗の腕を掴んだ。突然の行動に光昭が対処する暇もない。そのまま少年を背負おうとするものだから、光昭は慌てて止めた。
「やめろ!何してる!」
「死んでなんかいません、日向さんも、この子も、まだ……」
父親が力を込めたところがぐにゃりと凹んでいる様が見ていられなくて目を逸らす。あんなに活発だった子供が、どうしてこんなことになったのか。力なく垂れさがる腕は凹みを戻す力すら持たなかった。亜斗の父親の背中が黒く汚れているのが見えた。背負った時に煤がついたのであろう。
「まだ、まだ、何とかなる……だってこの子は、この子なら……!」
現実を見られていないその言葉が哀れで光昭は目を伏せる。こんなことになるのなら、あの時帰らずに自分もついていればよかったと後悔しても遅い。冷たい腕が動くことはもうないのだ。そっと遺体を横たえ直して布を掛けてやる。亜斗の父親はまた自分の世界に囚われてしまったようで、一人で何かを呟いていた。
「直せば……、そう、直してやればいいんだ……そうすればきっと、この子なら……この子が戻ってきたなら、きっと……」
これ以上いてもまともな会話は望めそうにない。遺体と男を一緒にしておくことに不安はあったが、だからと言ってどちらか引き取っていくこともできない。
「おい、変なことは考えるな。二人ともいなくなっちまったなら、それを受け止めるしかねえんだ」
そんな光昭の言葉に男は曖昧に笑うだけだった。それからは何を話しかけてもろくな返事をしなかった。二時間ほど様子を見てみたが何も変わらなかったので、なにかあったら電話しろと言い残して小屋を後にした。
焦げ臭い屋敷跡に踏み入ってみたが、何かが見つかるわけもなかった。隣家は、家だけ綺麗に焼けていた。焼け跡の正面でたくさんのひまわりがゆらゆらとその大きな花を揺らしていた。
その数日後、光昭の耳に信じられない話が飛び込んできた。
曰く、焼失したお屋敷が一晩にして蘇ったと。
「ああ、光昭さん!お久しぶりです」
「お久しぶりじゃねえよ!どういうことだこれは!」
質の悪い噂だと、そう信じていたのにわざわざ見に行ったのは、どこかで疑惑を拭いきれなかったからかもしれない。そして目にしたのは、確かに火事前の姿を取り戻している屋敷の姿だった。屋敷どころか、隣家すらその形を取り戻していた。信じられない思いで飛び込んで屋敷の扉を叩けば、当たり前のように亜斗の父親が顔を出して出迎えた。それを正面から怒鳴りつける。屋敷は中まですっかり元通り。決して張りぼてなどではなかった。
亜斗の父親は言われたことが分からない様子で首を捻っている。そして思い至ったというように手を叩いた。
「亜斗のお見舞いに来てくれたんですね!ありがとうございます!あの子はまだ部屋で寝ているんです」
ぞっとした。それ以外に言いようがない。鳥肌が立ち、頭からざあっと血の気が引いていくのを感じた。
知り合った当初からどこかずれた男ではあったが、その異常性を感じてはいたが、とうとう気が狂ったようだった。しかしその発言を否定するには屋敷の復活が邪魔だった。光昭はからからに渇いた口を動かした。
「……おう、様子、見せてくれ」
「どうぞ。あの子も光昭さんが来てくれたと分かれば、喜ぶでしょう」
にこやかに屋敷の中に通された。踏みしめる床も、階段も、手を添えた手すりも確かに存在している。まろやかな木に触れているはずの手がどんどん冷えていく。
二階、三階と昇って右に曲がる。何度か通されたことのある亜斗の部屋の前に着いて、立ち止まった。亜斗の父親は当たり前のようにその扉を開けて中に入っていった。
「亜斗、光昭さんが来てくれたよ」
扉がゆっくりと閉まっていく。
その向こうに、本当にいるのか?
まさか、そんなはずがない。
震える手で閉じてしまった扉を押す。ひどく重いそれは、馬鹿みたいにゆっくりと開いた。亜斗の父親は軽々と開けていたのに、なんて思う。
ベッドには、一人の少年が横たわっていた。正確に言えば上体を起こして座っていた。その人物は部屋に入った光昭を認めてゆっくりと首を捻った。
確かに、亜斗がそこにいた。
無表情で、傷一つなく。
ゆったりと瞬きをしたと思えば、緩慢に口が動いた。麻痺でもしているような動きだった。
「……じー、ちゃ」
その言葉を聞いて、空気が喉に引き込まれる。その瞬間に、光昭は後退りし、転げるように部屋を飛び出していた。
なんだアレは。
一体なんなのだ。
光昭は確かに亜斗の焼け焦げた遺体をこの目で見た。右半身はもう真っ黒で、火傷どころの話ではなかった。それが何事もなかったかのように、火傷一つない柔い肌を取り戻していた。閉じられていた瞳が真っすぐにこちらを見ていた。あの大きな、猫のような瞳に映ることが、これほど恐ろしかったことはない。
考えてみれば、火災の時点でおかしかったではないか。あれほどきれいに隣家と一階が燃え尽きていたのはどうしてだ。火災現象などに詳しくはないが、もっと複雑に燃えるものではないのか。まるで誰かがそうなるように指示したが如く燃え尽きていた。
何が起こったのかはさっぱりわからなかったが、自分の理解の範疇を越えていた。
理解できぬものから逃げることだけ考えて、光昭は走った。
一か月は問題を放棄して寝かせただろうか。恐怖の次にやってきた疑問に耐え切れず、光昭は屋敷を訪ねることにした。妻の作ったおはぎを持って、重い足を運んだ。
震える指でインターホンを鳴らす。それに応答はなかったが、しばらく待ってみると静かに玄関が開いた。隙間から顔を出したのは亜斗だった。その視線にびくりと光昭の身体が跳ねる。それを見て亜斗は一回だけ瞬きをした。
「………………父親は、どうした」
喋り出さない亜斗に、そう尋ねた。
「……いなく、なった」
返答は、亜斗にしては舌足らずな発音だった。口達者な子供はまだその本領を取り戻してはいないらしい。
「いなくなった?」
「……隣の、おじさんと、いっしょに」
たどたどしく続く亜斗の話をまとめると、どうやらこの屋敷が元に戻って数日後から、隣家の父親が世話を焼きにきていたらしい。そして亜斗の父親の態度を度々諫めていたようだった。そして、その二人がもめた後、すっかり綺麗にいなくなってしまったらしい。
「ずっと、聞こえてたのに、いつの間にか、いなくなった」
そう言って目を伏せる少年はどう見ても亜斗だった。光昭は見ていられなくて目を逸らし、屋敷の中を見回す。
「出て、来なかった」
そんな言葉の後ろで何かのざわめきが聞こえる気がした。そして亜斗が両手で耳を塞ぎ、頭を振る。
「どうした?」
顔を上げた亜斗の目は見開かれていて、今にも目玉が零れ落ちてきそうだった。そこに浮かんでいるのは困惑と絶望の色だ。
「なんでも、動いて見えるし、へんなモノ、も見える」
亜斗はそう言った。なんでもとはなんだと問えば、ああいうのが動いていると玄関に飾られていた貴婦人の絵を指さす。
「ほら」
ほら、と言われても光昭には何も見えなかった。ただただそこに佇む貴婦人が見えるばかりだ。
「『僕は死んだんだ』って」
その言葉に背筋が伸びる。
「『ニセモノ』、『まがい物』って、言われる。どういう、こと?」
答えられなかった。
「『二人は、僕のせいで、いなくなったんだ』って」
この小さな少年に、そんな残酷なことを言う奴らは一体誰だ、という気持ちと、それが真実である可能性に怯える気持ちが入り混じる。目の前で一人立ち尽くしているひとりぼっちの少年に掛けられる言葉がなかった。
この子は幻覚を見ているのだろうか。
この子は幻聴を聞いているのだろうか。
それとも、亜斗の父親が言っていた馬鹿げた妄想が、現実になってしまったのだろうか。
「すまん。俺にもよく分からない」
そんな当たり障りのないことしか言えなかった。そんな言葉で、光昭は亜斗と向き合うことから逃げた。そんな老人を見て、少年は悲しそうに眉を下げた。
それから、口の両端を上げた。
「そっか。そう、だよね」
ああ、今この子は光昭を頼ることを諦めた、と分かった。でもこの期に及んで自分を頼れなんて口が裂けても言えなかった。自分の中に確かにこの子を恐れる気持ちがあるのだ。
「……変なこと言って、ごめんなさい」
じゃあね、と少年は口を笑みの形にしたまま、それだけ言って玄関の扉を閉めた。
光昭は手にしていた土産を渡すことなく、家に帰った。
亜斗と交流がないまま、月日が流れた。頭の片隅にあるものの、会いに行く勇気が出なかった。いつの間にか数年が経っていた。
一夜にして復活したお屋敷にはゴシップ誌の取材がひっきりなしに来ていたらしいが、あれほど完全に復活してしまうと、そもそもなくなっていたことを証明できなくなってしまったらしい。騒ぎは下火になって、結局、都市伝説的なものとして落ち着いた。いまだに町民の話題としては頻繁にのぼるものの、余所から取材にやってくる者は目に見えて減った。それらのことを定期的にやってくる画商から伝え聞いた。
下手に騒ぎ立てることではないと憤慨している妻の横で、光昭は黙っているしかなかった。妻は、亜斗がやって来ない理由も、光昭が訪ねていかない理由も訊いてくることはなかった。
あれほど可愛がっていたにも関わらずその立場を貫いたのは、自分の態度から何かを察していたのであろう。そのことについて話し合う前に、先立たれてしまった。
始まりは些細な風邪で、拗らせて肺炎に、なんてことが現実に起こるなんて思っていなかった。一連の流れの中にいながら、光昭は作られた物語を追っているような気持ちだった。気が付けば顔に白い布を掛けられた妻を前に肩を落としていた。
何をすればいいのかわからなかった。必要な書類も、手続きも、何もわからなかった。そういうことは全て妻に任せてきたから。仕方がない人ですねえと笑いながら細々したことをこなしていく妻はもういない。
葬式の準備をしなければと頭で分かっていても、身体が動かなかった。食事もろくにとっていない。何か食べることから始めなくてはとようやく立ち上がって玄関を開けた。
さらさらと零れる雨の中、亜斗が一人、立っていた。
「……どうした」
「……ばーちゃんと、約束があったんだ」
でも来なくて、と亜斗は口だけを動かす。そこにはなんの表情も浮かんでいなかった。妻は亜斗とこっそり交流を持っていたのかと驚く。
「何か用事ができたのかなって、思ってたんだけど」
そうじゃないっていうヤツがいて、と続く言葉に疑問を持つよりも先に、もう流暢に話せるようになったんだな、なんて思う。
「何か、あったの?」
「死んだ」
自分の口から出た言葉に膝を折られた。ばしゃんと水が跳ねて、じわじわと水が染み込んでくる。
なんで死んでしまったのか。自分を遺して。亜斗との約束もあったらしいというのに。抜けた力は膝から地面に放出されてしまって、光昭の身体には戻ってこない。亜斗が腕を掴んで引き上げてくれる。
その手はとても、温かかった。
外出するのはやめて、亜斗を家に招き入れた。亜斗は遠慮するつもりだったようだが、最終的には仏間に引き入れることに成功した。今は妻の遺体を前にして手を合わせている。お茶を出す気力も能力もないので、それを斜め後ろからただ見守った。
祈りを終えても少年は振り向かない。ただ、横の壁に立てかけてある絵をじっと見つめている。それは光昭が妻を描いたもので、数カ月前からずっとそこに置いてあった。
光昭は、亜斗の父親の発言を思い出す。
『絵に、命を与えたりできるんです』
そして、亜斗の叫びを思い出す。
『なんでも動いてみえる』
一つの結論に辿り着き、光昭はゆっくりと口を開いた。
「なあ亜斗」
ぴくり、とその肩が震えた。
「お前には何か、聞こえているのか?」
振り返った亜斗の目が見開かれていた。ただでさえ大きなその目がぱちぱちと光を伴って開閉される。ふと、左右の色彩に若干の差があることに気が付いたが、言及はしなかった。
「なんでも動いて見えるって、言ってただろう」
亜斗はしばらく口を引き結んでいた。光昭は黙ってそれを見ていた。そうすると亜斗は重たそうにその口を動かした。
「『冷蔵庫に入っている納豆の消費期限が今日まで』なんだって」
「……は?」
予想外から飛んできたボールに唖然とする。一度喋ってしまったら楽になったのか、亜斗の口からどんどん言葉が出てきた。
「『書類に使っている印鑑類は仏壇の横にある引き出しに入ってます。診察券や保険証は和室の箪笥の一番上の引き出しに。同じところに筆記用具も入ってます。その下の段に通帳や銀行の書類があって、一番下の段に取引の書類がまとめて入れてありますよ。』」
つらつらと並べられるのは光昭の知らないこの家の事情だった。生前の妻がそれを亜斗に話すとは考えづらかった。亜斗は絵を見つめながら情報を吐き出し続ける。
「『お風呂は毎日入らないといけませんよ。姿勢が悪いんだから、血液の巡りをよくしないと。掃除の道具は脱衣所の箱にまとめてありますからね。洗濯機は服を入れて洗剤を入れて回すんですよ。洗剤の量はちゃんと量らないといけませんよ』」
亜斗が一度、大きく、息を吸い込む。
「『料理なんてろくすっぽできやしないの、分かっていますけど、ちゃんとバランスを考えて食べないといけませんよ。無理なら人を雇いなさいね。味噌と醤油はずっと同じものを使っているから変えない方が食べやすいと思いますよ。台所の床下にぬか床と梅干があるから、使えないなら処分してくださいね。薬を仕分ける人がいないからって飲むのサボっちゃいけませんよ。食器棚の引き出しに入れてありますからね。なくなったらちゃんと病院に貰いに行くんですよ』」
それは似たようなことを生前言っていたなと呆けた頭で呑気に考える。
「……『絵ばっかり描いてて、そういうこと全く分からない人だから困っちゃうわよねえ』って」
そこで亜斗が言葉を切った。それ以上何も言っていないのかと思ったら、そうではなかった。遺体と向き合って、膝の上の握りこぶしを震わせている。
「……わかってただろ、そんなことさあ」
ばーちゃん、と言う声には涙が滲んでいた。
「ダメじゃん、そんな人、一人にしちゃあ」
そう言って、ぽろぽろと涙をこぼしているものだから。光昭の両目からも水が溢れて止まらなかった。
それ以降、亜斗は一か月に一回程度、光昭の家に顔を出すようになった。大抵縁側に座って少し過ごし、立ち去るくらいの訪問だ。
きっと自分自身のためではなく、光昭のためだろう。それが分かっていて甘えていることがたまに申し訳なくなる。
「光昭サン、こんにちは」
「……おう、こんにちは」
縁側から立ち去った背中を見送ってから二週間ばかり後のことであった。珍しくインターホンを鳴らして正面玄関から入ってきた亜斗は、いつも通りに律儀な挨拶を口にする。そして右手に持ったビニール袋を少し上げて見せた。
「隣人からのおすそ分け、の、おすそ分け」
「相変わらずだな。まあとりあえず上がれや」
よくものを貰ってくる隣人の話は聞いている。譲られたそれらを、亜斗が光昭の家に横流ししてくるのは珍しいことではなかった。亜斗はお邪魔しまーすと言って手早く靴を脱いで揃える。光昭の妻が生前、亜斗に教えた動作だった。
亜斗が持ってきた袋には西瓜のつまったタッパーが入っていた。食べやすく立方体にカットされたそれは真っ赤で、きっととても甘い。袋から取り出して蓋を外す。
「縁側で食うか」
「いいねえ」
光昭の提案に亜斗はにぃっと笑って答える。その表情にはもう不自然なところはない。二人揃って縁側に腰掛けて西瓜を摘まむ。予想通りの甘さが口いっぱいに広がった。実もしっかりつまっていて瑞々しい。しゃりしゃりとした独特の食感を楽しむ。
「いい西瓜だ」
「どうしてこう高いもんを、ばんばんもらってこられるのか、謎なんだよなあ」
光昭はしゃくしゃくとどんどん口に西瓜を放り込んでいく。対して亜斗は、一個食べると満足したようでもう手に取らず、右横の柱にもたれかかっていた。
あの時も、あの時も、思い出せる限り何度も光昭は逃げた。
亜斗は覚えているのだろうか。それを尋ねたことはない。
そっと横目で亜斗を見つつ、そんなことを思った。少年は光昭を責めたことなど一度もなかった。
「……何か、言ってるか」
ん?と頭を上げた亜斗に部屋に置いてある絵を顎で示す。亜斗は部屋を振り返り、視線をぐるりと移動させて笑った。
「ここ数日、ぼーっとしてたって?心配されてるよ、光昭サン」
うひひ、と声を出して笑う顔には、やはり火傷一つ残っていなかった。
ひまわり畑の芸術家 久道 楽 @gaku-hisamichi
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