ひまわり畑の芸術家

久道 楽

第1話


瞼の裏が赤く染まっていた。開いた目に飛び込んできたのは炎に照らされて真っ赤に染まった部屋の入り口だった。何が起きているのか分からなかった。

ひっと吸い込んだ息に混じった煙で咳き込む。『火事の時は姿勢を低く』小学校で言われたそんな注意を思い出して、ベッドから転げるように降りて床に伏せた。止まらない咳に喉を両手で掴む。何度か呼吸して何とか落ち着きを取り戻す。まだ混乱から抜け出せない頭で『逃げなければ』とようやく思いつく。ベッド横にある窓を開いたが、その瞬間、熱風に吹き飛ばされるかと思った。

眼下に見える隣家は全体が火に覆われていた。

そんな、あの人は大丈夫だろうか、と頭が火のことなど忘れ、一瞬真っ白になる。

あの人が育てていたひまわり畑が煌々と照らされている。ゆらゆらと揺れているひまわりに火の粉が降りかかっていた。

燃え盛る隣家の正面で頭を抱えているのは自身の父親だった。

こんな夜中にあんなところで何をしているのだろうという疑問と、とにかく逃げなければという危機感がせめぎ合う。お父さん、と呼びかけようとしたがまた咳に阻まれる。

咳き込む音が聞こえたのだろうか、父親が顔を上げた。手のひら程度の大きさだったのに、その目に光がないのが何故か分かった。ひどく間を開けてから、父親がふらりと立ち上がった。こちらの窓に向かって歩いてくる。そうしている間にも熱風で髪が激しく踊った。

助けてくれるのだろうか。そんな期待を持ったが、自分がいるのは三階だった。飛び降りるのも怖いし、父親が受け止められるとも思えない。窓からではなく家の中を下に降りなければと思い直して姿勢を低く保ったまま部屋のドアから飛び出す。

しかし、階下は火の海だった。

自分の部屋に来るまでに炎が下を総なめにしてきたようだった。降りようにも、下りられる場所がもうない。部屋の正面で動けなくなって手すりに摑まる。

誰か助けて。

そんな声を、聞いた気がする。

助けを求めたいのは自分なのに。

父親が外にいるということは、家の中には誰もいないはず。誰の声かと首を巡らせた瞬間、廊下が崩れ落ちて、目の前が炎に包まれた。




枕もとでアラームが鳴り響いている。亜斗は八つ当たりのように激しく、スマホの画面に手のひらを叩きつけた。

嫌な夢を見た。昔の夢だ。

がしがしと乱雑に頭を掻く。そこら中に跳ねまわった頭は寝ぐせもあるが、くせ毛でもある。常に重力などお構いなしの、付き合いなれた頭だった。

周りを見ても、もちろん炎など見当たらない。カーテンを開ければ朝の光が一気に射しこんでくる。赤さなどない光の世界だ。若干頭痛のする頭を両手で掴んで両側から押した。

「おはよう」

 そんな声がした。声の方に目をやると壁に真っ黒な絵が掛けてある。

「はよ」

 申し訳程度に挨拶を返す。壁に掛かった絵がぐにゃりと歪んで一人の男の姿に変わる。齢三十くらいの特徴のない顔をした男である。

「うなされてたけど、大丈夫か?」

「夢見が悪かった」

「そりゃ災難だったな」

そう応えた絵からにゅるりと男が出てくる。

「朝飯でも作ってやろうか?」

「いらない」

 出てこなくていいと手を振れば、男は絵の中に戻っていった。またぐにゃりと歪んだかと思えば今度は大きな鳥の姿になる。青空でそれが羽ばたく様子はさながらテレビである。

「いいから寝てろよ」

 亜斗がそう言うと、その絵は掻き消えて元の真っ黒に戻った。静まり返った部屋で亜斗は一人ベッドから降りる。夢の中とは違い、白と青を基調としたシンプルな部屋だ。動物柄のカーテンや、ポップな掛け布団はもうない。そもそも火事以降、部屋の位置自体を変えたのだった。

 部屋を出る。二階の端を寝室にしていた。無駄に広いこの家で、亜斗が頻繁に出入りするのは寝室、キッチン、作業部屋、書斎くらいのものだった。他の部屋はほとんど物置兼保管庫になっている。父の作品や、自分の作ったもの、回収したもの、買ったものなど詰め込んでいて、亜斗自身把握していないものがある可能性は高いが、定期的に点検は行っていた。

 部屋を出た瞬間から、静寂とは程遠い世界が広がっている。

 そこらを走り回る犬、猫、ネズミに鶏、キツネに狸、闊歩する馬に立ち尽くしているウシ。パラソルをさした貴婦人とぶつかりそうになって頭を下げられる。角の先では歌舞伎役者が見栄を切っていた。その横でマジシャンが帽子から鳩を出しているし、それを見て喜んでいる子供は雪国の装いだ。一階の玄関ホールでは楽団がクラッシックをかき鳴らしているし、玉乗りをしているピエロもいる。

 また人が寝ている間に好き勝手しやがってとため息をつく。それから大きく二回両手を打ち鳴らした。

 賑やかさが一瞬で消え去り、人々はこちらに注目して、動物は動きを止めた。

「朝だから、さっさと帰る」

 その一声でさあっと潮が引くように全てが一斉に動き出した。楽しそうなものもあれば、不満そうなものもある。亜斗の足元を虹色のトカゲが駆けていった。先ほどぶつかりかけた貴婦人が会釈をしながら来た方向へ戻っていく。それに礼を返し、後姿を見送る。

 最後に玄関ホールの階段横にある銅像に馬が駆け乗って、ぴたりと止まった。ようやく静かになった。

 部屋に入るな、外に出るなという言いつけを破った奴はいないようで安心する。誰もいない階段を下りると止まったはずの馬がくるりとこちらに首を回したので、胴を軽く撫でてやる。ブルルと満足そうな鳴き声を出される。

 キッチンで冷蔵庫から牛乳を取り出してパックごと煽った。

「コップくらい使いなさいな」

 飾られた絵から聞こえた注意は聞こえなかったことにする。まあ失礼しちゃうと怒ったような声が続くがそれも無視してキッチンを出る。

 外に出て庭を真っすぐに進む。この家はどこも無駄に広くていけない。郵便受けから新聞を抜き取る。庭の隅に植えられた桜はもうすぐ五分咲きに届くかどうかといった頃あいだ。郵便受けの隅に座っている鉄の小鳥がチチチと控えめに鳴いたので嘴を軽く撫でてやった。小鳥は羽根を数回ばたつかせると元通りに座り直した。

 家の中に戻って玄関ホールに面した階段に腰を下ろす。何か面白い話でもないかと新聞を捲りながらまた牛乳を煽る。半分程度残っていたのがもうほとんどなくなっていた。

 亜斗の購入している新聞はいわゆる地方紙であり、それほど広域のニュースが記載されているものではない。この町、大きく見ても県内の話がほとんどである。

 町の端で火事が起きたが死亡者はいなかったこと。

 実業家の家に泥棒が入って美術品が盗まれたこと。

 今週の天気。

 来週のイベントの案内。

 そんな紙面にさらっと目を走らせていく。ひょいと足元に寄ってきたウサギの頭を軽く撫でてやる。玄関横に飾ってあるモチーフのウサギだ。薄茶色で長すぎない毛がさらさらとして心地よい。

 全部に目を通した後立ち上がる。読み終えた新聞は資材を溜めている箱に放り込んだ。台所の横にある洗面所に向かう。

「おはよう!」

「おはよう!」

「おはよう!」

「はいはい、おはよう」

 口々に挨拶をしてくるのは鏡の上に沿って張られたステッカーの小人たちだ。幼馴染みが勝手に描いて貼ったもので、毎朝やかましくて敵わない。そんなこちらの気持ちも知らず、鏡の上で太鼓やシンバルを打ち鳴らしている。

 蛇口の下に頭を突っ込んで頭ごと顔を洗う。水の流れを意識すれば、全ての水が洗面台に落ちていく。顔を上げるころには亜斗の頭部に水気の一つも残っていない。寝ぐせが取れた頭を撫でつけて力を込めれば、癖っ毛もなかったかのようにさらりと下を向いた。洗面台の横に置いてあった分厚い眼鏡を掛けて洗面所を後にする。

 部屋に戻って制服に着替えた。一年着ている制服は新品とは言いがたいものの、清潔感は保っていた。シャツとズボン、最後に学ランを着れば終了である。机の上に置いてあった鞄の中身を一応確認し、よし、とそれを肩にかけて黒い絵に声を掛けた。

「じゃあ、行ってくるからあとよろしく」

「おう。いってらっしゃい」

 そう返事をした絵画にはまた男の姿が浮かび上がってきていた。手を振るそれに応えず、亜斗は部屋を出る。起きた直後ほどではないものの、騒がしさが復活しつつある自宅を出て、鍵に手をかざす。その動作だけで鍵をかけ終えて家を後にした。門に手を当てれば抵抗なく開く。隙間から滑り出て元に戻した。通りかかった小学生集団がこちらを指さしている。

「オバケだ!オバケ!」

 至極失礼な発言は無視する。集団の数人がきゃっきゃと騒ぎながら寄ってきて家の門に飛び掛かってくる。門はぴくりとも動かなかった。元気だなと思いながら離れる。

 隣の家から人影が出てくるのが分かった。背中に揺れるポニーテールの持ち主は鏡の上にステッカーを貼り付けた犯人様である。よ、と手を上げられたのに口だけ動かして応える。そして隣人は置いて歩き出した。口は動かしたし無視したことにはならないだろう。小学生たちはまだこちらを指さして騒いでいた。

「こらー!人んち、入ろうとしないの!」

「紅葉おねーちゃんおはよー!」

 幼馴染みが小学生たちをなだめる声が後ろに聞こえた。小学生に目いっぱいの笑顔と共に挨拶されたらしい紅葉ははいはいおはようと、仕方なさそうながらも笑いを隠し切れない声で応じていた。

「オバケ屋敷、入ってみたい!」

 小学生たちが紅葉に向けてそんな声をあげていた。

 入ったって、特に面白いものないぞと心の中で言っておく。




 学校について、貼りだされているクラス表を確認した。亜斗の名前は二年三組。同じクラスに紅葉の名前があるのを確認して眉間にわずかな皺が寄った。ざわざわと活気に満ちた人波から抜け出して昇降口を目指す。昇降口正面に飾られた風景画の中で麦がゆらゆらと揺れている。教師も生徒もそんなことに気づかず挨拶を交わして通り過ぎていた。絵の横で音楽家が難しい顔をして腕組みをしていた。あの音楽家、なんて名前だったかと考えながら上履きを取り出す。脱いだ外履きは新しいクラスの靴箱に放り込んだ。

 結局音楽家の名前は思い出せなかった。まあさして重要ではない。亜斗は音楽家と目を合わせることなく教室に向かった。


 生徒が教室に揃ってから始まったホームルームは退屈だった。どうせ始業式と説明しかないのに登校するのは無駄な気がしてならない。亜斗は頬杖をついてぼんやり外を眺める。空を鮮やかな緑の竜が通り過ぎていった。それを並んで飛んでいる鳥は本当に生きているのだろうか。そんな思考が回ってきたプリントで分断される。そこには『進路調査票』という文字が躍っており、気づけば教室内はブーイングで満たされていた。

「まだ二年生、なんて言ってるとすぐ受験だからなー。来週までに提出するように」

 聞きなれた間延びした声が生徒を諭していく。

「ほら、プリントしまったヤツから体育館向かえー」

 始業式に向けて生徒たちがやる気のない移動を始める。校長の挨拶と春休み中の大会の表彰くらいしかないのである。やる気がでようはずもない。亜斗も立ち上がって早くも遅くもないタイミングで廊下に出る。生徒に混じってまた数人の音楽家がいた。今日はどうしてこう多いのだろうか。

 答えは美術室の前を通った時に分かった。乱立しているキャンパス一枚一枚に様々な音楽家の姿が描かれていたのだ。美術部の活動だろうか。ここから抜け出してきたので間違いないだろう。棚に置かれた石膏像がくるりとこちらを向いたから目を逸らした。


 亜斗の世界はいつも、無駄に賑やかである。


[newpage]


 立ちっぱなしの始業式が終わり、今日は解散と言われた生徒たちが一気に活気づく。亜斗はそれに構わず荷物をまとめて立ち上がる。クラスメイト達は親睦会だなんだと騒いでいるが、自分に声がかかることはないだろう。一角に集まった数人がちらちらと視線を寄越しているのはわかっていたが特に反応することでもない。

「あんた、クラス会来ないの?」

 しまった同じクラスにコイツがいるのを忘れていたと口を引き結ぶ。いつの間にか亜斗の横に来ていた紅葉に視線だけ向ける。

「少しは馴染む努力すれば?」

 そんな忠告にため息だけ返して亜斗は教室を出た。態度悪いなという文句が追ってきた。それに続いて他の生徒たちが『知り合いなの?』『関わらない方がいいよ』などと口々に言っているのも聞こえてきた。内心、もっと言ってやってくれと思わなくもない。

 真っすぐ帰るつもりではなかった。自宅とは逆の方向に歩き、ついでに眼鏡を外す。頭を振れば懐かしの癖っ毛がすっかり元通りになった。学ランを脱いで鞄に詰め込む。上まで止めていたシャツのボタンも二つほど外した。学ランのいいところは脱いでしまえば学校が分かりにくくなるところだと思う。通り過ぎた家の庭先で陶器の少女たちがくるくると回っていた。

「おや、亜斗ちゃん」

「ああ、ばーちゃん。おはよ」

 縁側からの声に振り返ればひらひらと手を振っている柔らかい笑顔の老女がいた。遠慮なく庭に入り込む。お盆に置かれた二つの湯呑みからは湯気が上がっている。

「今日もいい天気で、お茶が美味しいねえ」

「そりゃいいね」

 老婆の隣に腰掛けたところで家の奥から七十歳くらいの短髪な男が出てきた。

「ああ、亜斗の坊主か。声かけろ。泥棒かと思うだろうが」

「光昭サン。どーも」

「なんか飲むか?」

 厳つく見える老人の細やかな気遣いに亜斗は首を横に振る。

「そうか。……何か言ってるか?」

「『今日もいい天気で茶が美味い』ってさ」

 老女の発言をそのまま伝えればそりゃいいやと快活な笑顔を返される。そんな彼の後ろの部屋には数多くの絵が並んでいた。そのうちの一枚から亜斗の横に座っている老女の姿もある。どれも温かみのある笑みを浮かべていた。

「なんか欲しいのあるか?」

「んー今日はいいかな。また今度来るよ。声かけられたから寄っただけ」

「そうかい」

 光昭はお盆から一つ湯呑みを取って口に含む。

「次何描こうか考えててな」

「好きなモン描きなよ」

「そりゃあそうなんだけどよ」

 さてとと亜斗は立ち上がる。

「ばあさんに挨拶してくか?」

 光昭が指さしたのは隣の部屋で、そこには仏壇があった。白黒の写真でも座っている老婆が微笑んでいる。

「それもまた今度」

 じゃあねと手を振れば縁側に座った二人が揃った動きで振り返してくれた。

 光昭の家を後にしてふらふら歩き続ける。時々スマホを取り出して方向を確認する。ニュースサイトには新聞と違う情報がいくつか載っていて、その一つが火災発生場所の、より詳しい住所だった。町内はある程度把握しているものの、完璧かと言われればそこまでではない。その自覚があるのでちゃんと地図を見ていた。

「あら、珍しい」

「こっちに用事?」

「うわ、お前かよ」

「こんにちは」

「遊んでいかない?」

 そんな声を浴びせてくる様々な存在を全部スルーして歩き続ける。顔面に向かって飛んできたムササビはさすがに避けた。

「どうしてこんなことに」

 そんな声に足を止めた。改めて地図を確認すれば火事の現場はすぐそこだった。角に中年のサラリーマンが立っていた。ひどくぼんやりとした輪郭の男は、壁に向かってぶつぶつと呟き続けていた。

「こんなはずじゃなかった。どうして。おかしい。なんで。どうして」

「おっさん、何してんの」

 そう声を掛けたが反応はない。ただただ一人で呟き続けている。

「失敗した。失敗した。失敗した」

 今度は壊れた放送のようにそれだけ繰り返し始める。亜斗は男の肩を掴んだ。ぐらりと傾いだ男の顔が目に入る。絶望しきった顔に涙を浮かべていた。細長い顔に窪んだ眼窩、憔悴しきった骸骨のようである。

「俺のせいで……俺のせい……」

「おっさん!」

 亜斗が両手で頬を叩いてやるとようやく男の目の焦点が合った。

「お、俺のせいなんだ!おれが、煙草を、消しそこなって……子供が、子供が!」

 男はぼやけた輪郭のまま必死に何か伝えようとしてくる。その剣幕に亜斗はわずかに仰け反る。長い腕に掴まれた両腕を振り払う。

「子供はもう病院だよ。火傷はしているけど無事なはずだ。アンタも落ち着いて、元の場所に帰りな」

 男はぽかんと口を開いて「もとのばしょ……」と呆然自失している。

「アンタ、煙草消し忘れた本人じゃないんだから。落ち着いて」

「おれじゃない……?」

「アンタ、混乱して自分のこと人間だと勘違いしてない?」

 男は瞳を瞬かせ、首を傾げる。そのまま数秒動かなかったが、ようやくああ、と腑に落ちた様子で亜斗の肩を掴んだ。今度は抵抗しないでされるがままになっておく。

「そう、そうだ。俺は玄関にいて。いつも、玄関にいて、ずっと見守ってて」

「アンタも焼けたの?」

「いや、残ってる。焼けてない。焼けたのはリビングだ」

「そう。よかったね」

 そう言った亜斗に男は、でも子供は無事じゃなかったとしょげかえっている。そんな男に亜斗はついて来いと声を掛けると火事の現場に向けて歩き出す。アパートの一階だった。父親と子供が住んでいて、父親の煙草の吸殻から出火したらしいとニュースに書かれていた。立ち入り禁止のテープが張られているものの、見張りの警官などは見当たらない。人通りのないことを確認してから、亜斗は当然のようにテープの下をくぐって扉に手を当てる。力を込めれば人が通れる程度の穴が開いた。

「お邪魔しまーす」

「あんた、何?何それ?そんなことできるもんなのか?」

「あ、これか」

 男の質問は無視して玄関横に貼られていた絵を指さす。クレヨンで書かれた人間の横に拙い文字で「おとうさん」と書かれていた。「さ」がひっくり返って「ち」になっているのもご愛嬌である。

「……一生懸命描いてくれたんだ。いい子なんだよ」

「様子見てきてやろうか?」

 その問いに男は目に見えて顔を輝かせた。

「そんなことできるのか?」

「ああ。だからアンタは絵に戻って待ってて」

 男は黙って頷くと薄くなって消えた。亜斗は外に出て携帯電話を取り出す。短縮で掛けられる番号に発信した。呼び出し音一回に満たない時間で相手が応答する。

『おーっす。どうした?』

「ムショウ、手伝って」

『りょーかい』

 間延びした返事から三十秒ほどして一羽の鳥が空から降ってきて亜斗の肩に止まった。亜斗の部屋で大空を飛んでいた鳥である。

「お待たせ」

「病院行くから、昨日の火事で搬送された子供を探してほしい」

「りょーかい」

 鳥は器用に片方の羽根を持ち上げて返事をする。亜斗は近くの総合病院に向けて歩き始めた。この近くで搬送されるならあそこであろう。15分程度で着くはずだ。




『んじゃ、ちょっくら行ってくる~』

 黒みがかったグレーの翼をはためかせて鳥が病院の廊下を真っすぐ進んでいくのを見送る。誰もそれに気づく人間はいない。病院の正面玄関に飾られている銅像は興味深そうに目で追っていた。

 一人残された亜斗はロビーの椅子に腰かける。順番を待つ人で込み合ってはいるものの、座れないほどではなかった。小さな子供が廊下を走っていると思った矢先に勢いよく転んで泣き始める。誰か付き添いが来るかと思いきや誰も来ない。亜斗は仕方なく立ち上がった。

「大丈夫か?誰と一緒?」

 泣き止まない子供は質問に答えられそうにない。仕方ないと鞄に何かないか探す。筆箱から消しゴムを一つ取り出した。なんの変哲もないそれをスリープから取り出す。

「ね、これよく見て」

 唐突な言葉に子供は泣く勢いを弱めて瞳を瞬かせる。亜斗は子供の前に提示していた消しゴムを両手で包んで何度か振った。

「ほい」

 開いた手の上には咲き誇るバラの形をした消しゴムがあった。子供はぽかんと口を開いて見つめている。涙は引っ込んだようだ。

「すみません!」

 駆け寄ってきた男を見て目を見張る。それは火事現場の近くで泣いていたあの男に瓜二つだ。ということはこの子供が火事の被害者だろうか。

「結構勢いよくこけてましたが、怪我はないと思います。これ、良ければあげるよ」

 前半は男に向けての説明で、後半は子供にバラを差し出しながらのセリフである。男はしきりに頭を下げており、子供の方は亜斗から受け取ったバラをしげしげと眺めている。その頬と右腕にガーゼや包帯は見えるものの、動くのに問題はなさそうだ。

 そう判断すると同時に右肩に鳥が止まる。

「なんだ、もう会ってるじゃないか」

 鳥の発言は無視して子供にじゃあねと手を振る。子供は父親に手を引かれながらも、空いている方の手を振ってくれた。目的は達成されたので病院から外に出た。戻って家で待つ男に伝えてやらなければなるまい。亜斗は伸びをして左右に揺れる。鳥はそれに合わせて飛び立つと人間の姿になった。

 朝、絵の中から亜斗を見送った男の姿である。

「ムショウ、人に見えるようになっといて」

「ほーい」

 間の抜けた返事である。そんな返事を残して物陰へ消えたかと思えばすぐに出てきて亜斗の横に並んで歩き始めた。

「学校どうだった?」

「……くうと同じクラスだった」

「ぶわっははは!そりゃ大変になりそうだ!ごしゅーしょーさま!」

「他人事だと思ってお前……」

 横で爆笑している男の背中を平手でぶん殴っておく。

「中学からここまで何とか避けられてたのになあ。同じクラスともなると苦労しそうじゃねぇか」

 全くムショウの言う通りである。こちらは気遣いも込みで避けてやろうとしているのに真っすぐ体当たりタイプの猪娘には理屈が通じないのだ。

「オバケ屋敷の隣人とかアイツも笑えないだろうによ……」

「オバケ屋敷の住人が言うと説得力あるな」

「くうのあの性格なんとかならんもんか……」

 切実さの滲み出る声にムショウは非情にも即答で無理だろうと返してくる。

「ずっと付き合いのある隣人を噂話くらいで避けるような娘じゃないだろ。あそこは一家全員そのタイプだ」

「………………知ってる」

 だからこそ厄介だと思っているわけだが。隣人は母親と二人姉妹の三人暮らし。昔から付き合いがある分無視がしにくい。無関係を装うにも限界があった。そんな話をしている間に火事のあったアパートに戻ってきている。人通りがないことを再度確認して亜斗は再び部屋に忍び込んだ。ムショウにはついてこず、アパートの前で待つよう言ってある。

「どーも。子供、無事だよ。元気そうだった」

 玄関横に飾られた絵にそう呼びかけると、絵の男がにゅるりと姿を現して大声を上げる。

「よかった!ありがとう!よかった!本当に良かった!」

「だからあんまり気に病むなよ。その内二人とも帰ってくる」

 ありがとうと繰り返し頭を下げてくる男を片手で制して部屋の奥を覗く。焦げ臭さに満ちていて、いい気分はしない。リビングの大半とそれに繋がっている台所の一部が焼かれているようだ。

「修復が必要そうな美術品とか、あるか?」

「美術品……?」

「絵とか、像とか、装飾品とか、そういうの。アンタと話ができる類のもの」

 男は顎に手を当てて首を捻る。

「ここにはそういう類のものはないかな……おれと同類なものは大体父親の寝室に入ってるから、今回焼けたヤツはいないと思う」

 目で指し示された寝室を開けてみると妖精のように透き通った髪の女が亜斗を見てしずしずと礼をした。銀細工か何かだなと検討をつけて扉を閉める。見る限り男のように困り果てているものも、死にかけているものもいなさそうだ。

「アンタはなんなんだ?」

「美術品が壊れてたら修復しようか、という善良な思考を持ちあわせた一般人」

「一般人が嘘なのはおれでも分かるぞ」

「まあ大した者じゃないよ。今後何か困ったことがあったら町はずれの屋敷に来て。その辺のヤツに訊けば場所分かると思うから」

 寝室の扉を細く開け、アンタもね、と中に座っている女にも声を掛けておく。

「じゃあ、お大事に」

「子供を見てきてくれて、ありがとう」

 再度お礼を述べてくる男にもういいからと手を振る。男は涙目のまま薄くなって消えた。アパートから出るとムショウが手持ち無沙汰に立っていた。足元の小さな小石を蹴っている。他にやることはないのか。

「お、終わった?」

「うん。特に問題なさそう」

「んじゃ帰るか~」

 その言葉が終わる前に家に向けて足を出す。

「そういや病院に新入りがいたぞ」

「人間?その他?」

「その他の方だな~退院してった子が、まだ残ってる子たちに向けて、遠足で言った場所を描いて持ってきたんだと。風の爽やかないい風景だったぜ」

 風景画か、と頷く。子供の描いた絵には魂が宿りやすい。下手な芸術家が描いたものよりもよっぽどだ。そこまで考えたところでん、と何かが引っ掛かる。風が爽やか?外から見てもそれが分かったのか?

「通りがかるついでに、ちょっと入ってぐるりと回ってだな……」

「お前道草食ってんなよ……」

 人が待っているというのに勝手をしてくれたなと一睨みする。対してムショウは何のことだかと肩を竦めて見せてくる。

「あらあら、亜斗くん?」

 その声に振り向くと垂れ目を笑みで更に下げた温和な女性が立っていた。ぱんぱんになったビニール袋を両手に持っている。

「おばさん、こんにちは。帰るところ?持とうか?」

「あら助かるわ~色々貰っちゃってね~」

 うふふと笑うのは隣家の母親、つまり紅葉の母である。またかと笑いながらその手にあった袋を両方引き受ける。

「いいお肉もいただいたの。亜斗くん、ムショウさん、今晩うちでご飯食べない?」

「じゃあ俺作るよ」

 助かるわ~とほけほけ笑っているこの女性、なんと料理が壊滅的にできない。この人がというより、この一家が、である。いいお肉を焼こうとしても黒焦げにする未来が見える。それも隣家と縁が切れない理由の一つであった。

「オレは用事あるのでご遠慮します~」

 あら残念と眉を下げられて、また今度機会があれば~とへらへらしているこの男、そもそも食べ物など食べなくてもいい存在である。白々しいことこの上ないが一応人間ぶるように指示を出している身なので静観する。

「何もらったの?」

「えっとね、いい牛肉と、かぼちゃと、白菜と大根と~」

 道理で両手にかかる袋が重い訳である。このご婦人、妙に人からよくものを貰ってくる性質があるのだ。それは彼女の人柄が一因とも思うが、それ以上に何かしらそういう星の元に生まれているとしか思えないレベルなのである。現代版わらしべ長者を目指せると亜斗は常々思っていた。

「肉はとりあえず焼くとして、あとはどうしようかな」

「かぼちゃは煮つけが嬉しいわ~」

 細やかなリクエストに了解と笑って返す。

「そういやくう、今日クラス会とかじゃないの?」

「あら、よく知ってるわねぇ。でも夕飯は家で食べるって連絡きてたわ」

 クラス会自体は開催されたらしい。親交を深めたい人たちで勝手にやっていただけるなら助かる。無理やり付き合わされるようなことがあれば全力でぶっ壊してやりたいが。

「亜斗お前クラス会行かなかったのか?」

「あら?亜斗くん、くーちゃんと同じクラスなの?」

 どっちの質問に答えるのも面倒くさい。俺が行くと思うのかという意思をムショウに目で叩きつけておく。その後にこりと微笑んだ。

「そうそう、久しぶりに」

「ほんとに久しぶりね~小学四年生とかそれくらいぶりじゃないかしら?」

「そうだね」

「あの子が無茶やらかさないように見ていてくれると助かるわ~」

「……ちょっとそれは保証できないかな」

 大分お転婆な幼馴染みを思い浮かべて遠い目になる。亜斗がどうこう言ったところで聞きやしないのである。

「そもそも、学校じゃ話さないし。オバケ屋敷の住人と知り合いなんて印象わるいよ。おばさんもあんま俺と関わらない方がいいよ」

「そんなの気にしないわ~亜斗くんはいい子だもの」

 にっこりと胸を張られても困ってしまう。亜斗自身、自分があまりいい奴だと思ったことがない。それでも自信満々に即答する隣人に救われないかと問われれば否である。

「そう、ありがと」

「あと亜斗くんがいないと我が家はもれなく飢え死にしちゃうわ」

「切実な問題だよねそれ……」

 せめて姉妹のどちらかに料理技術を覚えてほしい今日この頃である。




「ただいま~」

「おかえり~って亜斗じゃん、おつ。何?夕飯食べてく?」

「作って食べてく」

「最高じゃん~いらっしゃい」

 帰宅した母親と、ついてきた亜斗を迎えたのは長女の稲穂である。ゆったりとした部屋着でも分かる線の細さだが、ひ弱な印象はない少女だ。背は亜斗より少し低く、紅葉と変わらない。

「稲穂、今日大学ないの」

「3限まででバイトもなし~自由を謳歌してるとこだわ」

 大学生はお気楽でいいなとため息をつく。持ってきた食材を勝手知ったる冷蔵庫に詰めながら、中身を確認して献立を考えていく。その中で肉らしき包みを手に取った時、頬が引きつるのを感じた。

「おばさん、これ、マジでいい肉でしょ……」

「でしょう!」

 一体どこの誰にこんなもの貰う機会があるのだと問うてみたいが訊いたら終わりの気もする。パックではなく紙で包まれたそれはチルド室に丁重にしまった。

「え、エイいるじゃん!何してんの!暇ならクラス会こればよかったじゃん」

 玄関が開いたとたんにけたたましいのは次女のお帰りである。亜斗は半眼になって反論する。

「用事あったし、なくても参加しねーよ。キャラじゃない」

「キャラってなによ。辛気臭いキャラ?」

「うるせー」

ぱたぱたと駆け込んできたふくれっ面に舌を突き出しておく。

「お、夕飯担当?」

「そうだよ。おばさんがいい肉貰ってきたってさ」

「最高~!」

 全く、よく似た姉妹である。




 騒がしい隣家から帰宅。肉は文句なしに高級品で、舌の上でとろける逸品だった。

門に手を当てて力を込めればこれまた抵抗なく開く。空には星が瞬き始めていた。今さっき出てきた隣家の屋根辺りに三日月も浮かんでいる。夕飯を作って食べて即帰宅なので妥当な時間ではある。さすがに洗い物まで請け負う程親切ではない。と言うより、そこまで甘やかしてやる義理はない。肩に掛かる鞄を直して玄関をくぐる。

 目の前にはまたお祭り騒ぎの光景が広がっていた。

 朝と同じくオーケストラが奏でているクラッシックに加えて、ライオンが火の輪くぐりをしている。炎に若干の苦手意識がある身としては渋い顔にならざるを得ない。足元にひょこひょこと小動物たちが集まってきた。屈んで撫でてやる。三毛猫がごろごろと喉を鳴らした。

「おかえり~今日はもう出かけないのか?」

 二階の部屋から飛び出してきたのは昼間と同じ鳥だ。ムショウである。

「今日はもう出ない。回収するやつは昨日済ませたし」

「そーかい」

 ムショウは頭上でくるりと一回転したかと思えば人間の姿になって地に降り立つ。

「昨日のやつ、二階の保管庫に運んどいたぞ」

「了解」

 お祭り騒ぎはスルーして黒衣の集団とすれ違いながら階段を上る。自分の部屋に鞄を放り込んでから二階の保管庫に向かった。両面に設置された棚に隙間なくキャンバスが並べられている。亜斗は一番奥に立てかけている、布のかかったものを灯りの下に引っ張り出した。安楽椅子に白髪の老女が腰かけている一枚である。ゆらゆらと椅子を揺らしながら、亜斗と目を合わせて微笑んだ。

「こんばんは。連れ出してくれて、ありがとうねえ」

「どういたしまして。持ち主のとこに返すのはほとぼり冷めてからになるからちょっと時間もらうよ。それまではここで自由にしてて」

 ええ、ええ、と柔らかく頷く女性に亜斗も微笑みを返す。元々は実業家に騙し取られた子供の絵を取り返してほしいという依頼だった。本人、本絵画に確認してみたところそれが事実だと分かったので家に忍び込んで拝借してきたのである。

「お前、芸術関係の何でも屋みたいになりつつあるよな」

 保管庫の入り口にいつの間にやらムショウが寄りかかっている。

「別にいいよ。俺も色々情報欲しさに徘徊してるし、そのついで」

 老女の絵を光の当たらない位置まで戻して再び丁寧に立てかけておく。横に立てかけてあった絵から水しぶきが上がる。イルカがプールに飛び込んでいた。


 亜斗の探している絵の情報はまだ見つかっていない。

かつてあの人が描いたひまわりの絵。


「諦めないねえ」

「諦めないよ」

 燃えてしまったかもしれない絵を、ずっと探し続けている。保管庫を出ると馬に乗った騎士が廊下を駆けていった。その後ろから凧を持った子供たちが走っていく。きゃっきゃとはしゃぐその声を聞きながら今日はさっさと風呂に入って寝ようと思った。


 今日は、悪い夢を見ないといい。




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