三分後にちゅうと鳴く

九十九

三分後にちゅうと鳴く

 鼠には三分以内にやらなければならない事があった。


 鼠は聡明だった。鼠は人に飼われていた。鼠には恩義があった。

 鼠の主人は、人間の成人男性だった。名前は本人の意向のために伏せる。何せ女の子のような名前だと言って、同僚に呼ばれるのも嫌がるのである。とは言え、既に成人男性、顔も他の雄から比べて強面で体格も悪くない我が主人なので、嫌がるのも分かると言うものだ。

 主人は鼠の事をハムスターだと言って可愛がる。初めて拾われた土砂降りの雨の日、母君が鼠の姿に悲鳴をあげ、父君が困惑した声で「それどうするんだ?」と尋ねたあの日から、主人は鼠の事をハムスターを拾ったのだと言って大事に大事に育ててくれている。同じ齧歯類と言えども違う種族、鼠には鼠の誇りもあるが、主人がハムスターだと思い込んでいるのなら、それも受け入れようと日々滑車を回している毎日だ。

 主人はもしかしたら小さな生き物は皆同じに見えているのかも知れない。言わば守るべき生き物として、良く言えば分け隔てなく、悪く言えば形を気にせず見えている。

 拾われて数日、主人のパソコンから流れる動画には堂々としたハムスターが映っていた。ジャンガリアンハムスター。もこもこのずんぐりむっくり、尻尾はちょん。鼠とは何もかも違うその姿に、流石に主人も気がついたかと捨てられる未来さえ考えたが、主人はと言えば「うちのハムスターは尾っぽが長いんだな」。これだけである。目が悪いのかとも思ったが、者の見事に視力は両目とも二点零。どう見えているのか気になる所ではあるけれども、可愛がってくれるので、まあ良いかとも思う。

 

 鼠は幸せに生きてきた。拾われて数年、主人は鼠を幸せにしてくれる。

 大事に守られ育てられ、時々気まぐれに脱走する。何せハムスターだと思われているのだ。大脱走しなくては、主人の期待に応えられぬと言うもの。

 脱走した行き先はいつも決まっている。主人の所だ。

 主人が出かけたのを見送り、自分の棲家を出て、主人の家を出る。カラスなどの鳥や猫に見つかって食われてしまっては主人が悲しむと、細心の注意と並外れた運動神経を使い主人を追いかけ、仕事場まで着いていくのだ。

 そうして主人の仕事ぶりを眺める。時折違うところに行ったりはするが、大体は主人のいる場所の天井裏だ。主人は周囲に頼りにされているらしく、鼠も鼻が高い。

 主人が外に行く時だって鼠は着いて行く。主人達が車へと乗り込む時に誰にも見られぬよう素早く乗り込み、足元へと潜めば、簡単におでかけが出来る。

 だが、どうやら最近は主人も鼠の存在に気づいているようだ。出勤の歩く速さが前よりゆっくりになったし、車の扉だって前は乗り込めないこともあったのに、今はゆったりと空いている。何より帰宅の時、主人はポケットの中に何なく忍び込ませてくれる。そのまま洗濯機に行った事はないし、毎回主人は鼠の棲家の扉を開けて、そうしてそっと出ていくのだ。少しすれば沢山のご馳走を持って帰ってきてくれる。

 鼠はそれをたらふく食べて、主人の手の中で眠るのだ。幸せな毎日。ドブの増水で流され掛けていたあの頃とは何もかもが違う、楽しい毎日だ。


 鼠は主人のためならなんだって出来た。主人に嫌味ばかりな上司のボールペンの持ち手をぼろぼろにしてやることだって出来たし、母君や父君に見せるための芸だって出来た。

 だから爆弾を前にしたって、鼠はなんだって出来るのだ。

 

 扉を開けた隙間から嫌な匂いがした。とても嫌な匂い。きっと人間は気が付かない、酷い匂い。

 主人と一緒にやってきた現場は恐らく廃工場か何か。そう言う広い現場の時、いつもは主人と逸れないためにちょっとしか動かないけれど、今日はそうも言ってられなかった。

 車を主人に見つからないように降りる。安全な時は主人がちょっとだけ長く扉を開けていてくれるけれど今日はすぐに閉められた。出発の時もそうだった。それを掻い潜って車の下に潜り込む。主人は鼠の知能を買ってくれているので、きっと署の中で大人しく待っていると思っている。

 主人とその同僚が嫌な匂いのする建物の中へと慎重に歩いていく。嫌な匂いは上の方からした。

 鼠は自慢の運動神経を使って、主人達の後に続く。主人達では登れない雨樋の上をさっさか登って、換気扇から中に入れば嫌な匂いは更に強くなった。下に主人の気配を感じながら、嫌な匂いの方へと進んで行く。帰れなくなるんじゃないか、なんて考えなかった。この嫌な匂いは主人を奪う。その恐ろしさだけが脳内にあった。


 散らばったガラス、転がるパイプ、そんなもの日々滑車で鍛えている鼠の足元にも及ばない。辿り着いた廃工場の二階、一番奥の部屋にそれはあった。爆弾だ。

 デジタル表示のタイマーに、横長の本体から色の違う太い二本のコードが連なっている。

 これは見た事がある。主人と一緒に見た映画に出てきたものと瓜二つだった。確か、コードのどちらかを切れば止まる、と言うタイプの爆弾だった筈だ。だがどちらを切れば良いのかも、本当にコードを切って止まるのかも分からない。

 主人に伝えなくてはならない、と鼠は走る。時間はまだあった。

 けれど部屋の隙間から一階の屋根裏に降りれば、下から騒々しい音が聞こえてきた。爆弾とは違う嫌な匂いがする。鉄錆た匂いだ。

 割れた箇所から見下ろせば、見知らぬ男と主人が取っ組み合っている所だった。同僚の姿を探せば、蹲っている。その体の下には赤色が流れていた。

 男はがたいが良く、がむしゃらに暴れている。主人もがたいが良いが、あれでは互角だ。道連れにしてやる、と耳に痛いがなり声が廃ビルを揺らす。

 これでは主人に伝えられない。一向に男は引かず、主人も動けぬ同僚を置いて動けない。

 何度か二階と一階の天井裏を往復して成行を見守っていたが、時間はどんどん減っていく。二十分が十五分になり、十五分が十分になる。

 五分前。せめて主人達を外の安全な所まで逃がせないか、と考えては見たが、男は一向に譲る気がない。主人達を巻き込んでやろうと息巻いている。

 三分前。もう時間はない。逃す事は出来ず、出来るのはコードを切って止まるか否かを賭ける事だけだ。

 爆弾を前に構える。鼠は三分以内にやらなければいけない。

 定番の赤い線と青い線を前に考える。考えても明確な答えはない、殆どこれは運試しだ。もしかしたらどちらかを切っても止まらないかもしれない。けれどもやるしかない。主人を助ける方法があるならやるしかない。

 口を開けて、閉じる。どちらを選べば良いのか、決めきれない。だが時間は刻一刻と過ぎていく。

 主人と見た相棒ものの映画、戦う相棒を守るために、最後の決断を下した男が切ったのは赤い線だった。そうして止まった時、叫ぶのだ。相棒の名を。

 既に二分前は超えた。鼠は前歯に力を入れて、赤色の線に噛み付いた。

 必死に齧る。がじがじがじがじ。タイマーはもう一分を切った。

 がじがじがじがじ、そうしてがちんと歯が鳴る。赤色の線は見事に切れた。

 タイマーは止まっていた。残り十三秒、再び動き出す気配も、爆発する気配もない。

 出来た。出来たのだ。鼠は主人のために出来たのだ。 

 あの映画の主人公の相棒みたいに、鼠は廃ビルに響かんばかりの大声で主人を呼んだ。

「ちゅう!」


 鳴き声が響いて数秒、壁に何かがぶつかる大きな音がして少し、慌ただしく階段を駆け上がる音がして、主人が爆弾の部屋へと顔を見せた。

「ちゅう」

 鳴けば主人がこちらを向く。その胸に向かって、鼠は飛び上がった。


 温かい腕、優しい手、良い匂いがするポケットの中。いつの間にか鼠は眠っていた。


 目が覚めた時には、大好きなものでいっぱいのご馳走に囲まれていた。主人が優しい目で、大好きな手で撫でてくれる。鼠は幸せだった。

 次の日には主人の仲がいい人たちの中で鼠は英雄になっていた。堂々と、けれどこっそり連れてきてもらった警察署で、鼠はまたいっぱいのご馳走と勲章をもらった。

 鼠は聡明である。鼠は主人に飼われている。鼠は恩義を感じている。鼠は幸せだ。

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