白い部屋

陰陽由実

白い部屋

 ████████には3分以内にやらなければならないことがあった。


 はた、と気づくと、自分は見知らぬ場所に立っていた。

 見渡す限りの白。白い部屋だ。

 白。白。白。白……いや、ひとつの面だけ真っ白ではない。

 壁に、自分の目線より少し高いくらいに設置された白い板。そこへ一文字が片手を広げたくらいの大きさの明朝体で、でかでかとこう書かれている。

「己の名を、答えよ……?」

 己というのなら自分のことなのだろう。

 簡単なことだ。

「████ ────?」

 名前を言おうとして、途中でやめた。

 名前が、思い出せない。

 なんなら今自分が発した言葉も思い出せない。

 ……なるほど。

 ひやりとしたものが頬を伝った気がする。

 さらに文字の下には文字が書かれた白い板よりは少し小さく、しかしサイズとしては大きく感じるタイマーが壁に設置されており、1秒1秒の時間をカウントしていた。

 白地に赤い数字。今まさに『2:46』となっているから、おそらく制限時間は3分なのだろう。見覚えのあるリズムで数字が小さくなっていくのをみると、この問題には3分以内に解決しろ、ということが容易に分かった。

「いや、無理があるだろう……」

 思い出そうとしてもなにも思い出せない。なんなら自分の記憶がない。

 自分はどういった経緯でここにいるのか、さっきまでどうしていたのか。

 自分はどういう存在で、どんな人生を送っていたのかすら思い出せない。

 完全な記憶喪失状態。

 そんな自分の状況に気づき、さてこれはどう反応すればいいのだろうか、とたそがれたのがつい今しがたの出来事だ。


 とりあえず何も分からないので、せめてヒントを得ようと部屋を見まわした。

 真っ白な部屋。窓はひとつもなく、扉もない。

 家具も小物も何もない。

 あるのは正真正銘、さっきの文字の板とタイマーだけのようだ。

 部屋はさほど広くない。両手を広げてくるくる回ることはできるが、移動するとすぐに壁に手が当たる。家庭用の風呂場くらいの狭さだろうか。

 天井もあまり高くない。背伸びしてもギリギリ手は届かないが、飛んでみると手のひらすべてを天井につけられるくらいの高さだ。

 これはなんというか、部屋というより自分がモルモットのように小さくなって箱にでも入れられたような感覚がする。

 とはいえ自分はここで生まれて育ったわけでもあるまいし、ここへ入れるためにどこかしらから入れた、つまり出入り口があるはずだ。

 とはいえ制限時間があるのだから扉を探して突破するような時間はないだろう。

 そもそも扉を見つけても開くとは限らないし、というか開かないだろうし、無理に突破できると思えない。

 どうしたものか。

 とりあえずタイマーあたりを調べてみることにした。

 今は『2:07』となっている。そろそろ2分を切るな、急がなくては。

 時間を示している電子板を触ってみる。指先に金属の冷たさが伝わってきた。

 タップしたりスライドしたりしてみても何も反応がない。

 ちょっと外してみようかと縁をガタガタさせてみたが、固定されているようだ。全く動かない。

 次に少し手を伸ばして文字の板に触れた。

 電子板よりも少し温かみがあるものの、物体特有の冷たさがある。表面はつるりとしているが陶器では無さそうだ。なんだこの材質。

 べたべたと触ってみても埃やインクが手につく様子はない。

 これも遊び心で外そうかと思ったがびくともしない。よく見れば壁と同化しているようだ。壁と板の間に隙間が全くない。くっつけているというより、壁を作るときにわざわざこの部分だけでっぱらせて、一緒に壁紙を貼り付けたような感じがする。

 元々ある部屋ではなく、何かの目的があってわざわざ作ったようなものを感じさせた。

 何のために? まさかこんな馬鹿げたことをするためだけに用意したのだろうか。そんな馬鹿がいるのか、世の中には。

 壁にも触れてみた。文字の板と同じくつるりとしている。

 ノックをするように軽く叩いてみた。

 コンコンコン……

 低く重い音。厚い壁らしい。この先に空洞は無さそうだ。

 他の三面もあちこち叩いてみたが、音に変化はない。

 一周して、またタイマーのある面が目に入って──『0:14』と示していることに気がついた。

 しまった、周りを調べるのに時間を使いすぎた。そもそもヒントを得るために調べ始めたのに、調べることばかりに気が向いてしまって、1番の問題の「自分の名前」を全く考えていなかった。

 というか、相変わらず全く思い出せない。

 無慈悲にも1秒1秒が次々と消費されていく。

 何か答えなくては。というより、これは普通に呟くだけでいいのだろうか。

『0:03』……『0:02』……

 ええい、ままよ!

「太郎? いや、花子……とか?」

 タイマーが『0:00』を示したその瞬間、腹が内側から膨れていくのを感じ、霧散した赤いものを見た。



  ◆◆◆



「は……?」

 気がつくと白い部屋に立っていた。

 見渡す限りの白。白い部屋だ。

 白。白。白。白……いや、ひとつの面だけ真っ白ではない。

 壁に、自分の目線より少し高いくらいに設置された白い板。そこへ一文字が片手を広げたくらいの大きさの明朝体で、でかでかとこう書かれている。

 ──己の名を答えよ。

「……っ!?」

 まて、この景色にはよく見覚えがある。

 ついさっきまで自分がいた場所だ。

 この、己の名を云々と書かれた下にはタイマーがあって、それで──

 自分の視線の中央にタイマーを向けると、『3:00』と表示された画面が『2:59』に切り替わり、見覚えのあるリズムで数字を小さく切り替えていく。

 おかしい、つい先程タイマーは『0:00』を示したはずだ。

 あの瞬間、自分の腹が何か急にガスが膨らんだような膨張感を覚えた。

 それはとどまるところを知らず、一瞬で自分の腹の許容範囲を超えた。

 らしい。

 むしろ腹だけではない。腹をはじめとした胴体の大部分が膨らんだように思う。

 つまり、自分の腹は、体は、内側から、爆発したように──

「う……気分が悪い……」

 言いようのない不快感。死臭をうっかり取り込んでしまったような、拒否反応を起こしながら何か摂取させられたような。

 つい想像してしまい、小さくえずいてしまった。

 喉の奥からオエッと小さく声がもれる。

 今思えばあの視界に映った赤は、自身の血液か臓器の破片、あるいはその両方なのかもしれない。

 ……気味が悪い。

 とにもかくにも、自分はあの『0:00』の瞬間に死んだはずだ。腹が破裂してるのだから、おそらく生きてはいられないだろう。

 多分。

 つい半眼になってしまう。死んだと思ったのに、痛みひとつなく生きているのだから。

 しかもごくごく普通に立っている。

 なんとなく服をめくって腹を見てみた。

 ……傷が見当たらない。

 傷を何者かがどうにか治した上でまたこの状況を作り出したのだろうか?

 それとも単に時間が戻ったとか──いやありえないな。

 なんなら前者の仮定も考えにくい。面倒くさすぎる。自分ならやりたくない。

 とにかく今の自分には関係ないことを考えていても仕方がない。

 もしかしたらさっきとは何か違うことが起きているかもしれない。

 そう思って自分の名前を思い出そうとしてみた。

 ████████ ……相変わらずのようだ。

 部屋をざっと見回しても変化らしい変化はないように見える。

 自分は一体何を忘れているのだろう? どこまでなら思い出すことができる?

 改めて自分に関わる記憶を思い出そうとしてみた。

 一般常識的な知識は一応あるらしい。

「あー、あー、あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとー」

 文字も手のひらに指でなぞってみたが問題なさそうだ。

 喋ることができる。書くことができる。

 しかし自分に関することが相変わらず思い出せない。

 人間関係に自分の生活、性格、住んでいたところ──

 ……まて、自分が今使った言語はなんと言うんだったか?

 どこの国のものだ? 何語なんだ?

「国」は分かる。でも自分がいた「国」がわからない。

 自分に少しでも関わりがある記憶は徹底して忘れてしまっているらしい。

 もうここまでくると「忘れている」のではなく「忘れさせられている」「元々知識がない」「違う記憶にすり替えられている」と思えても仕方がないな……

 自分には何が関わっているのだろう。

 そこまで考えて、ふと顔を上げた。

 タイマーは『0:09』を指していた。

「しまった! またやった!」

 自分の世界に入ると没頭してしまうのは染みついた癖か何かなのか!?

 なんだ、とりあえず名前、当てずっぽうでも適当でもいい、いやさっきの太郎だか花子だかは適当すぎたか。

 ええい! なんか頭に浮かんだ名前!

「かっ、かえで!」

 また赤を見た。



  ◆◆◆



「あ……?」

 気がつくと白い部屋に立っていた。

「なんだ、またこの部屋に……うっ」

 強い吐き気を感じて部屋の隅に走って座り込んだ。

 腹で逆流が起きる感覚。喉の奥で強いえずきが起きる。

 白い床にあまり見たくない模様が浮かんだ。鼻をつく臭いもする。だがまあ、体は少し楽になった。

「はあ……はあ……」

 少しでも綺麗な空気を吸おうと、自分は別の隅に這っていった。嫌な臭いが少し薄まった。

 袖口で口元を拭う。

 なんなんだ。なんなんだ一体!

 視界に映るのは白白白。ただひたすらに白。

 まだ隅しか視界に映っていないが、部屋全体が白いということは分かる。

 それで、部屋の一面にだけ文字が書かれた板とタイマーがあるんだ。

 その板には名前を答えろ的なことが書かれていて、タイマーは3分からカウントダウンを始めるんだ。そうに違いない。

 ──いや、今回は違うかもしれない。

 3度目の正直とかなんとかって言葉もあるし、きっと何か変化がある。

 そうだ! きっとそうに違いない! さすがにそろそろ変わり映えするだろう!

 そう思って振り返り、視界に映る壁という壁を見た。

 自分の目線より少し高いくらいに設置された白い板。そこへ一文字が片手を広げたくらいの大きさの明朝体。その下には文字が書かれた白い板よりは少し小さく、しかしサイズとしては大きく感じるタイマー。

 ──己の名を答えよ。

 自分がそれらを認識した瞬間、『3:00』と表示されたタイマーが静かにカウントダウンを始めた。

「あ……ああ……」

 やはり希望というのは儚いものらしい。これほどまで簡単に打ち砕かれるのだから。

 名前を思い浮かべようとしても、どうにも黒塗りになったようで思い出せない。

 うなだれて、そこで初めて自分の姿を見た。

 長袖の白いシャツ。薄手だ。

 履いているのは少しゆとりのあるズボン。これも白い。

 なんだこの服。

 見覚えがない。自分はこんな服を持っていただろうか。

 いや、自分が何を所持していて、どんな服装を好んでいたか思い出せないのだから答えなど出ないか。

 足には何も履いておらず裸足。

 とりあえず今の自分の服装に記憶がないのは確かだ。

 もうちょっと自分が身につけているものを調べようとして、チャラ……と耳元で音が鳴った気がした。

 左耳に触れてみると繊細な金属に触れた。耳飾りをしているらしい。

 それを外そうとしてあれこれ触ってみる。くるくるとねじのように回せそうな部品があったので回してみると緩んだ。ふんっ、と勢いをつけてそれごと下へ引っ張ると取れた。

 どうやらイヤリングのようらしい。

 全体的に銀色で、少し年季の入った風の加工がしてある。

「これは……梅の花?」

 丸っこいフォルムをした花だ。和風なものを感じさせる。

 その梅の花が大中小ひとつずつ、チェーンに段々になるように繋がれていた。下に行くほどサイズが小さくなっている。ゆらすとチャラチャラとチェーン同士がぶつかってかすかな音を立てた。

「誰がこれを選んでつけたのか知らないが……趣味がいい」

 いつぶりかは分からないが、久しぶりに少し笑えた気がする。

 左耳にイヤリングがついていたのだから、右側にもなにかつけているだろうか。

 そう思って右手で右耳に触れてみると、予想通り金属に触れた。ようやく予想通りの結果になって嬉しくなった。

 梅のイヤリングを床に置いて、右耳のイヤリングも外そうとした。どうやら左耳についていたものとデザインが違うらしい。金具の形も違うようだ。

 あーでもないこーでもないといじっていたらなんか取れた。

 見てみると先ほどと同じく全体的に年季の入った風のデザイン。

 固定部分がやや太めの輪になっていて、開いたり閉じたりする。

 ノンホールピアスというやつか。輪を広げて耳たぶなんかに挟むだけでオッケーなタイプ。

 そこに平たい勾玉のような形のものがふたつついている。

 ひとつは白。もうひとつは逆さになって黒。穴の色は逆だ。

 どうやらつなげると円の図形になるようだ。

 なんだっけ、これなんていうやつだっけ。日本の昔の術師が使ってそうな雰囲気のやつ。

 先ほどの梅のイヤリングはかわいい系だったが、こちらはなんというか、かっこいい系だな。こちらもなんか好きなデザインだ。

 これら、なにかヒントになるのだろうか。

 タイマーを見てみると『1:37』だった。今度は少し時間を消費しなかったらしい。

 そういえば、自分はどんな容姿をしているのだろう。

 何か鏡の代わりになりそうなもの……あ、タイマーの黒い画面ならば少しは映るかもしれない。

 あの画面は自分と同じくらいの高さにある。立って近づき、黒い画面に顔を覗き込ませた。

「う……ううん……?」

 あまり見えない。全く見えないわけではないが、ぼんやりとしてうまく見えない。

 やはり鏡でないから機能性が悪いな。

 ぺたぺたと手で触るだけではイメージを思い浮かべることは難しいし……ほとんど収穫がなかったな。時間を無駄にしたようだ。

 タイマーは1分を切った。大人しく名前について考えよう。

 耳飾りのデザイン……あれをヒントとして認識していいのなら──

「名前……梅……うめ……?」

 さすがに安直だろうか。

 途端、視界が暗転した。



  ◆◇◆



 気づくと白い部屋に立っていた。

 またか。

 自分は反射的に先ほどの気持ち悪さがまた襲ってくると思い、角に座り込んで目を瞑り、口を押さえて構えた。

「…………?」

 しかしいくら待ってもあの吐き気はやってこない。気持ち悪さの類もない。

 さっきの最後は視界の暗転だった。

 視界に赤は映っていない。腹が膨れる感覚もなかった。

「いままでとは違う……?」

 ということは、何か違う選択をしたのかもしれない。

 部屋を見渡した。しかし自分は落胆した。

 白い部屋。そのひとつの面に文字の書かれた板とタイマー。

 己の名を答えよ。

 文字とタイマーを認識したその瞬間、『3:00』はカウントダウンを始めた。

 やはり「梅」はただのヒントであり、答えではなかったか。

 と思ってふと、何かを思い出したような気がした。

 ████う█う█ ……

「名前の一部を思い出している!」

 どうやら「め」が答えにヒットしたらしい。

 もしかすると、該当する文字を含む単語を答えることで名前を思い出すことができるのかもしれない。

「いや、ならどうして最初の『たろ』はひっかからな……あ」

 花子の方に変えてしまったからキャンセルと認識されたのか。

「ああ……もったいないことしたぁ……」

 ガックリと肩を落としてしまう。2回も気味の悪いものを見なくて済んだではないか。

 過ぎたことを嘆いても仕方がない。

 とりあえず「う」は該当したが、「め」は引っ掛からなかった……自分の名前には「め」が入らないと考えてもいいだろう。

 これならなんとかなるかもしれない。

 とはいえ答えるチャンスは数に制限がある可能性もある。なにせ、間違えると死ぬ感覚を覚えるようなものなのだ。あまり当てずっぽうにやりたくはない。

 そこでふと、部屋を見渡した。

 そういえば、先ほどの嘔吐物が見つからない。ついでに異臭もない。

 両手で耳に触れた。金属の感触が指先に当たる。

 耳飾りはさっき外して床に置いておいたはずなのに。

 外してみる。先ほどと同じ、梅と勾玉の図形。デザインは全く変わっていない。

 袖口をみる。嘔吐した際に口元を拭った。だから湿っていているはずなのに乾いている。

 異臭もしない。それどころか無臭に近い。

 ……時間が巻き戻っている説濃厚か? いやまさかな。

 しかしわけが分からない力が働いているのは確かだろう。

 もっと考えなくてはならないことが多すぎてスルーしてしまっていたが、この部屋には光源がない。

 天井にはライトもついていないし、窓がないので光が入ってこない。

 そのため、いくら白が光を反射しやすい性質を持っていても光源がなくてはこの部屋は真っ暗になるはずなのだ。

 なのに適度に明るい。

 眩しくない。薄暗くもない。ついでに言うと暑くも寒くもない。

 おかしいことこの上ないのだ。

「……もういい」

 考えたとて意味のないこともあるのだ。

 それよりも名前だ。せっかくヒントを手に入れたのに活用しない手はない。

 ████う█う█ ……もしかして、前半は名字にあたるのだろうか。

「…………?」

 今、なぜ前半が名字だと思った?

 というより、自分に名字はあるのか? あったところでそれは名前の前半に位置するのか?

 しかし自分が感覚的にそう思ったのなら正しいのかもしれない。記憶はなくても体が覚えているとかいうやつの類だろう。

 それに、『己の名を答えよ』という問いかけには今まで名前のみ答えていたが、もし自分に名字があるならばそれも含めて答えた方がいいのかもしれない。

 ……難易度が上がった気がする。ヒントを得たのでトントンだろうか。

 タイマーを見てみると『1:19』になっていた。

 そろそろ時間がない。

 前半部分が思いだせない部分が大きいことから考えるに、もしかしたら名字部分は全く思い出せていないのかもしれない。

 間違い覚悟で何かヒントを得る方向でいこう。怖いけど。

「うみうし……うきうき……うみうみ……うーん」

 答える気あるんか自分。

 もっと名前っぽいやつ、ないか、何かないか。

「まうさうしさうしうん、さうまうまうまん……ふふふ」

 思考が変な方へ行ってしまい、呪文のような言葉が口をついてしまった。

「まうまうまん……あ」

 タイマーの数字が『0:00』を指した。

 視界が暗転した。



  ◇◆◇



「しくった……あ?」

 毎度お馴染み白い部屋。

 視界の赤も、気分の悪いものも訪れてない。

 自分はとりあえず視線を下に向けて目を瞑った。

 もし今まで通りなら、タイマーを見た瞬間にカウントダウンが始まった。なら見なければいい。問いを認識しなければ時間制限は発動しない。多分。

 このカウントダウンは静かに進むタイプだから本当に動いていないか分からないが、それでも時間がある方にかける方がいいだろう。

 とりあえず赤を見なかったのだから、何かヒントを得ているはずだ。

 █ん██う█う█ ……

「思い出せている!」

 たまには適当するのもいいものだな。割と文字数稼げたんじゃないか?

 今のところ、自分の名前に該当しないものは……

「最初に答えたのは『はなこ』……次に『かえで』、『うめ』、ちょっと思い出すのが不本意だけど『まうまうまん』……うう、なんでこんな答えにしてしまったんだ」

 かぶりを振って余計なことを頭から追い出そうとした。

「とにかく! 穴は埋められてきているんだ、もう少し考えたり何か調べたりすれば……」

 何を調べようか。

 部屋には何もないことはほとんど分かりきっている。調べるよりも無い記憶を探る方がよっぽど──

「服があるじゃないか」

 自分が今身につけている衣服。見覚えがないが、私物の可能性もある。何か思い出すきっかけがあるかもしれない。

 自分は振り返ってタイマーを見ないようにして、上着の裾を掴んだ。

 どうせ部屋には誰もいないんだ、恥ずかしがることはない。

 勢いよくバサッと脱ぎ、タグや文字がないか調べてみた。

 あわよくば記名されているいるとかないだろうか。

 裏返してざっと見てみたが、タグらしきものがない。ただひたすらに白い布……もとい服だ。

 え? これ既製品とかじゃないのか? 手作り? そんな生地には見えませんが??

 タグが切りとられているのかもしれない。縫い目を丹念に調べてみたが、そんな形跡はないようだ。

 まさか特注? いやそんなわけ……この部屋を見たら多少は納得かもしれない。

 ズボンも調べてみた。特に変わらずだ。

 いや、さすがに何かあるだろう! もはや半分意地だが絶対になにか見つけてやる!

 その勢いで下着まで脱ぎ、気がつけばすっぽんぽんである。

 なにやってんだ自分。しかも何も見つからなかったし。

 仕方ない、着よう……と思い、ふと自分の体に違和感を覚えた。

「なんだ……?」

 身体的特徴がない。

 とくに、性別を判断するタイプのものが。

「つまり、自分は、中性とか、なんとかいうやつか……?」

 それとも無性というやつだろうか。

 いやいやまてまて! さすがにそれはあり得ないだろう! 生物学的にもあり得ない!

 こんな生き物、自分は知らんぞ!

「まあ、その知らん生き物が自分なのだが……」

 見るに耐えかねてとりあえず服を着る。

 もしかして、自分が知っている記憶は何かに捏造されたものなのか?

 何か忘れているより、本当に知らないのではないか?

 もはや自分の記憶が疑わしい。

 もしかしたら自分が思い出そうとしているのは自分の名前ではないのかもしれない。

 そもそも自分には名前がないのかもしれない。

 何か別の名前を思い出そうとさせられているだけなのかもしれない。

「ああだめだ、思考が……思考がわけが分からなくなっている……」

 思えば先ほどから息が荒い。呼吸が苦しい。

 頭がうまく回らない。

 この状況も、記憶も、自分も、問いかけも、何もかも。

 全てが疑わしい。

「うう……あ……ああ……!!」

 じっとしていられなくなって、そのまま振り返ってしまった。

 ──己の名を答えよ。

『3:00』『2:59』『2:58』『2:57』……

「ああ……」

 動かしてしまった。

 意図的に止めていたはずのカウントダウンを。

「もう嫌だ……」

 自分が何をしたと言うのだろう。

 何か罪でも犯したのだろうか。

 それでも自分は覚えていない。

 覚えていない罪など無いに等しいではないか。

 罪があるなら思い出させてくれ。

 変に隠さないでくれ。

 どうして自分はこんなことをしているのだろうか。

 自分はどうしてこんなことをやらされているのだろうか。

 分からない。投げ出したい。

 もうたくさんだ。



  ◇◇◇



「ああああああああああああ!!!!!!!!」

 叫びながら僕は勢いよく顔を上げた。

「はあ……はあ……夢……」

 肩で息をしながら、額に浮かんだ冷や汗を拭った。

 何かとんでもない夢をみた気がする。

 まるで名前を取られたような夢だ。本当に居心地が悪かった。

 僕は普段つかっている椅子に座って、机に向かっていた。机にはいつも使っているノートパソコンが置かれており、画面は暗くなっていた。

 どうやら小説の執筆中に寝落ちしてしまったらしい。突っ伏していたから腕に跡が残っている。

 喉が乾いていることに気づき、机に固定しているドリンクホルダーからカップに残っているコーヒーを全てあおった。

「う……今飲むべきじゃなかった」

 乾いた喉に冷めて風味の飛んだコーヒーはきつかったらしい。僕はカップを持って立ち上がり、キッチンに向かった。

 カップは流しにつけて、代わりに冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してキャップを開けた。

 ごくごくと一気に飲むと、ペットボトルの半分を飲んでしまった。

「はあ……」

 ようやく少し落ち着いた。僕はホラー耐性ないのに。

 黒塗りで思い出せない名前。

 ████████。

 ████う█う█。

 █ん██う█う█。

「全く、こんな名前を忘れてしまうなどどうかしている……」

 おんみょうゆうみ。

 陰陽由実。僕のペンネームだ。

 耳飾りは確かにヒントの役割を果たしていた。

 右耳のものは「陰陽」を、左耳のものは「由実」の方だ。

 梅の花は梅の実──大きくまとめて果実の方を指していたのだろう。この「実」という字は、要約すれば名前の由来的に「果実」を指す意味を持たせている。

 ……どうして内容はさほど怖くないはずなのに、夢で見てしまうと必要以上に怖く感じてしまうのだろうか。

 いや、名前を失っているのだから十分に怖いか。

 この名前は結構気に入っている。全く、迷惑極まりない夢だった。

 机に戻ってペットボトルを置き、さてどこまで書いたかな、と思ってパソコンを立ち上げた。

 すると途中でやめた執筆画面ではなく、代わりに見慣れない、ホワイトアウトした画面が現れた。

「なんだ、これ……」

 バソコンがバグったか? バックアップはとってあるが、ここで執筆を止められるのはできることなら避けたい。

 すると、画面に文字が浮かんできた。

「己の真名を、答えよ……?」

 真名とはこの場合本名のことだろう。

 なんだろうか、寝ている間に誰かがいたずらしたのだろうか。

 それとも自分が覚えていないだけで、知らない間にこんなスライドを作ってしまったのか。

 とりあえずこの画面はいらないので閉じようとした。

 が。

「…………っ!?」

 部屋が白く、かなり狭いことに気づいた。置いていたはずの家具が何ひとつない。

 あるのは椅子と机と、パソコン……

 不意に、文字の下にタイマーが現れた。

『3:00』と表示されているのを認識すると、静かにカウントダウンを始める。

「なんでっ……!」

 ああ、名前が思い出せない。

 記憶にあるのは、自分で自分に与えた名前ペンネームだけだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い部屋 陰陽由実 @tukisizukusakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ