陸の幕 北神獣奉りし国――亀装鋼

吾子の誕生から……

一九四話 大鬼妖の驚愕と憂鬱


 驚いた。ただ、そればかりだ。なぜか、我が愛娘が親になったからにほかならぬ。


 他になにに驚け、というのだ。ジン。我の可愛い娘が母親になり、子を抱きしめて。あんなにも幸せそうに笑っておる。これ以上の驚きも幸福もない。ありえないであろう。


 ……しかし、ともすれば我は祖父になる。そうなのだろうか。それは大丈夫、か?


 血縁どうのはないが、静のいとの家系図に我が入るのを、静は歓迎するだろうが人間はわからないからな。嫌悪するか、難色を示すか。それとも、受け入れてくれるか?


 そうだといい。そうなってくれたら嬉し、……そう、か。我にも嬉しいという感情の波があるのか。てっきりそんなものは、喜怒哀楽と大分だいぶんされる感情のうち正のモノは我にありえないものとばかり思うておった。静の為に怒り、哀しみ悲しんだ懐かしき日々。


 だからこちらも、劣れども驚きだ。我が、喜ぶだなどと。この我が楽しく感じられるなどと。永き生の中で絶対的にありえはしない感情たちだった。無縁と言ってもいい。


 我は誰とも感情を共有したことがない。静がはじめて我にひとの生々しい感情を教えてくれた。静が感じるままに、静が覚えるままに……。人間を憎悪し、忌み嫌ったわ。


 あのコが、ずっと害されてここ後宮こうきゅうでようやくまともな人間関係を築けた吾娘あこは案の定あの男を愛し、あの男も静を愛し、結ばれて子を成した。奇跡のような出来事だな。


 この我にとってもそう思えるのだから静の感動も相応か、と思えば当人はそこほどでもないのか、はたまた赤子の世話に手一杯でそこまで気をまわせていないだけなのか。


 よくわからんな。静も、言ってしまえば人間であってあやかしではないのだから。


 我とは違う。そのことが無性に悲しく、淋しいのはただの感傷であろうて。そうでなくばこの、大鬼妖だいきようとも呼声よびごえ高くひとに恐れられた我がこうも振りまわされるなど――。


 ただ、捨てられ拾っただけの関係で満足していればよかったというに、あろうことか我は静を娘、と位置づけて呼んで大事に想って愛してしまった。後悔は、皆無ではあるもののなんというか、複雑だ。……複雑、か。単純に単調に物事を見てきた我が、なあ。


 阿呆あほうで愚かでくだらない人間など俗物ぞくぶつ、そう思っていたのに静があまりにも可哀想でならなかったが故にふところに入れてしまった。いつしか大事だいじになりすぎてしまったのだよ。


 静。我の愛しい娘。これから先の未来も笑っていてほしい、大切な唯一ゆいいつの、存在。


 このコの幸福をおびやかすものなど許さない。者であろうとものであろうと、絶対に許せるものか。ようやくなのだ。ようやっと心から命に感謝して笑ってくれるようなれた。


 そのことを歓迎したい。それはおかしいか。まあ、以前までの大昔の我からすれば奇妙奇怪奇天烈ですらあるか。それくらい我は人族をしゃに構えていた。くだらぬ生き物。


 ところが、どうだ。一度ひとたび、ひとりの憐れな娘を我が子として見たと思ったらここほど愛着を持ってしまうなどと。アレか、単純思考がすぎてしまったか。我としたことが。


 いや、後悔などない。我は我の愛し子を特等愛している自信がある。誰よりも、というのは自惚うぬぼれだな。今となっては静にとって一番は我が子と愛するあの男なのだから。


 ……。ちょっぴり淋しいぞ、静。親離れが早すぎる。そう思うのは我だけなのか。


 生憎あいにく、比べる相手も我にはいない。不明だから困ってしまう。さて、どうしたも。


「ぬしが静の中にいる鬼妖か?」


「む?」


「しっ、赤子の世話でくたばっておる今しか好機チャンスがないんぢゃ。察して応えてたも」


 それがひとにものを頼む態度か、こやつ。知っている。静をあのむらから救った天狐てんこユエだったか。さすが、高位こういのあやかしに属するだけはあるわ。この我に話しかけるか。


 静と一体になっている我に話しかけられている絡繰からくりなど易い。精神の隙間に自らの妖気を流し込んで無理矢理回路を確保しておるのだ。静が眠っている隙を狙って、な。


 軽く言うたが、実際は高難度の技法よ。体も心も委託いたくしている状態の我に委託先からこっそり道を結んでいるのだ。数百年程度のあやかしには曲芸の域であろうて。が、この天狐ならば、一〇〇〇と余年を生きてきた白面金毛九尾はくめんきんもうきゅうびきつねならば飯事ままごとに等しかろう。


 それこそ児戯じぎのように。やれやれ、我はまやかし好きな狐と話す趣味はないがな。


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