はじめての――と――

一四三話 生まれて、はじめて、私は……


 鬼面おにめんを胸に抱えて脱衣室をでる。……と、なぜかおまねきしていないお客様がいた。


 殿下。深刻そうな顔でどうした、とは訊かない。どうしたこうしたもないからだ。私は玄関げんかんで突っ立っている、待っていた様子の殿下を応接間おうせつまに通すように言って御前ごぜんを失礼させてもらった。身支度を整えないと、さすがに失礼だから。ユエに頼んで髪を任せた。


 月はまあ、納得いかない様子でいる。そもそも通す必要すらない、と思っている。


 そういう態度で私の髪を乾かしてかんざしで纏めてくれたので私は他の装飾品をつけていって物言いたげな月に眉尻を吊って口だし無用を伝え、殿下が待つ応接間へと向かった。


「失礼します。お待たせいたしました」


「いや、待ってなど……」


「それで、なんのご用事でしょう?」


 私のとげを含んだ対応、応答に殿下はぐ、と言葉を喉に詰めた様子だった。その殿下は律儀りちぎに立って待っていたらしく、椅子のそばでそわそわ落ち着きない。……まったく。


ジン、その……」


「言い訳か、それか弁明でしょうか。そのような無意味な音聞きとうございません」


 私が棘、どころか刃の如き言葉を振りかざしたら殿下は悲しそうに、悔やむように目を伏せた。なにを考えているのかおおよそ想像つく。勝手をして私に危険をもたらした。


 と、でも思っている。考えているんだろう。違う。見当外れもすぎる。本当に全然わかっていないな、あなた。私がどうしてここまで怒っているのか。なぜいきどおるのか、と。


 私の怒りの琴線きんせんを勝手想像して勘違いしている殿下が正しい答にたどり着けるか、考えて少し放置したが、殿下はまったくみたいで困ったことしょげている。私はため息。


 びくっ。殿下の肩が震える。とうとう私のかみなりが落ちる時が来たのだろうか!? っていう感じに。まあ、あながち間違いでもないわけだが、正確には、少し、違っている。


 私は応接間の戸を閉ざしてへやに入り、コツコツと沓音くつおとを立てて殿下のそばまでいって目の前に立ち、右手を後ろに引いた。殿下は殴られる予感を覚えた犬みたく縮こまる。


 ――ぺちん。軽い、音。少なくとも殿下が予想しえなかったくらい軽いひとの肌と手が触れる音がした。殿下が驚いて目をぱちぱちさせる。私は呆れも通り越して苦笑い。


「なんという顔ですか、殿下」


「静……? え、え? ええ?」


「殿下は、なにもわかってらっしゃらない」


 まったく困ったことだ、殿下。そんなことだから然樹ネンシュウ皇太子こうたいしそそのかされるんだろう。


 素直で、正直で、愚直ぐちょくで、まっすぐすぎてまぶしいひとではあるが、冷めて見れば直線的すぎるひとだ。だからからかわれる。だからゆがみが入った木性もくしょうの者と相性が悪くて。


 いいところ、であると同時に悪しき点でもある。そうは思いませんか、殿下? あなたはよくも悪くもまっすぐすぎるのです。だから、全責任を負おうとし、こんなふう。


 たかが妃嬪ひひんひとり、将軍ひとりのもとをおひとりで訪れたりする潔癖けっぺき御方おかた。わかっているひとはわかって、理解してくれるだろう。だが、世の中は理解者だけではないの。


 それも殿下ならわかっていると思うけどどうしてだろう? こうも私のことになると見境みさかいがなくなり、バカの制御が利かなくなるのは。いつもは聡明なひとだというのに。


 影をひそめて、隠れてしまってバカ全開しちゃうのは、どうしてですかね、殿下?


 そして、私が怒っている理由。本当にわからないのだろうか? だったら病気だ。


 んでいる。殿下は禁城きんじょう殿方とのがたとして生まれ育ちったでしょうにどうして私のこの怒りの真意を掴んでくれない。殿方は理詰りづめで言われねばせない、とでも言う?


「静?」


「――した、んですから」


「え」


「心配、したんですから……っ」


「な、え、へ?」


「殿下はお室にこもっていると聞いて安心していたのにそれなのに、いて。それだけでなく飛びだしていったりして、私のしんぞうを潰して殺す気がおありだったんですか?」


 あの時、戦場で殿下が現れただけでなく、敵将で皇太子の然樹に無策無謀極めて突っ込んでいこうとした彼を見て、胸が潰れそうになった。心が叫びをあげて臓が暴れた。


 罠がある。地中に兵を仕込むくらいだから当然にその手の可能性を疑える筈なのに一顧いっこだにせず、無謀を重ねようとした。あの時、私にあったのは「守らなきゃ!」だけ。


 それ以外はなにも浮かばなかった。どれほど阿呆あほうでもいい。「無能の尻拭い」と言われたって、よかった。皇后こうごう陛下が言っていたように。バカ息子の失態、と言っていた。


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